Ⅱ『中世』

§歴史的批評と幽玄の文学論
§幽玄美を中心とする諸見解
§有心美の文学論
§心と余情との関係
§有心美の成立
§歌論に於ける平淡美と素撲美と官能美
§為家の歌論に於ける平淡美
§為兼(京極為教の子)の歌論に現れた素撲美
§中世に於ける文化評論の理想の進展
§連歌論の発生
§幽玄美の妖艶化と平淡化
§歌論と能楽論との関係
§文学論の集成と伝統的な文学論

概観
1、宗教的傾向と伝統的傾向
2、類性・普遍性(個性・特殊性よりも)

○文学評論の理念
 ・歴史性の自覚・幽玄美・有心美・素朴美・妖艶美・平淡美・優美

§歴史的批評と幽玄の文学論
○中世初期の文学評論を見ると、六條家により次第に進展して来た新しい傾向が基俊等の保守派の傾向に見える沈静味を取り入れて、俊成により幽玄論が成立し、更にその幽玄論が定家によって有心論と展開し、そうして更に有心論が平淡(美)の歌論を生み出す→主潮がある。

○古来風体抄 俊成(享年91才)
 万葉~千載集までの撰集の批評、及是等の秀歌
○無名抄     長明
 歌に関する断片的説話

俊成の風体抄における勅撰集歌風
 ○万葉集
 ○古今集 ・・・よきあしきを選んだ批評的態度にいでた所に仰ぎ信ずるべき所がある。(俊成の理想)
 
 ○後撰和歌集(梨壺の五人)
  古今調
 ○拾遺和歌集
 変化
 ○後拾遺和歌集「たけが下った」と彼日。
  「をかしき風体」→機智を弄したる意
 
 ○金葉和歌集 
  「時の花ををる心が進む」曰。
 ○詞花和歌集
 曰。「あまりにをかしきさまのふりにて、ざれうたさまの歌多し」
 
 ○千載和歌集(俊成)
  彼の理想は古今集であり、金葉・詞花集などのきわめて大膽な表現を排して古今集の立場に復帰しようとしたものであり、その立場に立ったのが千載集であると彼は稱えて居る。
[注]以上、古今集より、新古今集を加えて八代集という。

○俊成の古今集復帰を志しながら、古今に比して一歩異なる境地に進んでいる点を認める。彼の歌に対する新しい開拓。
○たけ高し
 率直な旦壮大なる感情のある歌。
○遠白し
 大きにゆたけき意(壮大)なり。
○心細し
○姿さび  前の「たけ高し」「遠白し」に対して繊細な味をさしていると思われるである。「細く」の方は心or気分情調の方を主としてさし、「さび」が姿即表現の方をさしたものと思われる。

◎幽玄の意義
こういう理念を統一して作られたものが幽玄であった。余情幽玄。
○俊成に於いては、幽玄は、歌の素材に於いてのそれではなく、すがた、風体等のそれであったと言われる。
○~こうして見ると、俊成の意味した幽玄は、相当に複雑した内容であり、心細しや長高しというような繊細と壮大との何れをも含んだ境地をさしている思うのである。
夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里(自讃歌)
○幽玄のもつ歌の感情が花やかであるよりは、沈欝であり深みのあるのは、時代の宗教的感情から自ら影響された。
○夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里(俊成)
○心なき実にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(西行)
*幽玄の境地は一致しているようであるが
*西行→自然を放浪してこの境地を得た。(体験的)
*俊成→静かな夜桐火桶をかこんで沈思して得た。
*長明は西行にくらべると、反省的な傾向が多く、文学意識的な所が多い。

