脳と精神は如何に出会うか(その3)



15]Emotion / Jealousy(嫉妬) in Opera(オペラの中に表現された情動の1つ、嫉妬)

 

~嫉妬について~

嫉妬は自分で生まれて自分で育つばけものです。嫉妬をする人は、理由があるから疑うんじゃないんです。疑い深いから疑うんです。(シェークスピア「オセロ」より)

 男の嫉妬は場合によってはその男の頭の回転をよくするための体操になり得るが、女の嫉妬はそういう訳にはいかない。女の嫉妬は体当たり的なかたちが多い。(立原正秋)

 男にあっては1つの弱さである嫉妬も女にあっては、1つの力であり、女を駆って数々の企みへと走らせるもの。女は嫉妬に嫌悪を覚えるよりも嫉妬から大胆なことをやってのけるものだ。(アナトール・フランス)

 嫉妬:それまで抱いていた優越感、愛情、独占感が突如他にしのがれるようになったことに気付いた時感じるねたみの気持ち。

愛することは命がけだよ。甘いとは思わない。(太宰治)

 

# Ottelo ♂ Ottelo (Verdi)

呪いのハンカチ物語。悪党Iagoにたぶらかされて、嫉妬に狂ったオテロは罪なきDesdemonaを刺殺す。

 

# Medea ♀ Medea (Cherubini)

ギリシャ伝説のオペラ化。国王を殺したペリアスをメデアの魔力の助けを借りて煮殺し復讐をとげたイアソン。コリントに逃げたイアソン(=ジャゾーネGiasone)とメデアの仲の破局物語。嫉妬に悶え、怒りに狂う、凄絶で野生にあふれた生々しいメデアの人間像。私(メデア)の破壊に助力せよ。裏切った夫ばかりか、地獄からの復讐神にわが愛児をも捧げると歌い(アリア)、非情な怒りと絶望の混じた激情に駆られて神殿に火を放ち愛児をも殺す。

 

# Amneris ♀ Aida (Verdi)

権力者エジプトの女王AmnerisはRadames将軍に恋情を抱き、エチオピアの姫であり、奴隷の身であるAidaに嫉妬し、Aida と Radames を死に追いやる。

古代エジプトを背景にしたもので、凱旋将軍ラダメス (Radames)をめぐるエジプトの女王アムネリス (Amneris)と敵国エチオピアの王女アイーダ (Aida)との三角関係がかもしだす恋の葛藤。そして悲しくも、アイーダが、軍機をもたらしたかどで生き埋めにされているラダメスの地下牢に忍び込み、彼の胸にいだかれて死ぬという結末である。初演 1871年 カイロにて。

 

# Tosca ♀ Tosca (Puccini)

画家マリオMarioを恋するTosca 。アッタヴァンティ侯爵夫人の落とした扇を利用して、策略を用いて脅迫するScarpio男爵(警視総監)。曰く「Cassioのハンカチと同じく利用しよう」。アッタヴァンティ侯爵夫人に嫉妬するTosca。Mario(脱獄政治犯をかくまう)を拷問することによりToscaを籠絡しようとするScarpio。終幕でScarpioはToscaに刺され、Marioは銃殺され、Toscaは自殺する。絶望的な悩みに心が乱れるトスカの歌(歌に生き、恋に生き”Vissi d’arte”)。

 

# Canio ♂ Pagliacci(パリアッチ、道化師たち)(Leoncavallo)

芝居と現実との区別がつかなくなって、逆上したCanio (=Pagliaccio, パリアッチョ)は妻のネッダの胸を刺し、ついで情夫シルヴィオも刺す。

 

# Figlippo II ♂ Don Carlo (Verdi)

フィリッポ(スペイン国王、Re di Spagna)

ドン・カルオ(スペイン公子 Infante di Spagna)

フィリッポⅡ世は3度目の妻にヴァロア家のエリザベートを娶る。このエリザベッタは息子カルロの恋人。悲嘆にくれながらも両国(フランスとスペイン)の平和のために結婚を受け入れるエリザベッタ。カルロの絶望。

 

# Eboli ♀ Don Carlo (Verdi)

 エボリ公女(La Principessa Eboli)。はカルロに恋する。カルロはエボリが送った匿名の手紙をエリザベッタからと思いこむ。

 

# Don Jose ♂ Carmen (Bizet)

 カルメン/ハバネラ。終幕ホセは逆上しカルメンを刺す。カルメンは闘牛士エスカミーリョEscamilloに心が移り、昔ホセから貰った指輪を投げ返す。ホセは嫉妬に狂い、ナイフでカルメンを刺す。彼女の死骸のかたわらに呆然と立ちすくみ、彼女の上に身を投げ伏して激しく号泣する。

 

狂気について

# Lucia ♀ Lucia di Lammermoor (Donizetti)

 ランメルモールのルチア。城主のエンリコEnrico は仇敵エドガルド Edgardo を討って、妹ルチアをアルトゥーロ Arturo と政略結婚させようとするが、ルチアは承諾しない。ところが複雑なことに、ルチアの恋人はエドガルド。偽の手紙でルチアを騙して、無意識の内に結婚契約書にサインさせる。エドガルドの怒り、苦悩するルチア。彼女は発狂し、新床でアルトゥーロを刺し殺す。ここで、有名な「狂乱の場」(優しいささやきが…….,

Il dolce suono,……Ohime! Sorge il tremendo fantasma e ne separa!) 。息絶えるまで歌い続ける。

 恐怖の幻覚に襲われた心と恋人エトガルドとの喜悦を回想し夢想する心情が錯綜(錯乱)するルチア。ツチア昇天の後を追って自分の胸に刃を突き立てるエドガルド。Edgardo :A te vengo, o bell'alma. (Turn again to your fathful lover.)

