緊張しているときの体って、一体どうなっているのだろう? また、ピアノを弾くとき、脳はどう働いているのだろう? そんな自分の体のこと、皆さんよくご存じでしょうか?
おやおや、音大ピアノ科2年のP子が浮かない顔をしています。「アガリを克服するには、自分自身の体のこともよく知っておきたいでしょう?」1年先輩のF子はそう言いながら、仲良しの精神科医K氏のもとにP子を連れてきました。
〔註〕記事作成にあたっては、『脳と精神-生命の響き-』(2006年、慶應義塾大学出版会)を執筆した精神科医の川村光毅さんと彼の共同研究者(昼間)兼 飲み友達(夕方)にご協力いただきました。
音大生P子:先生、昨日の学校の実技試験、大失敗しちゃいました! 一生懸命練習したのに、緊張しちゃって。先生、緊張を減らす方法ってあるんですか?
先生:あれば苦労しないね。手っとり早く薬を使うか(笑)。
P子:いきなり薬っていうのも、ちょっと抵抗あるな。そもそも、緊張している状態って体では何が起こっているの?
先生:分かりやすく説明しよう。体には活動させるための交感神経と休息させるための副交感神経の二種類があって、「戦争」と「平和」にもたとえられる。緊張(テンション)とは交感神経が活発になった戦闘状態。この緊張は集中力や身体機能を高めている状態で、前向きで良い反応なんだよ。しかし、P子さんは、緊張がすぎて、交感神経が活動になりすぎてしまって、悪い影響が出たんだね。
P子:心臓がドキドキしたりするのも、交感神経が原因ね?
先生:そう。緊張して交感神経が活発になると、心臓の鼓動が早くなったり、体温、血圧も急に上がるため、動悸、汗をかいたり、震えたりしてしまうんだ。通常、交感神経と副交感神経はバランスをとっているから、こんなときは、副交感神経は元気がなくなってる。
F子:じゃあ、緊張しすぎているときには、副交感神経を刺激して、交感神経の働きを抑えればいいんだ。
先生:その通り! プロ野球選手が試合中よくガムをかんでいるね。図1にもあるけれど、ガムによって唾液が出る反応は副交感神経の仕事。これを活発にすると、緊張して活発になっている交感神経の働きを抑えて、リラックスにつながるんだ。
F子:へえー。でも、弾いているときにガムを噛むのは、キビシイかも。
先生:確かに。では、フレーズを歌いながらっていうのはどうかな? 唾液も出るし、味覚を刺激すると、副交感神経の働きは高まるんだよ。
P子:歌うように弾く、を実践するってことね。試してみます!
F子:よく、深呼吸すると落ちつくって言うけど、自律神経を調節して、交感神経を鎮めるのと関連があるのかな?
先生:そう、深呼吸すると、心拍数や血圧も下がるから、結果として落ちつくんだよ。鼻から息を吸ってお腹に息をためて、口からゆっくり息を吐くといいね。
先生:あがってもいいんだ、失敗してもいいんだ、と思うのも良いよ。
P子:そっか。緊張しちゃだめ、リラックスしよう、リラックスしなきゃ……って思っていると余計に緊張しちゃうもんね。その逆ってことね。他にはない、先生?
先生:いつもの練習だと思ってみたり、自己暗示をかけるとか。あるいは桂文楽ゆずりに、手のひらに「人」の字を3回書いてのみ込むとか。
F子:えっ、それって本当に効くの?
先生:緊張を生む条件を取り除くということ。他にも、以前成功したときの衣装を着るとか、カーテンの袖で先生に励ましてもらうとか。そうすると、緊張も減ってくる。でも、なによりも、練習、練習、練習だろうね。
P子:厳しい!ステージ練習も繰り返したほうが……、確かに慣れなんだろうね、先生。
先生:そうなんだけど、オリンピック・ハンマー投げの室伏選手によると、「慣れたら練習でない」そうだよ。また、心理療法/認知行動療法の中には、緊張(ストレス)状態に少しづつ慣れさせていく脱感作法という方法や、緊張の後にリラックスを条件付けるという手もある。
F子:こどもが緊張したときに、お母さんの抱擁を受けたりすると、リラックスできるのかな。童心に返ってショパンを弾けってことね?
先生:そう。それに何よりも、①〈まだレベル的に不十分〉であることの〈自覚〉をもつこと、②練習不足だという〈自覚〉と、③それにもかかわらず〈上手く〉弾いてやろうという「欲望」をなくすこと。
F子:そうするには普段からの・・・精神修養か!