◎俊成に於いて、あはれという伝統的な境地をすすめて、さびや細という境地に至り、それにたけ高し、遠白しという観念を加えて、歌の理想としての幽玄を完成した。

§幽玄美を中心とする諸見解
◎八雲御抄(順徳天皇)
一、風情を主とすべし
二、心を主とすべし
三、思惟の態度

§有心美の文学論
定家の著書
 選定 ○新古今集、 ○新勅撰集

○定家の解する有心美は、歌に於ける普遍性と特殊性との両面があった。即ち、
普遍性→心ある歌。素朴よりも表現を通じて見られる気分情調を有する歌を、普遍的な意味で歌の理想とした。
特殊性→妖艶美を有心美の理想とした。
*かくの如き意味を有する有心美は、俊成等の主張した幽玄美とは普遍性としての気分情緒を尊重する点では一致しているが、特殊性としての妖艶美を重んじた点は、必ずしも幽玄美から発展的には見られず、寧ろ対立的に存するものであった。
○定家の十体論から(分類四つに)
 有心体(最も重んぜられている)
(一)表現態度 見様・濃様・拉鬼体
(二)知的内容 面白様・有一節様
(三)感情内容 麗様・長高様・幽玄体
(四)歌の統一的理念 事可然様・有心体
 興つ風吹にけらしなすみよしの松のしずえをあらふしら波
 落たぎつ八十氏川の早き瀬に岩こす波は千代の数かも(←流布本近代秀歌の内に)
○  これらの歌をすぐれた歌としてあげているのは、是等によって有心体と考えたのであろうが、 三五記には
 津の国の灘波の春は夢なれや蘆の枯れ葉に風わたるなり
 をあげている。

古今集序以来 
 "心" 歌の理想

  余情(公任)
   長高し・姿さび・心細し
  沈潜せしむ
  幽玄(俊成)
 統一・整理
 十体論  (現象)
 「心有る」有心論(定家)象徴主義的立場完成(妖艶美)
 (本体)  妖艶(定家の求めた特殊性)

妖艶美を理想としている。
幽玄美が余情のある歌であり、同時に無意識的ながら静寂美を美の特殊性として重んじているのと相対立しているのである。

§心と余情との関係
○有心美の心と幽玄美の余情とは、共に、形態を通じて見られる心である所に一致する。歌の要素を素材と形態と内容とに分ける時、素材よりも内容を重んずる点に於いて心と余情とは一致する。何れも言外の余情・気分情調である所に同一性を有する。ただ余情の方は、それをあまりの情とする所に、素材としての意味をより多く認めているに対して、心の方は、素材を無視して、気分情調のみに中心をおいたとみられる。(表現を重んじ、詞のつづけがらを重んず・・・有心美)
  美化・芸術化
◎  純粋の写実を求める心から云えば、恐ろしきものは恐ろしく表現してこそ真に徹する理であるが、それでは歌ではあり得ないという所に心を尊重する定家の芸術主義的立場を見ることが出来る。それは、世阿彌の物まねや、近松の芸術論や俳諧の虚実論などと一致する考えである。
◎  あはれもしみじみした哀愁よりは妖艶という花やかな方面に傾いてきている。
◎ 定家は、
詞 古き詞  古今集
  理想
情 新鮮 古今集にみられなかった余情妖艶の情
"心"はかなくやさしき感情 優雅な詞=古い詞

新古今集 (定家)
 見渡せば花ももみじもなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ

千載集 (俊成)
 夕されば野べの秋風身にしみて鶉なくなり深草の里
を比すれば
 定家が観念的に表現しているのに対し、俊成の客観的な自然観照を見ることが出来る。
妖艶 (恋歌)
 かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影にたつ

§有心美の成立
幽玄 沈潜思索(俊成)
 体験的(西行)
後鳥羽院 西行と賞讃
 中世文学思潮の次第に幽玄の思潮を中心として、宗教的沈潜の傾向を示し来ったのであり、・・・その傾向に対して定家の立場はむしろ異端的のものとして考えられたのではなかろうか。