 Operaは、音の変化/音の響き(音楽)と言葉(ロゴス)の流れと舞台装置、衣装、演技動作(演劇)が結びついて総合的な表現がなされる芸術である。そして、楽劇(Musikdrama, Wagner)といわれるものとなる。

後連合野の中の側頭連合野(area22,聴覚系)と頭頂連合野(areas39,40,感覚性言語野)が結びつき、短期記憶系の海馬系と連合線維で連がり、情動系の扁桃体系と投射線維で相互に結びつき、鈎状束を介して前頭連合野の運動性言語野(areas44,45)を活性化させる。次ぎに、皮質皮質間線維により活性化される場所は、areas9,10,(11)といわれる前頭前野内の広範囲の皮質領域であり、ここは昔から情操とか審美感とか道義(道徳)といった人間固有のいわゆる高尚な機能がEconomoらにより考えられていた領域である。なお、このareas9,10はサルの実験では研究不可能な領域で、この領域と相互的に強い結合のある帯状回前域(area23とその前方のareea 32)は、上行性のドパミン投射を中脳腹側被蓋野(ventral tegmental area, VTA, A10)および側坐核(nucleus accumbens)から受けている皮質域である。情動、意欲に最も関係の深い領域である。なおarea11は嗅覚系の情動変化に反応する所である。

 運動系への皮質皮質間の連続的流れとして、ここで、興味を惹くことは、この最高皮質中枢である情操部位を経過したあと、補足運動領(areas,8,6のとくに内側面皮質)→前運動野(area6)→運動野(area4)の順序で皮質内で興奮が伝達されることである。ここにaffectus(感情の心の状態)からratio(理性、logos)とpathosが共感して前頭前野で“組みかえ”が起こり、出力としての運動領(環境に対する自己の能動的表現として)の表出形態であるmotorus(行為、演奏、演技)が成立するのである。

Wort(言葉、logos)→Sinn(感覚)→Kraft (力動)→Tat (行動)という一連の所作は、Goethe のFaust における新約聖書のロゴス翻訳の以下の文章を思い起こさせる。ファウストが新約聖書のギリシャ語原文を好きなドイツ語に翻訳するという場面であるが、ここに、認知、思考、情動、行動の概念が含まれている。Albert Schweitzer は、Goethe 記念講演の中で、この行為の意味を高く評価している。また、ヘブライ語の「davar」というギリシャ語の「logos」に対応する言葉には行為の意味が含まれており、原語は多層的意味を含んでいる。Goethe はそれを顕在化したと解釈できる。Wort という言葉は、信仰上、キリストの言葉と神の創造とその成就を“原始的”に含んでいる。

Geschrieben steht : "Im Anfang war das Wort !"

Hier stock' ich schon ! Wer hilft mir weiter fort ?

Ich kann das Wort so hoch unmoglich schatzen,

Ich mus es anders ubersetzen,

Wenn ich vom Geiste recht erleuchtet bin.

Geschrieben steht : Im Anfang war der Sinn.

Bedenke wohl die erste Zeile,

Das deine Feder sich nicht ubereile !

Ist es der Sinn, der alles wirkt und schafft ?

Es sollte stehen : Im Anfang war die Kraft !

Doch, auch indem ich dieses niederschreibe,

Schon warnt mich was, das ich dabei nicht bleibe,

Mir hilft der Geist ! auf einmal seh' ich Rat

Und schreibe getrost : Im Anfang war die Tat !

 (J. W. Goethe 原文)

かう書いてある。「初めにロゴスありき。語(ことば)ありき。」

もう此処で己はつかへる。誰の助を借りて先へ進まう。

己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。

なんとか別に譯せんではなるまい。

靈の正しい示しを受けてゐるなら、それが出来よう。

かう書いてある。「初めに意(こころ)ありき。」

輕率に筆を下さぬやうに、

初句に心を用ゐんではなるまい。

あらゆる物を造り成すものが意であらうか。

一體かう書いてある筈ではないか。「初めに力(ちから)ありき。」

併しかう紙に書いてゐるうちに、

どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。

はあ。靈の助だ。不意に思い附いて、

安んじてかう書く。「初めに業(わざ)ありき。」

(森林太郎 訳)

16]巨匠とその晩年

①Dante Alighieri(1265~1321)

②William Shakespeare (1564 ~1616 )

 「この世は舞台、人間はみな役者」というシェイクスピアの魂は「人間すべて道化師だ」とFalstaffに言わせた晩年のVerdiの心に似ている。

 マクベス(Machbeth)はFair is faul, faul is fair. (善是悪也、悪是善也、吉是凶、凶是吉、勝是負、負是勝、正真実是邪嘘虚哉:城郭は守る者のために利なれども攻める者のためには害なり-諭吉)と魔女に、そして強い野心をもった妻にもそそのかされ、ダンカン王を殺害する。

 オセロ(Otello)は悪漢(villain)イアゴーの策略にはめられたムーア人の将軍オセローがDesdemonaをdemon/devilと見做して殺害する嫉妬の悲劇である。

 「ヘンリー六世(三部作)」「リチャード三世」にみる極悪人(villain)、醜悪、増悪、父殺し、夫殺し、死をも賭した愛(結婚詐欺の奥の手)、悪魔と謀殺と亡霊と良心の叱責。シェクスピアはこれらを含む凄惨なバラ戦争(1393-1483)を取り扱った2セットの「歴史4部作」[合わせて8本;リチャード二世、ヘンリー四世(第一部、第二部)ヘンリー五世、リチャード三世、ヘンリー六世(第一、第二、第三部)]を、  年から  年の間に書いた。

 これら悪の華で飾られた人生劇の最後にShakespeareは、演劇への分かれの挨拶を主人公(プロスペロー)に託してテンペスト(1611年)を書く。「終宴だ。役者たちは、すべて妖精であり、希薄な空気の中へ消えてしまった。我々は夢と同じ成分からできていて、はかない生は眠りに包まれている(四幕、一場、146~185行)。」美しい、寸分のスキのない凝集した一見カリカチュア化された自画像を示す(との解釈もある)芸術作品である。

 プロスペロー(旧ミラノ公で、弟アントニオに政権を奪われ、島流しにされる)と愛娘のミランダ。ナポリ王のアロンゾーの息子(王子)のフォーディナンド。この若き二人の間の恋と愛。プロスペローの魔術により使役される妖精のアリエル。

 この劇の中で晩年のシェイクスピアは、人生の営みの中の道化や虚無観を吐露し訴えたのであろうか?

 

③Johann Sebastian Bach (1685.3.21 ~ 1750.7.28)< /p>

 Albert Schweitzerは自書「J.S. Bach」の冒頭で次のように言っている。「芸術家のうちには主観的芸術家と客観的芸術家とがある。」そして前者(芸術は個性のうちにあり、かれらの制作は、時代から独立している。時代に逆らい、自己の思想を表現すべき形式を新しく創る)の一人にワグナーを挙げている。後者(全くその時代の内に立ち、ひたすら時代の提供する形式と思想をもって制作する)の一人にバッハを挙げてる。

 また次のような記載もある。「バッハの頭蓋骨の特徴で、内耳の聴覚器官を囲む側頭骨の異常な堅さと、蝸牛殻口のきわめていちじるしい大きはとが注目に値するだろう。」

 若いバッハは最初の受難曲(1724年)として「ヨハネ伝による受難曲」を作曲した。聖餐の設定、ゲッセマネ、イエスの捕縛、大祭司の前とピラトの前の裁判の場面などの受難記事と作曲。