先生:そう。お客さんと一緒に楽しむこと。敵ではない、仲間だ、といいきかせたり。演奏する場があってうれしい、ありがとうって気持ちになると、また違ってくるんじゃないかな。じたばたしないで、あきらめて腹をくくる(笑)。
先生:この間の発表で、緊張して、アクシデントでも起こったのかな?
P子:あるところで楽譜が真っ白になっちゃった。
先生:記憶の中断だね。
P子:それを防ぐ方法、教えて!
先生:次に弾く音符だけではなく、その次、さらに次のフレーズを呼び起こすようにしていくと理論上はいいはず。しかし、まだ楽譜を脳で必死にたどって、逐一運動野に指示しているレベルだったとも考えられる。そこを超えていきたいね。
P子:きびしいなあ。それにずっと集中を保っていくのも難しそう。
先生:でも集中力を鍛えるのも、練習のうち!とも言えるかな(笑)。〈対象〉である〈音楽〉に集中できないことが、〈あがり〉の最大の原因じゃないかな。これは何も演奏に限ったことではなくって、普段の行動・活動によくみられること。もっと積極的にいえば、いくらか〈あがる〉ことが、高揚した、いい演奏、講演や演技を作りだすこともあるよね。
F子:晴れ舞台のときに、人前を意識して、緊張して畏縮するのではなく、緊張して心身が引き締まり、集中力も増し、能力が発揮される場合かな。
先生:スポーツ選手によくあることだね。有森裕子さん千葉眞子さんや高橋尚子さんなど一流のマラソン選手を育てた小出監督にトレーニングのやり方を聞いてみたいね。
P子:接し方は選手の性格によるってきいたけれど、練習メニューは厳しそうね。
先生:普段の練習では細かい指示をだして厳しいかもしれないけれど、試合の当日は「全体をイメージして存分に走れ」位かな。その日の体調、気候条件、走るコースの状態、誰が一緒に走るかなどを考えて……。
P子:演奏も同じね、すごく参考になるわ!
先生:今度は、記憶が多少飛んだくらいで崩れないレベルの話へ進もうか。
まず、譜読み段階(Aシリーズ)から、脳の働きをざっと見ていこう。
A1)楽譜から音符を認識
A2)認識した音を響きとして脳内で再現
A3)該当する指でキーを押さえるなど、運動野(4野)へ運動の指示を出す
A4)出てきた音は耳を通して聴覚野(41、42野)に伝わる。
A5)伝わった音を感覚性言語野(39、40野)で意識して理解しようとして聴く
A6)連なった音がメロディーやフレーズとしてまとまると、今度は前頭前野(9、10、44、45、46、47野)で、その音の音程と意味合いを含めて認識していく。
A7) A2)〜A6)を繰り返すと、空間でとらえられていた動作が、運動系へと置き換えられる。
※A1)からA6)の繰り返し
P子:ただ聞こえてくる音と、意味をもった音に反応するのは違う脳の部分なんだ。面白いな。譜読みを終わったらどうなるの?
先生: 暗譜するまでは、譜読みする流れ(Bシリーズ)と、次にくる暗譜した後の状況(Cシリーズ)のどちらかが起こっている移行状態だね。やっと暗譜して、まだ練習としては不十分な状態だよ。
B1)長期記憶を司る側頭連合野(20、21、22、38野)からメロディーを呼び覚ます
B2)(一次)運動野(4野)に指示はするが、逐一というよりも、スムース(円滑)にメロディーと対応するキーに指が行き、押さえる
B3)音は内耳、脳幹を経て41、42野に伝わり、連なったところで39、40野で意味あい、ニュアンスも再認識されていく
B4) それがまた、前頭前野→高次運動野→一次運動野へと神経回路が進むうちに認知・理解と運動が結びついていく
※B1)からB4)の繰り返し
F子:暗譜した後だと、最初の音符を認識する作業が無くなって、運動野への指示も反射的にスムースになっていくのね。
先生:暗譜してさらに練習を充分繰り返して積むと、
C1)運動の指示は小脳に移動、小脳に任せられるようになる(練習の反復を、小脳が記憶していて、ほぼ自動で演奏に伴う運動が可能となる)。
C2)大脳では前頭前野を中心に、聞こえてくる音の連鎖、音楽として意味合いを深めて聴く
C3)前頭前野で創造的に考えながら、奏法の新しい試みなどをする余裕が生まれる。
C4)C3)を運動野、正確には実際の運動を起こす前に、その順序や判断などを準備し、企画し、決定することを司る高次運動野(6、8、9,32 野)に指示する。
※C1)からC4)の繰り返し
P子:運動の指示の大部分を小脳に任せて、余裕のできた大脳から追加の指示を出すなんて!
