ニューロンと精神病

 18世紀末にピネルが鉄鎖から開放するまでは、精神病者は人格も認められない、悪霊にとりつかれた罪人のように扱われていた。精神病が脳の病気として自然科学的方法をもって医学の研究対象となったのは、グリージンゲル書の「精神病の病理と治療」(1861年)以降といわれている。当時の自然ならびに社会科学的事項をピックアップして時代背景をみてみよう。この10年前後の間にダーウィンが「種の起源」を出版し、パスツールが生物の自然発生説を否定し、メンデルが遺伝法則を発表し、マルクスが資本論第1巻を刊行している。考えてみると、価値観というか世界観の変革をせまられたすごい時代であった。

 閑話休題。ヒトの脳は数百億の神経細胞から成るといわれている。神経の回路網や構成については可成り明らかにされてきたが、脳病の成立機序が解明されるのは次世紀であろう。あらためて歴史を繙いてみる。1838-39年に、シュライデンとシュワンによって細胞説が確立され、その20年後にはウイルヒョウが「細胞病理学」なる大書を著わしているが、精神障害の身体的基盤が信じられるようになったのは、クレペリンが、他の身体疾患と同じく、精神病にも原因、経過、転帰、病理解剖の同一性をもつ疾患単位があると考察した1883年(「精神医学書」を出版)頃からで、この頃には神経細胞(ニューロン)の概念もほぼ固まりかけていた。

 19世紀の遺産をひきついで、20世紀前半には輝かしい成果が産まれた。パブロフの大脳皮質の働きを中心とする条件反射理論、カハールのニューロン説、シェリントンの神経生理学、モルガン一派による近代遺伝学の基盤の確立、シュペーマンによる形成体の発見、ベルガーによる脳波の導出、ヤスパースによる精神病理学の方法論の確立等々、小生の身近な領域に限っても数え挙げれば切りがない。

 以上、20世紀後半に精神医学と神経科学の分野で学問をさせて貰ってきた小生が、前世紀および今世紀前半の遺産をどれ程に受用してきたかを知りたくて概観してみた。今世紀後半のワトソン・クリックによる核酸  DNAの二重らせん構造説(1953年)に始まる分子遺伝学の発展成果を神経発生生物学と結びつけようという小生たちにとって今や「ジーン、ブーンで夜も眠られぬ」時代である。一番書きたかった「こぼれ話」と称する自慢話をすることなく紙数が尽きたのは残念である。とまれ、21世紀前半には、ヒトゲノムの全配列も解明されるという話だが、脳の世紀といわれる21世紀のいつ頃に、脳の発達とその障害の研究成果が精神病と結びついて科学的に説明され、且つ治療面で精神疾患に病む者が勇気づけられるようになるだろうか。

1995年、KEIO医学部・病院ニュース、11月号に掲載