マタイ受難曲(人の罪をあがなうための神の子の受難という思想が軸になっている。Die Unschuld muß hier schuldig sterbern.) は1727年に聖トマス教会における聖金曜日の晩課で初演されている。新約聖書「マタイによる福音書」第26,27章のイエス受難物語が歌詞の骨格となっている。受難の予告、最後の晩餐、イエスの捕縛、裁判、磔刑と死、埋葬と曲が展開される。そして、「神の子の認識(Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.)に向かって収斂し、清浄と救済の終曲に向かう。因みに、「マタイ伝」は「イエスは神の子であり、旧約聖書で予言された正統なメシアである」ことをユダヤ世界に論証しようとの意図をもって成立している。

 口短調ミサ曲(H-moll-Messe, Mass in B minor, Messe en si)(1733.7 Bach48歳の作)の本質は感動的な崇高さである。

 

口短調ミサの記述

 口短調ミサ曲(BWV232)は、ザクセン選帝候兼ポーランド王(1733没)の後に選帝候位を継いだフリードリヒ・アウグストⅡ世に献呈した(1733年4月21日、キリエKyrieとグロリアGloriaのみ)ものである。その後息子のエマヌエルの遺品から完全な総譜が発見された。推定作曲年代は、Credo, 1747~1749年;Sanctus 1724年、Agnus dei, ?; である。つまり現在の形の口短調ミサ曲は一気に書かれたものではなく、いくつかの転用(パロディー、もとの曲に手を加えたもの)も見られる。バッハは選帝候に対して常に忠誠心を示し、1736年に「ホーランド王兼ザクセン選帝候宮廷作曲家」の称号を得、それ以後、ライプツィヒ市当局からの彼に対する妨害は少なくなった。

メモ:

 カンタータ(声楽曲)

 モテット(宗教声楽曲)

 ゲネラールバス(通奏低音)

 オペラ・ブッファ(喜歌劇)

 グラヴィア(原則としてオルガンを除いた鍵盤楽器)

シュワイツェル曰く

 われわれは諸芸術を分類するのに、その対象を表現するために用いられた素材に従っている。音響によって語る者は音楽家、色彩を使う者は画家、音声を伴った言語を用いる者は詩人と呼ばれる。だがこれは純粋に外面的な区分である。実のところ、芸術家が自己表現をする際の素材は、二次的なものにすぎない。芸術家とは単なる画家、単なる詩人、単なる音楽家であるにとどまらず、それらを包含したものである。彼の魂には、さまざまな芸術家が関与している。

☆ バッハにおける語と音(p.186、中巻Schweizer著より)

 バッハにあっては、音節(ザッツ)の構造が、多かれ少なかれ技巧を用いて文章(ザッツ)の構造に適合されているのではなく、両者は同じものである。…床に落してみても、両者(音のメロディーと語のメロディー)はびくともせずに接着したままである。バッハの音節は、音として膠着された文章にほかならない。彼の音楽はつまり旋律的(メロディー)ではなく、朗誦的(デクラマツィオーン)なのである。

バッハにとっての問題は、…作曲を性格的表現にまでもっていくことなのである。或る歌詞に合わせてただ美しい音楽を書くことに甘ずる前に、彼は可能なことをも不可能なことをも試みることによって、一種の高揚した情緒(アフェクト)のために倍加された、音楽的に表現可能な感情を、その語句の中に発見しようと努める。彼は与えられた歌詞をあらかじめ、あとで音楽のなかで発声したいと思うような形に改作する。

 バッハとモーツァルトが、低劣な歌詞に対してとる態度には、深い相違が見られる。両者とも共通して、歌詞の下らなさを音楽によって忘れさせるが、しかしその理由は全く異なっている。モーツァルト、それそのものとして美しい音楽によって、全く気をそらさせてしまうことを意識している。バッハは、歌詞をついに音のうちに新しい形姿を獲得するにいたるまで、深化し形成するのである。

☆ 「音楽の捧げ物(1747年7月7日にフリードリッヒ大王に贈る)」と「フーガの技法」(Die Kunst der Fuge)(p.141、中巻)

 「音楽の捧げ物」(Das Musikalische Opfer)を作曲しているうちにバッハは、ここでやや無計画に企てたこと―唯一の主題に基づいて作品全体を書き上げること―を新しい形で計画的に完成しようと言う決心に達した。この新しい作品は、フーガの教義を実地に示そうとするものであった(Schweitzerより)。すなわち、立派なフルート奏者であった大王に対する尊敬の徴しとして、カノン様式のフーガはフルートとグラヴィーアのために書かれており、ソナタと最後のカノンはフルートとヴァイオリンとクラヴィーアのためにつくられている。この美しい献上音楽作品に続くものとして、また刺激されて、フーガの大家として、その輝かしい音楽生活の晩年に、バッハはその天才と霊感と知識と能力の蘊蓄を傾けて、彼が音楽の形式で書いたあらゆる作品のなかで最もすばらしい学問的業績「フーガの技法」を作曲した。あらゆる種類のカノンとフーガとが試みられ、最後には自分自身の名をテーマ(B・A・C・H-変ロ・イ・ハ・ロ)として登場させている。将に死の近づくのを聞きながらこの仕事に従っていた(妻、アンナ・マグダレーナ・バッハのバッハの思い出より)。彼の失明のため未完に終わったが、後世に残した、彼自身の音楽語法の総決算ともいうべき作品である。

バッハは1685年にドイツ中部の小都市アイゼナハで生まれ、1750年にライプチヒで死んだ。イギリスはすでにビューリタン革命を経て近代市民社会に足を踏むいれていたし、フランスはルイ14世の絶対主義の全盛期時代で、遠くからフランス革命の足音が近づいていた。「フランスのあとを足をひきずりながらついて行く」といわれたおくれたドイツは、まだ絶対主義にもならない封建時代で、三百の諸侯が教会と手を結んで民衆を支配していた。

 そのような社会の中でバッハは宮廷や教会に雇われて、「おかかえ音楽家」として忠実に職務をおこなっていた。民衆にたいするイデオロギー的支配組織としての国家教会体制にも疑問を持っていたとは思われない。それにもかかわらず、そのバッハの音楽が決して御用音楽にならずに、時代の制約を越えて今も私たちの心を解放し自由にしてくれるのはなぜか。

自覚においてはバッハは領邦絶対主義の専制と国家教会の思想統制の現状を認めていた。しかし彼の音楽は彼の自覚を越えている。それを可能にした理由は、一つはバッハがその時代の音楽のすべての可能性を完全に自分のものにしていたことにある。パヘルベルをはじめとする中南部ドイツの音楽、ブクステフーデ等の北ドイツ楽派の音楽、クープランに代表されるフランス音楽そしてヴィヴァルディ等のイタリア音楽をバッハは生涯のそれぞれの時期に身につけ、それを完全に消化しつくした。こうして当時のヨーロッパ音楽のすべての可能性を汲み尽くした時に、おのずとそこから一歩進める道が開かれた。