○  新古今集時代に於いて文学を産出した種種の思想の内で著しいものは、新古今集を生出した思想の外に、平家物語を生んだ思想と、実朝を生んだ思想がある。平家物語を生んだ思想は、動的な力の精神であるが、その間に静的な「もののあはれ」の精神との対立が見られる。この二つの対立するところに無常観が生まれる。戦争と平安時代式女性の詠嘆との結びつく所は無常思想であった。・・・
 どこを見ても統一しきれない不調和さがある。宗教に於いても浄土教に対して禅宗、殊に日蓮宗の如き異なった宗教がおこってくる。すべてがそういう時代である。・・・
 恰度自然主義文学の時代に谷崎氏の唯美主義の文学が起こったように、定家は俊成流の流れの影響うけながら、自然色彩の異なった文学を創造したと見られる。・・・
 そうして定家流の歌はその時代に於けるむしろ異端的であったのが、定家の大きな力にむしろ圧倒されてそれが本流となってしまったのではなかろうか。・・・

○かくして、この正徹や世阿彌に於いては幽玄の意味も、俊成のいう幽玄よりは、定家の有心体に近いものであったのである。

§歌論に於ける平淡美と素撲美と官能美

○実朝が定家の教えを受けながら、一度万葉集を得るや匆ち、その傾向から離れたのは、定家の到達した芸術至上主義が既に真の人生を求めるものにとって、不満を感じさせたことを示す。

○文学形態の文学的自覚を導出したと共に、文学的内容として素撲美(万葉の精神)・平淡美(古今の立場)・官能美(新古今より導き出された精神)の三方面に分化さる。

*中世・文学形態論の自覚
○歌論  ◎鎌倉時代 二條・京極 活動
○連歌論 ◎室町時代 二條・冷泉 対立
○物語論
○謡曲論


   四辻義成―一條兼良
  浄弁    宗祇
  兼好 経賢―○―○―○
  二條為うじ氏―為よ世 頓阿
  耕雲 二條良基
定家  為家  京極為教―為かね兼
    為尹
  冷泉為すけ相―為秀    正徹 心敬
    今川了俊
   ○―○―○  細川幽斉
    肖柏
   肖柏
   宗碩  林宗二
   兼載
○歌の家の分裂  宗良
  為氏―為世(二條家)(大覚寺統)
定家―為家  為教―為兼(持明院統、玉葉集)
  為相(冷泉家)

○二條家は終始平淡美を主張し"野守鏡"を出すに至っている。又、鎌倉時代の京極家、室町時代の冷泉家は、素撲美と官能美とを代表しているように見られる。官能美は定家の有心美をそのまま継承したのであるが、中世の前期には余り意識的には表れていないと思う。ただ二條派に反対して、素撲美を重んじた為兼の立場に見られるにすぎぬ。むしろ室町時代に於いて定家を真に理解した耕雲・正徹等によってとなえられたと思う。

§為家の歌論に於ける平淡美
○定家の子為家に至っては、その平淡美が先づ歌風の中心となったのであり、その態度が"野守鏡"をへて、中世の後期の頓阿、兼好にまで至ると思われるのであり、次第に道の文学となった。近世に至っては、俳諧の鬼貫の俗談平話説となり小澤蘆庵の「ただことうた」となったのである。そうしてこの立場は心の鍛錬を主とする所から道徳や宗教の要素を含んでくるのである。
◎ 先づ為家に於ける平淡美の考察より、
 詞少くいひたれど心深ければ多くの事もそのうちにきこえて詠みたるもよきなり。
○習熟の結果詠む。
○・・・この稽古を重んじた事は、歌が自ら真情のあらはれるよりは、修行によって、歌の道を開拓しようとする態度が見えるのであり、そこに歌の道のつくられるのを示している。
a、一体顕詠 b、制禁の詞
*型に入れる事は、結局奔放な創造をしりぞけるが故に、平淡美と結合するのである。