先生:このレベルに達した人、これがきちっと確立されているのがプロってことになる。プロでなくても、それに準ずるまでトレーニングを積んだということだね。あと、音符を一度に全部思い出していたら弾けないから、必要なところだけ次々に取り出して弾いては忘れて次を思い出しては弾く、といったこともしているんだよ(ワーキングメモリー仮説)。
F子:へえ〜! すごい。高度で器用! このレベルに到達するのに、個人差があるんだろうな。
先生:そう。到達しやすい人もいれば、そうでない人もいるんだよ。
P子:その差はどこから生まれるの?
先生:前頭前野と言語野(44、45、46野、39、40野)と、これらを含んで、皮質連合野全体*の活性化、つまり〈内聴〉がとらえる〈響き〉の感性だね。難聴のベートーヴェンは最晩年に弦楽四重奏の作曲に心血を注いだけど、彼の脳をイメージしてみたいね。練習して技術を磨くと同時に、勉強してアタマ(=知性と感性)を鍛えること。昔、歌声喫茶で「若者よ、体を鍛えておけ」という歌がはやったけど、「若者よ、頭を鍛えておけ、たくましい体が、すばらしい頭に、やさしく、支えられる、日はいつかは来る、その日のために、頭を鍛えておけ、わかーものよーー」。(笑)
*図5を参照
P子:そうします(笑)! 個性ある、感動を与えるような演奏をするには、どうしたらいいの? やっぱり、この前の試験で記憶が飛んだ理由についてもうすこし教えて!
先生:トレーニングと感性と集中力かな。試験で記憶が飛んだ理由は、ひとつには、まだ小脳に完全に任せられるレベルまで訓練が足りていなくて、記憶を司る大脳の側頭連合野(20、21、22野)に入れていた記憶、楽譜つまり音の流れを追いながら、それに伴う筋肉の動きの連鎖を掘り起こしながら、弾いていた。その記憶の流れがスムースに滑るための神経細胞間のシナプス*が、緊張、あるいは集中力が途切れて上手く作用しなくなったってこと。もうひとつは、小脳に大枠を任せてしまったら良かったのに、大脳で余計なことを考えて小脳の運動が邪魔されてしまった。ということかな。いや、チョット待てよ、「任せられなかったから、満足に演奏できるほどに集中できなかった」、と言い直そう。
*神経細胞と神経細胞の間隙
F子:かなり弾き込んだ曲で、(大脳で)余計なことを考えずに無心で弾いた方がうまくいくっていうのも、小脳に任せられるようになれば、破綻なくいくってことね。
先生:そう。理屈上ではそうなるね。小脳は「学習機械」と言ってね、間違った情報を訂正する、つまり、失敗した時に使われた回路を抑えこむことができる。だから、好きな楽器で反復して練習すると上達する。一度このレベルまで達すると、小脳中心で半自動的に演奏ができるから、大脳を含む回路の中で多少緊張の反応が出たくらいでは破綻しない。また、小脳を優先させると、技術的には安定しているが普遍的、没個性的な演奏になるし、もっと大脳を優先させるようになると、頭を使った味のある独創的な演奏になる。
P子:すごいね、人って。「好きこそ物の上手なれ」の科学的解釈!
F子:ほんと、でも、このレベルに到達するまでは最低練習しなきゃってことね!
P子:小脳での運動の記憶って、ちょっとやそこらでは無くならないのかな?
先生:人にもよるけれど、比較的長い間、残っているよ。小脳のもつ「長期抑圧」作用を利用した学習効果なんだ。
P子とF子:長期抑圧?分かりやすく説明して!
先生:小脳学校では先生を雇っているんだよ。その仕組みは実に見事で、延髄の下オリーブ核から先生が出張してきて、実習生の間違った情報(=入力信号)を長期間抑えこんで、いわば矯正指導してくれているんだよ。
F子:だから一度弾き込んだ曲を、しばらく経ってからでもさらっていくと、割と早く弾けるようになるんだね。
先生:水泳や自転車に乗るのと同じで、筋肉が衰えていなければね。
P子:確かに(笑)!