 もう一つの理由は、時代の矛盾を避けて安易な道を選ぼうとしなかったことにあると思う。時代の矛盾は封建的支配体制の支柱である教会と民衆のあいだにあった。音楽におけるその象徴がコラールと呼ばれる会衆賛美歌である。コラールはルターの万人祭司主義の象徴である。それまで聖職者しか歌うことを許されなかったミサに代わって会衆が賛美歌を歌うことは、まさに民衆の一人一人が神の前に立つ祭司として教会の主人公であることを示すものであった。

 多くの音楽家がコラールを捨てて自由詩に作曲していた時に、バッハは頑としてコラールを守り続けた。町楽師の子どもとして生まれた彼の心の底には、音楽は少数の支配者のためのものではないという信念が根をおろしていたからである。教会が民衆抑圧機関に変質していた当時においては、コラールは教会にたいする内部批判の役割をはたした。ベートーヴェンにとっては自分の自覚と自分の音楽は一致していた。共和主義者ベートーヴェンはまさに共和主義的理想を歌う音楽を作った。バッハはこれと違い、バッハは自覚においては忠実な教会音楽家であった。しかしバッハの音楽は、バッハの自覚を越えていたといえる。時代が自覚を妨げているものを、バッハの天才は音楽の中でとらえている。時代の矛盾を避けずに正面からぶつかり、時代の可能性を完全に汲みつくした時に、それを越える道が開けてくることをバッハは私たちに示しているように思われる。

 

④Johann Wolfgang von Goethe (1749.8.28~1832.3.22.)

 音楽に対するゲーテの評価は実に大したものである。

 Wer Musik nicht liebt, verdient nicht, ein Mensch gennant zu werden;

 Wer sie nur liebt, ist erst ein halber Mensch;

 Wer sie aber treibt, ist ein ganzer Mensch.

音楽が好きじゃない人は、人間と呼ばれるに価しない。

 音楽を単に好きなだけの人は、やっと半人前。

 音楽に打ち込んでこそ、それで一人前。

32才のとき、Wanders Nachtlied(旅人の夜の歌)

 Über allen Gipfeln

 Ist Ruh,

 In allen Wipfeln

 Spürest du

 Kaum einen Hauch.

 Die Vögelein schweigen im Walde.

 Warte nur, balde

 Ruhest du auch.

山々の頂に

 安らかさがある

 木々の梢に

 風そよぐ

 けはいもない

 小鳥も森に默っている

 待て、待てやがて

 お前もやすめよう

を詩作し、それを山小屋の壁板に記した。GoetheはFaust第一部を壮年期に完成させている。そこでは、哲学も法学も医学もあらずものがなの神学も、すべての学問を極め尽くしたのち、Faustは灰色の学問の世界から逃れて緑なす天地を求めてメフィストと契約をかわす。そして快楽を求めて小宇宙に旅立ち、現世の愛欲のワルプルギスの夜の生活や乙女グレートヘンを幼児殺し、母親殺しの罪に陥れた老学者、Faustの行状が描かれている。83歳でFaust第2部を完成し、彼最後の誕生日の前日、1831.8.27にこの懐かしの山荘を訪れて、繰り返し口ずさみ、涙を流したという。Faust第2部はギリシャ的古典ワルプルギスの祭典のあと、ファウストは海岸の土地埋め立て工事のツチ音を自由な人民の為の土地開発の音と聞き、「汝は美しい暫しとどまれ」と叫び、大宇宙訪問のためにメフィストに売った高貴な魂の遍歴は終わる。

Eröffn’ ich Raume vielen Millionen,

 Nicht sicher zwar, doch tätig-frei zu wohnen.

 Grün das Gefilde, fruchtbar; Mensch und Herde

 Sogleich behaglich auf der neusten Erde,

 Gleich angesiedelt an des Hügels Kraft,

 Den aufgewälzt kühn-emsige Völkerschaft.

 Im Innern hier ein paradiesisch Land,

 Da rase draußen Flut bis auf zum Rand,

 Und wie sie nascht, gewaltsam eizuschießen,

 Gemeindrang eilt, die Lücke zu verschließen.

 Ja! diesem Sinne bin ich ganz ergeben,

 Das ist der Weisheit letzter Schluß:

 Nur der verdient sich Freiheit wie das Leben,

 Der täglich sie erobern muß.

 Und so verbringt, umrungen von Gefahr,

 Hier Kindheit, Mann und Greis sein tüchtig Jahr.

 Solch ein Gewimmel möcht’ ich sehn,

 Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.

 Zum Augenblicke dürft’ ich sagen:

 Verweile doch, du bist so schön!

 Es kann die Spur von meinen Erdetagen

 Nicht in Äonen untergehn. –

 Im Vorgefühl von solchem hohen Glück

 Genieß’ ich jetzt den höchsten Augenblick.

幾千万の人に土地を拓いてやる、

 安穏でなくとも、働けば自由に暮らせるように。

 畑のみどりは豊かに映え、人間も家畜も

 ま新しい土地に、みんな気持ちよく、

 すぐに住みついて、堤防の力にたよる、

 大胆、勤勉な民衆が築いた堤防に。

 内陸となったここはまさに楽園、

 外で、どんなに高波が岸辺を襲い、

 無理に侵入しようと齧りついても、

 協力共同の意志が急いで傷口をふさぐ。

 そう! この思想にわしは惚れこんだのだ、

 これこそまさに人智の極限、

 自由と生活を享受しようとする者は、

 日々これを自力で奪いとらねばならぬ。

 こうして、四方危険のなかでも末永く、

 子供も大人も年寄りも、有為な年を重ねる。

 そのような人混みを目のあたりにして、

 自由の国に自由の民と立ちたいものだ。

 その瞬間に向かってなら、こう言ってもよい、

 「止まれ、おまえはじつに美しい!」と。

 この地上での我輩の日々の足跡は

 未来永劫滅びることはない。-

 そういう高い幸福を予感しながら

 いまこの最高の瞬間を味わおう。

 (小西悟訳)

 

⑤Ludwig van Beethoven (1770.12.16 ~ 1827.3.26)

 ベートベンが生まれた時ゲーテは21才であった。

 ゲーテが生れた(1749年)、翌年(1750年)にJ.S.バッハは歿し(65才)、その20年後(1770年)にベートベンが生まれている。

 音楽は、一切の智慧・一切の哲学よりも更に高い啓示である。……私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々が曳きずっているあらゆる悲劇から脱却するに相違ない。(1810年、ベッディーナに)。