詞なだらかにいひくだし、さよげなるは姿のよきなり。
○定家に於いては、その巧緻なつづけがらの上に心を現そうとしたのであり、為家は、その巧緻な態度をすて、なだらかなつづけがらを重んじたのである。
 ―妖艶美と平淡美との著しい相違。―
○ともあれこの親句・疎句の考えによって、為家の平淡美がかすかな味を求めて、後の俳諧のさびにも結合する。
○野守鏡に現れた平淡美
 ○二條派の保守的傾向の流
 ○宗教的な道の方面に結合(平淡美の立場と必ずしも調和されているとはいはれぬ。)  
   完全に調和す。
 兼好・頓阿など

§為兼(京極為教の子)の歌論に現れた素撲美
○然らば為世や野守鏡の平淡美に対し素撲美が如何に現れるか。
 ○仙覚の万葉研究派の流れ
 ○京極為兼
○旦 為兼の所説の中に後の耕雲・正徹・心敬に於いて完成した官能美の萌芽をも見出したり。

◎為兼(京極家)
 玉葉集の選定、 万葉集の歌多し
  万葉的
○為兼の歌に対する立場は、為世派の平淡美に対し、素撲美の立場にあった。 二條派の為世が、伝統を守って、それから一歩も出ようとしないのに対して、そういうものから離れて、自己批判、自己の実感を重んじていた。
○・・・仙覚が万葉研究により、實朝が実際の作歌によって示した万葉復古の精神をば、為兼は、歌論の上で言っているように思われる。
○何れも定家に対するものであるが、平淡美と素撲美とは、同じ人生的傾向といっても一方は原野的な人生であり、一方はあくまで洗練された人生であり、道の生活であるのである。それは原始生活と中世の宗教的生活との相違であるが、何れにしても人生的傾向の多いことは、疑われない。その人生的傾向の中で、この素撲美と平淡美とを、それぞれ重んずる二つの傾向が対立的に論争したことは注意すべきである。

○要するに為兼の態度には、一面には万葉的素撲美に対する憧憬と同時に、官能美を重んじて、そこに自由な中に芸術的なものを求めたと思われる。換言すれば人生的傾向と芸術的傾向とをば結びつけて、そこに歌の理想を見出した。それは、定家の立場に見られる芸術的傾向と実朝に見られる人生的傾向との対立をば為兼に於いて、結合調和したとも云われる。

§中世に於ける文化評論の理想の進展

  一、宗教の方便としての文学
文学の宗教化 
  一、文学の宗教的立場

 中世に於いては、文学を宗教の方便とする立場があると共に、文学を宗教とする立場が一方に存したのである。
◎徒然草に表れた道の概念
 文学評論と云う立場から見ると、徒然草には、種々の態度が交錯して居るのを感ずるのであって、王朝時代の「あはれ」と、有識、中世的な儒佛老荘の広きにわたっているが、それを一貫しているものは、道の意識であると思う。・・・
 彼の文学観そのものが道というべき信念の上に築かれて居るのである。・・・兼好に於いては、この道が必ずしも論理的ではないが、体験の真実さを以てとかれている。

道の意識と型
 百五十段、百八十七段、百七十四段、百九十三段、四十九段
 これから想像してくると、

○兼好が道ということを重んじたことが知れるが、所謂道なるものは、一つの型に入れて精煉し、統一したものであり、そこに普通の非家とは異なった境地に至るべきことを認めている。
・・・余情論という意味に見ると気韻生動と近い意味になる。この気韻の生動することに於いて、型の中に押し込められた芸術や生活が再び元の生命を再現するのである。兼好の芸術観もこの点を強く説いて、そこに名人とか専門家とかいうものの尊さを見出しているのである。・・・
 目にうつり心に感じた事をそのままに現すのは、芸術の本質からは遠いのであって、それを純化し、統一し、単純なる型の中に入れて、表現するときに秀れた芸術となるのである。
  おそろしき猪もふすゐの床といえばやさしくなりぬ
 醜なるものを美化し、恐ろしきものを優美化するところに、歌の本質あり。即ち、感情なり、事象をそのままに表現するのではないという立場にあるのであって、定家のいったはかなきという立場をとっているとも見られるのである。
○巧緻な技巧をすてて淡いとう境地に近づいた。
○心を沈潜させるとともに形を整へることをとくのであり、恋愛を否定すると共に肯定するのである。それを矛盾とする立場もあるが、それは型に入って型から出た自由な態度であったとも言はれるであろう。

