Ⅳ『最近世』

§啓蒙的文学評論に於ける素材主義と功利主義
§小説神髄を中心とした写実主義
§写実主義と理想主義との対立
§新体詩
§俳論における写生
§戯曲論
§浪漫主義文学論の衰退
§自然主義的文学
§反自然主義的文学論

○評論が創作に先だっている。
 明治文学の開拓者というべき坪内逍遙の作品が常に文学論をたてて、その立場を證明すべき為に創作をなした観のあるのは、小説神髄と当世書生気質、新楽劇論と楽劇との関係においても見得る所である。

第一期 初年~18年
第二期 18年(小説神髄)~30年初
第三期 30年中期~末期 自然主義的思潮

 ○明治 四・五・六年頃・・・日刊新聞刊行。
 ○明六雑誌(森有札を中心)6年組織、7年刊行
 ○硯友社 18年春 ○女学雑誌(巌本善治) 
 ○我楽多文庫 18年5月 
 ○国民の友(徳富蘇峰)20年
 ○柵草子(森鴎外中心)21年
 ○新小説(紅葉の系統)21年
 ○早稲田文学(逍遙等)24年
 ○文学界(透谷等)26年

§啓蒙的文学評論に於ける素材主義と功利主義
○素材主義
 明治初期の文学観に於いては殆ど表現ということは認められず、ただ素材に最も力を注いで居った思われる。
○功利主義
  政治小説、翻訳小説
○或いは、政論を発表する為であり、或いは人情風俗を知らしめ、科学的知識を知らしめもしくは教訓的である等の相違はあるにしても、何れも小説によって何らかの利益を予期していたのが明治初期の小説観。なお、明治初期の小説観のこの功利的立場を、近世の勧善懲悪に比すると、その文学を第二義的に見て居る点に一致する。
○新体詩論
 明治十五年に矢田部・外山・井上氏等によって新体詩抄が作られたことは、文学的の価置は第二としても新しい詩形を一般的にした上に文学的史的意義がある。
○近世末期から明治にかけて景樹の桂園派のみが行われて、歌はただ優美なる調を以って表すべきであるという考えが支配していた時代に、伝統的な歌から離れて平常の語を用うる可き。
○古今集尊重さる。
 桂園派 八田知紀の系統から出た御歌所派

§小説神髄を中心とした写実主義
○小説神髄 坪内逍遙
小説は美術である所以を論じている。小説の新しい意義を認む。
  所謂芸術と同様。

芸術が結果として与えるものは或は気韻を高遠にし妙想を清絶にし、人質を尚うする点もあらうが、芸術の動機は何等の功利的な点を求めない。
○写実主義
○当時に於いて逍遙が極力排斥したものは、近世の小説の上に大なる勢力を有する馬琴等の勧善懲悪主義を排撃するのにあったものであって、之を排撃する手段として、模写主義を用いた感がある。従って模写主義の理論的考察というよりは勧善懲悪主義に対する非難を模写主義的立場から行ったという点が小説神髄の根本精神であったのであって、そこに逍遙の実際的傾向を認められると思うのである。
○二葉亭四迷の写実主義論
より徹底的といえる。
翻訳 「あひびき」「めぐりあひ」 ロシヤ文学
言文一致
俗語本位

§写実主義と理想主義との対立
○逍遥と鴎外との立場  明治24年
  明治22年発刊
早稲田文学 柵草子
英文学 獨文学
趣味 日本近代文学 古典的和漢文
評論 実際的 理論的・理想的
文壇に問題提供  ハルトマンの美学

  美学的に批判

○小説三派
一、固有派 類想
二、折衷派 個想  であるとハルトマンの美学によって新しい名稻
三、人間派 小天地想

個の中に普遍を示す。
ゲーテ、シェイクスピアが小天地想であるのは、個のハムレットを描きファウストを描いてそこに人間そのものを具現したがゆえに小天地想であるとする。

◎没理想論
 早稲田文学、逍遥に発せられた芸術観、それに対し鴎外が論戦、二十四・五年の評論壇を賑す。
○文学論上における客観主義と主観主義
 写実主義と理想主義とに関する論争に外ならない。
○文学に於いて理想の直接に言葉の上に現れた文学はすぐれた文学ではない。どこまでも事実を客観的に表して主観を言葉の上に示すことをしないところに文学としての高い意義があり、この境地を没理想という言を以って表した。

§浪漫主義文学
二十年代 北村透谷を中心とする文学界により代表される。文学界は明治26年1月に第一号を出してから明治31年1月第58号まで続いて、藤村の悲痛なる告別の辞をのせて廃刊している。
 島崎藤村の新体詩
 馬場孤蝶・平田禿木・上田敏の西洋文学紹介
 一葉のたけくらべ

§新体詩

§俳論における写生
 正岡子規
  芭蕉雑談 26年
  俳人蕪村 29年

子規の蕪村賞賛
 ①積極的 壮大・雄渾・剄健・艶麗
 ②客観的傾向
  五月雨を集めて早し最上川 芭蕉
  五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
 ③人事の句
 ④精細的美に長じ印象明瞭

§戯曲論
 逍遙の史劇論
 五瓶・治助・南北 歴史物に近い

 黙阿彌

 依田学海・桜痴居士 活歴物

逍遙「桐一葉」「牧の方」 真の史実
 岡本綺堂

§浪漫主義文学論の衰退
浪漫主義の最後として
 高山樗牛を挙げて見たいと思う。
 樗牛から島村抱月への対立展開は、浪漫主義から自然主義への展開を示すものである。

○樗牛を中心とした浪漫主義
 日本主義 個人的なニイチェ主義 日蓮
  (国家主義 個人主義 普遍主義)
 ニイチェから日蓮への展開は、権力意志、徹底的個人主義から普遍的な自我への発展であると思う。
樗牛
 ○浪漫的な精神を基調とした個人主義
 ○理智的思索的な発展をしながら常に抒情的精神をたたへてあろうとする世界への創造に努力したその浪漫的精神を中心とした点を見られる。