ベートーヴェン(1770~1827)は、啓蒙君主マクシミリアンの支配するボンに生まれて、自由な雰囲気の中で育ち、大学ではフランス革命に心酔する教授シュナイダーの教えを受け、もって生まれた正義を愛する強烈な個性の力が加わって、終生変わることのない民主主義の信念を持ち続けた。第9交響曲の終楽章の合唱の歌詞がシラーの「歓喜によせて」を土台としていることはよく知られている。シラーは故国ヴュルテンベルク公国の軍役に反抗して脱走し、自由を求めて亡命した。燃えるような自由と平等への思いを「歓喜によせて」に歌いあげたのは1782年のことであった。1789年のフランス革命は彼を熱狂させ、革命への支持を表明してフランス国家から名誉市民の称号を贈られている。ボン時代のベートーヴェンがこの詩に感激して作曲しようとしていたことがわかっている。ところがシラーはその後変節する。1800年には「『歓喜』は今の私の感情から言えば完全に誤りです」と言い、1803年の自選詩集では「乞食は王侯の兄弟となる」という一行を「すべての人々は兄弟となる」と変更してしまい、1804年には貴族の称号を手にすることになる。しかしベートーヴェンが最晩年に第九交響曲の終楽章を書いた時、彼の念頭にあったのは、この改訂版ではなく、少年時代に熱狂した初版の「歓喜によせて」であったことは明らかである。検閲を考慮して「乞食は王侯の兄弟となる」という歌詞は伏せてあるが、ナポレオンの敗北後の「空飛ぶとりの早さまで政府の命令できめている」と会話帳の中で憤慨するほどの反動オーストリア警察国家の抑圧の中で、昴然と頭をあげて人間性の自由と平等を歌いあげている。「自由と進歩のみが、すべての偉大な創造におけると同様に芸術の世界の目的であります」という彼の手紙の一節ほどベート-ヴェンの思想を明白に示すものはない。ベート-ヴェンの自覚はその音楽の持つ理想主義的な人間性への信頼と見事に一致している。

 

⑥Giuseppe Verdi (1813.10.10~1901.1.27.)

 最高の傑作 Aida、あの美しい終曲でVerdiは有終の美を飾ったと誰もが思った。長い時間の後に、Otelloの悲劇をシェクスピア以上のものに作品化した。そしてシシリー島で彼女(  )と一緒に隠退生活と思われる農耕の生活(晴耕雨読の生活)をする。来し方の人生の整理をする。15年後にこれもシェクスピアの喜劇ウィンザーの陽気な女房たち(The merry wives of Winsor)(これも起源はイタリア・ボローニャにあるのだが)を題材とするファルスタッフ(Falstaff)を上演する(1893.2.9スカラ座)。「世の中すべて冗談だ。人間すべて道化師(burlone)だ。いかさま師(gabbati)だ。みんな他人を笑うけど、最後に笑う者だけがほんとうに笑う勝者なんだ、(Ma ride ben chi ride la risata final)という終幕である。このようにVerdiは、Aidaでメロドラマに終止符を打ち、Otelloで愛と嫉妬の悲劇を扱い、Falstaffで愛と嫉妬の笑劇の音楽劇(ドラマ)を創った(80歳)。

Tutto nel mondo e burla.

 L'uom e nato burlone,

 La fede in cor gli ciurla,

 Gli ciurla la ragione.

 Tutti gabbati ! Irride

 L'un l'altro ogni mortal.

 Ma ride ben chi ride

 La risata final.

世の中全部冗談だ。

 人間すべて道化師、

 誠実なんてひょうろく玉よ、

 知性なんて当にはならぬ。

 人間全部いかさま師!

 みんな他人を笑うけど、

 最後に笑う者だけが、

 ほんとうに笑う者なのだ。

 

⑦Richard Wagner (1813.5.22 ~ 1883.2.13)

 Verdi と同年の生まれ。Ringを書く前のWagnerは「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「タンホイザー」のロマン三大オペラを残している。「さまよえるオランダ人」は女性ゼッタの犠牲により幽霊船長が救われると言う物語。「タンホイザー」の主題はエリザベートの純愛と自己犠牲、Eros(世俗的愛欲)とAgapei(神の清純な愛)のタンホイザーの心の中の葛藤という形も借りて示した対立である。Wagner が台本の執筆から作曲の完成まで26年を要したという壮大な楽劇(Musikdrama)、舞台祝祭劇、総合芸術であるRing (ニーベルングの指輪,Der Ring des Nibelungen) は、ラインの黄金(Das Rheingold、初演、1869年 )、ヴァルキューレ(Die Walküre)、ジークフリート(Siegfried)、神々の黄昏(Gotterdammerung初演、1876年)の四部作より構成される。劇的な終幕はブリュンビルデが炎の中に飛び込んでいく(Brunhildeの自己犠牲)場面から後の音楽<愛の救済の動機>が最後に響きわたる。ここには言葉は欠けており音の響きが聴衆に自由な解釈をすることを可能にさせる。愛の至福感ともとれるし、厭世的な悲観ともとれる。とにかく結末は壮絶である。

 Ringの約6年後に、Wagnerがバイロイトという理想郷のために書いたという初演1882年7月26日のパルジファル(Parsifal)がある。神韻緲眇たるキリスト教的な「共苦」をテーマにした「舞台神聖祝祭劇」である。ここでワグナーは今までのギリシャ的理想を捨ててキリスト教に転向したとみられた。そしてニーチェが「星の友情」と形容したワグナーとの精神的交感は次第に冷却し破局を迎えることになる。Parsifal は1882年7月末にバイロイドで初演された。そして、ラテン世界の造形芸術に年々惹かれていたワグナーは9月にイタリアに向かう。ヴェネツィアに逗留した。肉体が衰弱し、翌年1883年2月13日心臓発作で70歳の生涯を閉じた。

 

⑧Auguste Rodin(1840-1917)

 「遺言」の中の言葉:巨匠とは、あらゆる人々が既に見た処を、彼等自らの眼を以て熟視する人々であり、そして他の人々には余りにも陳腐である物のもつ美を認め得る人達なのである。

 悪しき芸術家たちは常に他人の眼鏡をかける。

 重要なのは、感動させられることであり、愛することであり、希望することであり、戦慄することであり、生きることなのである。芸術家たることの以前に人間であること!

 

⑨Albert Schweitzer(1875.1.14 ~ 1965.9.4.)

Höher, stets höher!

 Laβ deine Träume und Wünsche steigen.

 Das Ideal, das du erreichen willst,

 Höher, stets höher!

Höher, stets höher!

 Wenn dein Himmel sich auch oft verdunkelt,

 Laβ deines Glaubens Stern leuchten.

 Höher, stets höher!