当時の和歌四天王
 頓阿(二條正統)・浄弁・慶雲・兼好

§連歌論の発生
連歌は上代から行れ、鎌倉時代に至り極めて盛んとなり、室町時代に於いては、和歌が生命を失って来たに対して、連歌が勢力を得て来たのであって、従って連歌論といわれるものが行われた。
 ○良基の筑波問答
 ○心敬のささめごと
 ○宗祇の吾妻問答
○良基により莵玖波集が選ぜられたのに対して、宗祇により新撰莵玖波集が選ぜられている。
○宗祇自らも、連歌も和の風情を離るまじきといって居る如く、その根本の態度を歌から得ていること自明なり。即ち本質論から言うと俊成・定家の幽玄・有心論は有心連歌の本質であったのである。
むしろ良基によってたてられた連歌は、その本質を和歌的本質と結びつける事にあったのではないかと思う。

§幽玄美の妖艶化と平淡化
正徹と心敬
とは、中世の歌人連歌師の中で最も個性のあざやかな立場。
正徹の方は寧ろ歌人として立ち、心敬は連歌師であるが、またすぐれた文章家。共に僧侶。
○室町時代の文学が伝統を尊重するに拘わらず、実際の勢力は歌の家の直系としての二條・冷泉家から離れて、僧侶、政治家、武士の手に移っている。これは能楽の世阿彌・禪竹が、社会的地位の低かった芸能の家から出ているのと相俟って甚だ注意すべきである。

○正徹   妖艶美 心敬   沈潜的なる美

○今川了俊は歌の出発点としての素撲美にかえる事によって、正徹・心敬によって更に展開さるべき幽玄の妖艶化と平淡化との清新な基礎を与えたと云うことが出来ると考えられる。
○正徹  ○心敬
 正徹物語 ささめごと
 なぐさめ草  老のくりごと
 草根集  ひとりごと

○正徹に於ける幽玄の妖艶化
正徹が冷泉派の了俊に師事はしたが、更にそれ以上に出て、定家に中心を於いた。
我は為秀郷・了俊の末葉に侍れども歌はただ定家、慈鎮のむねのうちを直に尋うらやみ侍り、くだりは亡たる家の二條冷泉をばしたひ侍らず。
○正徹の幽玄は俊成のいう幽玄よりも定家の有心体に大体に於いて等しいのである。即ち、妖艶美と言うべきものを幽玄そのものと解したとみられるのである。
彼曰、「つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物なり」古典の世界で、禪録の代りに源氏・枕を耽読した芸術的態度。

○心敬に於ける幽玄の平淡化
相違
新古今のみを重んじたのみでなく、万葉をよむべきをといている。宗教化。体験的
○斯如、幽玄の境地は修行道によって得た宗教的道であったのである。所謂平淡美は表現は平淡であるが、心の深さを根底とする所に宗教化と結びつく。

*そうして、正徹・心敬の各傾向が根本的な相違を有するに拘わらず、共に幽玄という名のもとに呼ばれている所に、幽玄の意義の変遷が見られる。

§歌論と能楽論との関係
○能楽論について
 正徹と心敬との立場は能楽論に於ける世阿彌と禪竹との立場に相応するものと思う。そうして同時に両者を一括して能楽論を考えるとき、それは定家以来更に貫之以来発展して来た歌論と非常に深い関係があることが知られる