§自然主義的文学
 自然主義的文学論は、その本質に於いて写実を根底とするのであって、浪漫主義的文学論と相反するものである。こういう思潮は已に坪内逍遥の小説神髄にもある程度まで見られ二葉亭四迷・正岡子規等の立場もこの見地の上に立っている。そうして自然主義という名稱は、森鴎外がすでにゾラを紹介してその名稱を挙げているのであるが、その立場がいっそう徹底してとかれるに至ったのが日露戦争頃に現れた自然主義の主張であったのである。

○自然主義論の最初の唱導は小杉天外のはつ姿の序(23年)であるということは文学史家の多く認めるところである。しかし自然主義という名稱を用い且つゾラの自然主義を批評したはじめは、二十年代に於ける鴎外の言説に見られる。ただ、自然主義的立場を意識して主張したのは、小杉天外であるということは云われるのであろう。

○天外は未だ自然主義の理論を十分に主張し得たとは言はれない。島村抱月は明治四十一年に早稲田文学に発表した「文芸上の自然主義」という論文に於いて、
 自然主義という語の初めてわが小説界に掲げられたのは多分小杉天外らであろう。
 としているが、なお自然主義の前期を天外とし、抱月時代に於いて主張せられた自然主義を後期の自然主義と認めているのである。
 スツルム・ウント・ドラング(嵐の時代)・ロマンティシズムを経てきている。
○後期自然主義の作者・多く浪漫的な抒情的精神を経て来ている。
 島崎籐村 抒情的詩人から出発
 田山花袋 紀行文家、「わすれ水」の如き抒情的傾向
 国木田獨歩 熱情をたたえた浪漫的精神から出発
そうしてこの点は、明治の第二期に於ける尾崎紅葉等の硯友社写実と自然主義の写実との大なる相違のある所と思う。
○硯友社の写実  ○自然主義の写実
 芸術主義  人生主義
 外面的写実 内面的写実
 形式主義  内容主義

○明治四十一年の「文芸上の自然主義」と「自然主義の価置」という論文は抱月の自然主義の見解を見る上にも、又当時の自然主義の見解を見る上にも最も注意すべきものである。

○自然主義時代に於いて詩壇に於いては、象徴詩は上田敏が毎潮音によって西欧の象徴詩を紹介し、また、「薄田泣菫や蒲原有明が象徴詩を作って鼓吹してからはじまるのであって、藤村のやうな抒情と異なって一の気分情調を言葉によって象徴的に表現するのである。

 岩野泡鳴

§反自然主義的文学論
 ◎後藤宙外の「非自然主義」
   書物

 ◎高踏的文学論
 夏目漱石
 漱石によると、自然派の芸術には余裕がない。人生の中にとび込んでいる為に静かな観照の世界がない。斯如も人生ではあろうが、かくの如き世界のみではない。余裕を似って人生を眺める。高踏的に人生に遊ぶ態度のあることを説いた。それは一面からいうと小さい自我を離れて大我を建設することである。私を去って天に則ることである。こういう立場から漱石の芸術観は人生そのもののあまりに現実的である世界から退いて、理想的世界の立場から人生を眺めるという事になる。そうしてこれは漱石が日本否東洋の芸術観の伝統の上から築き上げて来たものである。草枕の芸術観は自然主義が開拓して来た真なる立場を十分顧慮しながら再び伝統的文学論としての東洋精神に帰ろうしたものではなかろうか。それは俊成・定家によって幽玄・有心の精神となり、更に正徹や世阿彌によってとかれた幽玄論をへて芭蕉の「さび」となった精神をよびさますものであった。それは自然と人生と芸術とを一にしたものであった。漱石のいう非人情と則天去私の文学論は小我を去って大我に生きることである。

○非人情とは
 不人情ではなくして小さな人情を超越することである。
○則天去私とは
 小さい私を去って大我としての天そのものと一になることである。

○自然主義理論の中心をなす真実性に伝統的文学論を加えることによって、新しい文学理論を築くべき基礎をなしたのである。
漱石の文学論が新浪漫主義、新理想主義を起こす原動力となったことはその意味に於いて解せられる。

漱石 慶應3年~大正5年
漱石が西洋の知識を輸入することに賛成するのも日本の特性を発揮せんが為だった。「日本を維持せんとするならば日本固有の美徳を利用して、これを粧うに文明の利器と以てすべし」
明治中期の日本文明に対する漱石の意見を一句に要約したものと云ってよい。
明治23年1月子規宛書簡(同年9月に英文科学生として大学入学)
友人に対する親切な忠告として子規にその思想(西洋の)涵養を勧めた。
「Culture トハ如何ナル物ト云フニ knowing the ideas which have been said and known in the worldト小生ハ定義ヲ下ス積リナリ」
アーノルドの言葉を用いて子規に教養の意義を説明している。
○西洋の思想に通ずることによって日本文化の狭溢な島国性を脱却し以て広い教養に達せんとす
東洋趣味の立場で西洋文学を見る眼を養う。

Letters(偽らぬ人間漱石の面影)(こころに触れ得る喜び)
その作家の作品が生み出された環境を知り、そのときに於ける作家の生活を知って作品をより深く理解すること。

その人の心を直接にあらわしているから作品の理解に新しい光を投ずるのである。
漱石のGeistに一層深く入り込む
素直にありのままに、漱石自身が直接表現されている。