Albert Schweitzer 愛吟詩、多分自作

高くいつも高く

 君の夢と望みを高見におきなさい

 成し遂げようとする理想(極致)を

 高く、常に高く

高く恒に常に高く

 君の天空が時に曇ることがあっても

 君がこれだと信じる星雲を輝かせなさい

 高く、確乎として貴く

 

シュワイツァー博士の第15回日本医学会総会へのメッセージ(1959)

 

Ich begrüsse es, dass der grosse Kongress der Ärzte Japans sich mit der Schaffung des Geistes der Humanität und der Rolle, die in diesem Unternehmen den Ärzten zufällt, beschäftigen wird. Wie gerne wäre ich bei den Verhandlungen zugegen. Leider kann ich zur Zeit Lambarene nicht verlassen. Es ist meine tiefe Überzeugung, dass wir Ärzte, die wir uns um die Erhaltung von Leben bemühen, in besonderer Weise berufen sind, die Menschen zur Ehrfurcht vor dem Leben zu erziehen und dadurch die Menschheit zur höheren geistigen und ethischen Gesinnung gelangen zu lassen, durch die sie befähigt werden wird, die schweren Probleme unserer Zeit zu verstehen und zu lösen.

 このたびの日本医学会総会が、人道精神の昴揚と、そのために医師の負うべき役割りとを、課題の一つとして採り上げられることを、欣快に思います。

 私自身、これらの討議に出席できたら、どんなにうれしいかと思いますが、残念ながら、私は目下ランバレーネを離れるわけにはまいりません。

 私のふかく確信するところによれば、生命の維持に力をつくすわれわれ医師は、人々に生命の尊厳を教え、またこのことによって人類を精神的、倫理的に一層高めるべき特別の使命を帯びているのであります。そしてこの高い精神によってこそ、現代の多くの困難な問題を理解し解決する力が人類に与えられるであろうことを、私はふかく信ずるものであります。

ゲーテ記念講演

バッハ

 

17]芸術関連の参考文献として:

a.「ニーベルングの指輪」Der Ring des Nibelungen (Richard Wagner)

 1 (前夜祭)「ラインの黄金」(The Rhinegold)

 「第1場」ライン川の底。3人のライン(Rhine)の乙女が泳ぎたわむれている。彼女たちは川底に眠る黄金を守る役目をしているのだ。そこへ地下のニーベルハイムに住むニーベルング族の王アルベリヒ(Alberich)が現われ乙女たちに言い寄ろうとするが、逆に乙女たちにからかわれて逆上する。そのとき、日の光がさしこんで川底の黄金が輝いた。3人の乙女たちはアルベリヒをあなどって、黄金の秘密を漏らしてしまう。その秘密とは、愛の力を断念した者はその黄金から指輪を作ることができ、その指輪で無限の力を得て世界を支配できる、というものである。醜い姿を馬鹿にされたアルベリヒは愛を呪い、黄金を強奪する。

 「第2場」神々の長ウォータン(Woltan)は、巨人族のファゾルト(Fasolt)とファフナー(Fafner)の兄弟に新しい城を建てさせた代償に美の女神フライアを与える約束をさせられていた。ウォータンの妻でフライア(Freia)の姉のフリッカが夫の所業を責めていると、フライアが助けを求めて駆け込んでくる。それを追って巨人族兄弟が登場、フライアの引き渡しを要求する。ウォータンは頼みの火の神ローゲがなかなか来ないのにいらだつ。やっと現われたローゲ(Loge)が、アルベルヒが奪った黄金の話を持ち出すと、巨人族はフライアの代わりにその黄金を渡せと言い出す。ウォータンはその黄金を手に入れようと、ローゲを伴って地下のニーベルハイムに向かう。

 「第3場」ニーベルハイムでは、アルベリヒが弟のミーメに命じて黄金からかくれかぶとを作らせていた。ミーメ(Mime)はやって来たウォータンとローゲに、兄アルベリヒの専横を訴える。ウォータンとローゲはアルベリヒをおだててかくれかぶとを使わせ、小さなひきがえるに化けてみせたアルベリヒを、まんまと捕えてしまう。

 「第4場」アルベリヒを連行したウォータンとローゲは黄金を奪おうとアルベリヒをしめあげる。アルベリヒは魔力を持つ指輪だけは渡すまいと必死に抵抗するがかなわず、ついに指輪はウォータンの手に落ちた。やっと解放されたアルベリヒは、指輪を持つ者には死が与えられるとの呪いを残して去る。巨人族はフライアの代わりに黄金を差し出しせと迫り、指輪を要求する。ウォータンははじめ拒否するが、知の女神エルダ(Erda)の忠告を聞いて、あきらめて指輪も巨人族に渡す。と、たちまちアルベリヒの呪いが現われ、ファフナーが兄ファゾルトを殺してしまう。指輪の呪いに不安を覚えるウォータン。しかし妻フリッカに促され、ウォータンは気を取り直す。雷神ドンナーが雷をおこして空の雲をはらい、虹の神イリスが虹の橋を架ける。ウォ-タンはワルハラ城と名付けた天上の新居へ、神々を従えて堂々と入城していく。ローゲは一人残って自分の身のふり方を思案する。川底からはラインの乙女たちの嘆きの声が聞こえる。

 

2 (第1夜)「ワルキューレ」(The Valkyrie)

 「第1幕」敵に追われ、疲れ切ったジークムント(Siegmund)が一夜の休息を求めた家は山賊フンディングの家であった。主人の留守を守る妻ジークリンデ(Sieglinde)は実はジークムントとは双生児の妹という間柄。だがそうとは知らない二人の間には愛の感情が芽生ばえ始めた。帰宅したフンディング(Hunding)は二人が瓜二つなのに不審を抱くが、ジークムントの身の上を知ると、明日は決闘だと告げて寝室へ去る。夜更け、ジークムントのもとへジークリンデが忍び来て、自分の身の上とトネリコの幹に突き刺さった剣の由来を語る。月明りが二人を照らし、二人の間には愛が燃え上がる。ジークムントは歓喜の中でトネリコの幹から剣を引き抜き、自らノートゥングと名付ける。ジークリンデは双生児の妹であることを明かし、二人は情熱的に抱き合う。

 「第2幕」ウォータンはフンディングとの決闘にジークムントを勝たせるよう娘ブリュンヒルデに命じる。一方、妻のフリッカは、夫ウォータンの不義の子どうしが兄弟で愛しあうなど許されないと怒り、ジークムントの敗北を迫るので、ウォータンはブリュンヒリデに心情を吐露しつつも、ジークムントを倒せと、命令をひるがえす。

 ジークムントとジークリンデが逃避行に疲れ休んでいるところへブリュンヒルデが現われ、ジークムントが死の運命にあることを告げるが、兄弟の愛の深さに胸うたれたブリュンヒルデは初めて父の命に背こうとする。ジークムントがフンディングを打ち倒そうとした瞬間、ウォータンは槍の一撃でノートゥングを砕き、ジークムントは死ぬ。ブリュンヒルデは剣の破片を拾い、ジークリンデを連れて逃げる。ウォータンはフンディングを倒すと、ブリュンヒルデの後を追う。