先生:笑うけどね、大事なんだよ。感覚刺激が脳に入って、そこで思考や情動がはたらき、その結果が筋肉の活動となって表現される。そして、感性、情念、情操、Emotion の表現、これがないと、芸術性がなくなるということかな! ではここで、情動には脳どのあたりが関係しているか図に示そう。
F子:舞台で演奏していて、弾いている途中で音楽に合わせて気分がのってきたりもする。自分の体調とも関係するのかもしれないけれど、不思議。どうなっているのかしら?
先生:いい質問だね。 練習のたまもの、その成せる業(わざ)。脳全体がつながって、神経もホルモンもはたらいて、認識・運動・情動・覚醒・リズムと脳の活動が全身全霊にゆきわたる。あたかも天上の(ラファエル、ガブリエル、ミヒャエルの三天使の)序曲の如くに(ゲーテのファウストより)。 聴きながら奏でている音楽に浸って心から共感している場合、弾いている人の脳内では、シータ(Fmθ)波が出ている可能性があるね。ポリフォニックな音楽を演奏しているとき、前頭前野にこの波が多く出るという研究もある。
F子:な―る(「ほど」がでて来ない)。
P子:とある人の演奏を聴いて、美しさのあまり、感動してしまって涙を流したこともあったな。他にも涙を流していた人がいたの。
先生:聴いた音楽の美しさに感動して、それが極まった結果、涙を流す反応になった。脳内では連合野(認識・能動的行為に関わる)と辺縁系(感情や情動記憶に関わる)が結びついて、自律・ホルモン・感情の中枢の視床下部にも火が付いて活動のボタンが押された!
F子:同じ曲で同じ楽譜を見て弾いていても、演奏は人によって全くといっていいほどちがう。解釈や弾き方の独創性とでも言ったらいいかしら。これは脳のどの辺が関係しているの?
先生:創造的な作業を司るところは前頭前野と言われているけど、認知機能は後連合野(=頭頂、側頭および後頭連合野の総称)、感情や情動記憶は大脳辺縁系(=扁桃体、海馬、帯状回、視床下部など)、リズム機構は脳幹部など、一応分けて説明するけど、図5に示すように脳全体が関わっているんだよ。
P子:といっても、大脳新皮質が一番大事なんでしょう?
先生:そうだね。われわれが音楽をエンジョイできるのは、新皮質が大きく発達したからなんだね。ゲーテの言葉にこんなのがある。「音楽を好まない者は人間の資格に欠ける。好きなだけではやっと半人前、打ち込んで身につけてこそ一人前」。分析や解釈は、大脳皮質連合野でおこない、その結果を運動野に伝達し、指その他の筋肉を動かすことになる。音を出して聴きながら、筋肉の運動を微妙に調整しながら音楽にしていく。名ピアニストの演奏を聴くと、同じ曲でもこうもちがうのか、と驚いたりするよね。
1 小脳に任せられるレベルまでの練習を積み重ねる。自在に弾けるから、自ずと自信も生まれるし、弾くのが楽しくなる
2 あがってもいい、失敗してもいい と思う
3 なるべく本番と同じ条件(プログラム、ホール、お客さん 他)で場数を踏む
4 練習と同じと思い込む、お客様はジャガイモだと暗示をかけてみる、「人」をのみ込む
5 何かラッキーと思えるおまじないを作ってみる(ラッキーカラー、衣装、お守りなど)
6 緊張してしまった後で安心感を得られる工夫をする お母さん、包容力のある人、信頼感のある人(先生、コーチなど)、安心する人に接するなど
7 メロディーを歌いながら弾いてみる
8 お客さんを敵だと思わず、仲間だといいきかせる
9 ステージで演奏できてうれしい、この場で音楽を演奏できることを感謝する
10 ①〈まだレベル的に不十分〉であることの〈自覚〉をもつこと、②練習不足だという〈自覚〉と、③それにもかかわらず〈上手く〉弾いてやろうという「欲望」をなくす。
11 最後に箴言(しんげん)をひとつ。Nosce te ipsum (=know thyself、汝自身を知れ) 。自分がどの程度に「あがる」かを知ることで、日常のトレーニングを通じて「あがり方」をコントロールできるようにすること、つまり〈自己〉を〈さらう〉こと。これも演奏家には大切な「練習」だね。
Chopin February 2007, No. 277, 20-26頁、 「ピアノ音楽誌ショパン」 より許可を得て転載。