世阿彌十六部集 ・禪竹集
花伝書
能作書
申楽談義

○正徹と世阿彌とが大体同一の傾向をとって、最も芸術的立場をとり、それが更に心敬や禪竹によって禅宗的影響による人生的傾向が起こって来たことも時代の影響大なり。応永までは、南北朝も合一し、国内も比較的安泰し、文化が咲き誇ったのである。そういう機運が先づ、二條良基の鼓吹により連歌道の上に栄えたのであるが、更に正徹や世阿彌をも生み出したのである。・・・そうして次に起こった応仁の乱時代を背景として居る心敬と禪竹とが、宗教的傾向の強くなったこともその点から説明されると思う。

世阿彌のものまね
 ものまね(写実)
  一致
 ゑそらごと(非写実)

○彼の言の中には、高貴なる観衆という鑑賞者の立場を顧慮した点もあろうが、その根底に於いてものまねが芸術の根本でなく、別に能樂の本質を認めて居った。
○写実的理想主義or客観的主観主義ともいうべき日本の文学観の継承である。
○素撲美 対象をそのままに見られる。
○近江猿樂が幽玄から入って物真似を次にするに対して、観阿彌、世阿彌の大和猿楽が物真似から幽玄に至ろうとする所に、素樸な出発点に帰っていると見られる。

花とかかりとの関係
○この面白しと見るは花なるべし 花伝書。
○清新さと、同時に面白さを存することを花として、これを物真似より以上の本質としている。
○世阿彌が花を尊重したということは、彼が新古今集、若しくは定家や正徹と同じように芸術的傾向にあったことを示すものであり、世阿彌はかくて、実ともいうべきものまねよりも、花をより重んずることによって、その芸術的な立場を闡明したと思う。
○花というのは変化であって、一から他のものに移り変わることによって生ずる珍しさである。 芸術の流動性。

時分の花 真の花  同様に尊重する。
○この時分の花と真の花との区別は、後に芭蕉のいった流行性と不易性とに似ている。

○花の方は表現方法よりは、その表現された美のみをさして居り、かかりの方は表現の方法、もしくは実際的具体的方面をさしている様である。

○花とかかりとは表現の一般的効果とその具体的表現方法との相違はあるが、その表現美をさした者であり、且 変化性流動性を特質とするものである。
幽玄
さうして、世阿彌のさす幽玄は、私見では、歌論の方から来たものであろうが、長明や俊成のさす幽玄とは異なって、正徹のさす幽玄の意味と大体同一であり、従って定家の有心論さす意味と同様であるとみられるものである。
  *・・・然らば唯美しく柔和なる体幽玄の本体なり、(幽玄なる文字の変遷)
花 美の流動性

幽玄 美の不易性 真の花(老年に残る花)芸術美

禪竹の能楽論
○同時に禪竹の立場が花よりも実を重んじる点が、能楽論の本質に於いても世阿彌の立場と重要な相違点を有することを示すものである。
○ものまねを殆ど顧慮しないことは、禪竹の能楽論をして世阿彌よりも単純にし且つ、狭くしたものであるが、花を比較的軽く見たことは、幽玄そのものの解釈を世阿彌と異にした。

§文学論の集成と伝統的な文学論
兼好や良基によって文学道という意識が明瞭になり、さらに正徹や心敬、世阿彌、禪竹等により文学論や芸術論が深くほりさげられて来た。
正徹や世阿彌に於いて、芸術的豊麗の立場となったのが、応仁の乱などを境として、内観的になり、幽玄も物の本質的に見られるようになった。 こういう展開を見た中世後期の文学評論の最後の集成を行ったのが宗祇であった。
○水無瀬三吟百韻  ○新撰菟玖波集 ○吾妻問答
○芸術味よりは人生的傾向 
○一生を旅に費やす。
 自然に対する愛
 彼の文学観確立。
○宗祇はその形式上に於いて常に定家を中心。 古今伝授。
 源氏物語 宗祇以後定家の青表紙本有力となる。
○伝統的美を尊重

  固定化
連歌法式 連歌論に向かって破壊的意識と明示し、滑稽と卑俗味 俳諧体の連歌の創立。