 「第3幕」ワルキュ-レ(いくさおとめ戦乙女)たちが集まっているところへ、父ウォータンに追われたブリュンヒリデ(Brunnhilde)がジークリンデを連れて助けを求めに来た。ジークリンデはすっかり気落ちしており、死を望むが、彼女はジークムントの子を宿していた。ブリュンヒルデの励ましにジークリンデは気を取り直し、ジークムントの形見のノートゥングの破片を携えて東方の森へと落ちのびて行く。ウォータンは憤激してブリュンヒルデと絶縁を告げ、山の上で眠りにつかせ最初に彼女を見つけた男ものにする、という罰を与えると言う。ブリュンヒルデは、父ウォータンの本意に忠実だったと訴える。最愛の娘の訴えに父のかたくなな心は揺れるが、ブリュンヒルデの最後の望みを聞き入れ、彼女の周囲を炎でかこんで恐れを知らぬ勇士だけが彼女を目覚めさせることができるようにしてやり、娘との永遠の別れを告げるのであった。そして音楽で英雄ジークフリートの出現が予告されて終る。

 

3 (第2夜)「ジークフリート」(Siegfried)

 「第1幕」ニーベルング族のミーメはジークリンデの遺児ジークフリートを名剣ノートゥングの破片とともに引き取った。それから幾星霜、ジークフリートはたくましく成長したが、ミーメがもくろんだノートゥングの再生は全くうまく行かない。ジークフリートは熊を連れて帰ってくると、ミーメに自分の本当の両親ことをしつこく問いただし、ノートゥングを鍛え直せと言い残して森へ飛び出して行った。途方に暮れたミーメを訪ねてきたのは、さすらい人に姿を変えたウォータン。二人は互いに自分の頭をかけて三つずつ謎かけをするが、最後にさすらい人から「ノートゥングを鍛える者は誰か」と問われ、ミーメは窮地に立つ。さすらい人は「それができるのは恐怖を知らない者だけだ」と言って去る。戻って来たジークフリートにミーメは「恐怖」を教えこもうとするが、全く通じない。ジークフリートはミーメにできないと見ると自分でノートゥウングを鍛え始め、その脇でミーメはジークフリートがファスフナーを倒したら殺そうと、毒薬を煎じ始める。ジークフリートは鍛え上げたノートゥングで鉄床(かなとこ)を真っ二つにする。

 「第2幕」大蛇となって指輪を黄金を守っているファフナーの住む洞窟の前。アルベリヒが見張っているとさくらい人が現われ、アルベリヒとファフナーにミーナが育てた勇士の到来を警告して去る。ミーナはジークフリートに「恐怖」を体験させようと洞窟へ連れてくるが、いっこうに動じないジークフリートはミーナを追い払い、見知らぬ両親に思いをはせる。小鳥の声を真似て葦笛を試すがうまくいかないので得意の角笛を吹くと、ファフナーが目を覚ました。ひと呑みにしようとするファフナーをジークフリートはノートゥングの一撃で倒す。ファフナーの血を浴びて小鳥の声がわかるようになったジークフリートは、指輪とかくれかぶとを手に入れる。それを見たアルベリヒとミーメはくやしがるが、毒を盛ろうと近づいたミーメをジークフリートは一太刀で殺し、小鳥の声に導かれてブリュンヒルデの眠る岩山へと向かう。

 「第3幕」さすらい人が知の女神エルダを呼び神々の終末への不安を訴えるが、エルダは相手にしない。小鳥を追って来たジークフリートの行く手をさえぎって、さすらい人があれこれと説教するので、怒ったジークフリートはさすらい人の槍をノートゥングでへし折ってしまう。さすらい人は道を譲り、ジークフリートは目指す岩山へと進む。炎をくぐり抜けたジークフリートは眠るブリュンヒルデをついに見つけた。女性に出会って、ジークフリートは初めて「恐怖」ということ知る。恐る恐る唇を重ねるとブリュンヒルデは長い眠りから覚め、二人は愛を誓い、歓喜の二重唱の高まりのうちに幕となる。

 

4 (第3夜)「神々のたそがれ」(Twilight of the Gods)

 「プロローグ」三人のノルンが運命の綱を張りながら、神々の終末について話し合っている。アルベリヒの指輪の呪いが語られると、綱はぷつりと切れる。ノルンたちは驚き、地下の母エルダのもとへ降りて行く。旅立つジークフリートは愛の誓いとして妻ブリュンヒルデに指輪を、彼女は愛馬クラーネを夫ジークフリートに贈る。彼は勇んで出発する。

 「第1幕」ライン川沿いのグンターの館。アルベリヒの血を引く弟のハーゲン(Hagen)は、ジークフリートを利用してブリュンヒルデを異父兄グンター(Gunther)の妻に、ジークフリードを姉グートルーネ(Gutrune)の夫に、とたくらんでいる。そこへ到着したジークフリートは、歓迎の杯にハーゲンが入れさせた忘れ薬のせいでブリュンヒルデのことを忘れ、目の前のグートルーネに求婚する、そのうえ彼は、グンターが頼んだブリュンヒルデの略奪も約束、グンターと兄弟の杯を交わす。一方ブリュンヒリデのもとへは妹のワルトラウテが訪れ、父ウォータンの命で指輪をラインの乙女に返すよう頼むが、ブリュンヒルデは拒否。ジークフリートはかくれかぶとでグンターに化けてブリュンヒルデに近づき、驚く彼女から指輪を奪う。

 「第2幕」グンターの館の前。まどろむハーゲンに父アルベリヒが指輪の奪還を命じ、ハーゲンはそれを請け合う。ジークフリートはブリュンヒリデを連れ帰り、婚礼の宴でグンターは一同に「花嫁」ブリュンヒルデを紹介する。彼女はグートルーネに寄り添う夫ジークフリートの姿にぼう然となる。彼の指にはグンターに奪われたはずの指輪が…。ブリュンヒリデはジークフリートの裏切りに憤激する。彼は潔白を誓うが、ブリュンヒルデは偽誓だと激昴する。騒ぎが鎮まると、怒りのあまりブリュンヒルデはハーゲンとグンターにジークフリートの弱点を打ち明けてしまい、三人はそれぞれ復讐を誓い合う。

 「第3幕」ライン川。三人の乙女がジークフリートに指輪の呪いを伝え、手放すよう促すが、彼は拒否する。グンターの一行が合流。ジークフリートはハーゲンの勧めで記憶が戻る薬を混ぜた杯を干すと、自分の過去を語り出す。ブリュンヒルデの出会いを語ったとき、背中にハーゲンの槍を受け、ブリュンヒルデの名を呼びながら息絶える。遺体はグンターの館へ。指輪を巡って争いとなる。ハーゲンはグンターを殺し、ジークフリートの遺体から指輪を取ろうすると、それを拒むかのように遺体の腕が高々とあがる。ブリュンヒルデはラインの岸辺に薪を積ませる。すべては指輪の呪いだったと事の顛末を語り薪に火を放つと、彼女は愛馬グラーネに乗って自ら炎の中へ…。炎はワルハラ城をも包む。ライン川の水が押し寄せ、ハーゲンもラインの乙女たちの手で深みへと姿を消す。指輪はラインの乙女たちの手に戻り、世界は滅亡する。そして残されたものは…?

 

b. La Traviata (VERDI)

Brindisi

 ALFREDO Libiamo ne’lieti calici

 Che la bellezza infiora,

 E la fuggevol ora

 S’inebrii a volutta.

 Libiam ne’dolci fremiti

 Che suscita l’amore,

 (indicando Violetta)

 Poiche’quell’occhio al core

 Onnipotente va...

 Libiamo, amore fra i calici

 Piu caldi baci avra.

 TUTTI Ah!libiam, amore fra i calici

 Piu caldi baci avra.

 VIOLETTA (s’alza)

 Tra voi sapro dividere

 Il tempo miom giocondo;

 Tutto e follia nel mondo

 Cio che non e piacer.

 Godiam, fugace e rapido

 E il gaudio dell’amore;

 E un fior che nasce e muore,

 Ne piu si puo goder.

 Godiam, c’invita un fervido

 Accento lusinghier.

 TUTTI Ah!godiam...la tazza e il cantico

 La notte abbella e il riso;

 In questo paradiso

 Ne scopra il nuovo di.

 VIOLETTA (ad Alfredo)

 La vita e nel tripudio.

 ALFREDO (a Violetta)

 Quando nons’ami ancora.

 VIOLETTA (ad Alfredo)

 Nol dite a chi l’ignora.

 ALFREDO (a Violetta)

 E il mio destin cosi...

 TUTTI Ah, si, godiamo, la tazza e il cantico

 La notte abbella e il riso;

 In questo paradiso

 Ne scopra il nuovo di. 

 

c. 「さまよえるオランダ人」Der fliegende Holländer(Wagner)

 ワーグナーがいよいよ本格的に個性を発揮し始めた作品。要するに、清純な乙女の犠牲的な愛によって男の魂が救済される、というテーマがはっきりと打ち出され、音楽と言葉の密着度もグーンと増した。Ringに取りかかる前に作曲した3つのロマンティック・オペラ(<ローエングリン>、<タンホイザー>、<さまよえるオランダ人>の中でこの<オランダ人>がこの4部作Ringがもつ潜在的雰囲気と最も一致している。絶望、漠然とした対象への不満、人生それ自体の疲労。アハスヴェルス-さまよえるユダヤ人-(神話の書き直しが以上の観念を表現するにふさわしかった)-は何世紀にもわたってさまよい続ける宿命を背負い、決して心の平安を見つけだし得ない。これは1830年代から40年代にかけて当時のドイツに流布していた世界苦(の観念)に苦しんでいるものの擬人化であった。

 

1 [序曲]

 舞台は荒れ狂う北の海。ワーグナーは当時としてはきわめて斬新で大胆な不協和音や半音階を駆使して、デモーニッシュな世界に観客を一気に引き入れる。冒頭ホルンで不気味に力強く奏でられるのが呪われた〈オランダ人の動機〉。やがて緊迫した音楽が静まって木管で穏やかに奏でられるのが〈救済の動機〉で、ゼンタをも指している。この二つの動機は全曲の中で何度も現れ、このオペラの核となる重要な動機なので覚えておこう。一聴して明らかなように、二つの動機は対照的な性格を持っており、ドラマの軸となる対立する二つの概念を序曲で明瞭に提示している。次作《タンホイザー》序曲では二つの概念の対比はいっそう明確になるが、《オランダ人》序曲の構成はまだ充分に整理されておらず、「水夫の合唱」の旋律も途中に織り込まれ、全体はオペラの中の主要な旋律をメドレー風につなぎ合せたポプリ(接続曲、原意は「料理のごった煮」)である。

 

2 [第1幕]

 神の怒りを買ったために永遠に海上をさまようオランダ人の船長。その呪いがとけるのは、女性の真実の愛を得た時だけ。7年に1度上陸が許されるが、彼に心を捧げる女性と出会わなければ、再び海に帰らねばならない。嵐の日、強風に流されてようやく入り江に錨を降ろしたノルウェー船。舵手が恋人のことを歌いつつ寝入ってしまうと、近くに幽霊船がやって来て碇泊する。黒いマストに血のような赤い帆、物音も立てない船員たち。上陸したオランダ人は独り、海にさまよい続けなければならない運命を嘆く。ノルウェー船長ダーラント(Daland)が声をかけると、彼に一夜の宿を請い、もし彼の娘を妻にくれるなら、すべての財宝を差し出すという。

 

3 [第2幕]

 娘たちが糸紡ぎに精を出しているのを横目に、ダーラントの娘ゼンタ(Senta)は独り、壁にかかった「さまよえるオランダ人」の肖像画に見入っている。そしてこの男を救うのは自分しかいない、と直感する。皆に笑われても意に介さない。ダーラントの船が戻ってきた報せに、一同が出迎えに去る。猟師エリックはゼンタをつかまえ結婚を迫るが、ゼンタの耳には届かない。やがてダーラントがオランダ人を連れて来る。驚くゼンタ。黙って見つめ合う二人。父は娘に「この人はお前の花婿だ」と話しかけるが、無視されて出て行く。ゼンタはオランダ人に「永遠の貞節」を誓い、オランダ人はゼンタに救済の希望を見出す。

 

4 [第3幕]

 ノルウェー船の水夫たちが娘たちと楽しげに騒いでいる。しかし碇泊している幽霊船の水夫たちの不気味な合唱におびえて、一同は逃げ去る。そこへエリック(Erik)が恋人ゼンタを追ってやって来て、ゼンタの心変わりをなじる。ダーラントの船出を二人で見送った時、手を握り合ったのは貞節の誓いではなかったのか、と。オランダ人はこの会話を聞いてしまう。「もうおしまいだ。救済は失われた!私はあなたを疑う」。ゼンタの引き止めるのも聞かず、オランダ人は船に駆け戻り、出航しようとする。追いすがるゼンタ—「あなたを救う女性は私なのです!」ゼンタが海中に身を投げると、オランダ人の船も沈没する。船の破片漂う海に、やがてオランダ人とゼンタの魂は共に昇天していく。

(鶴間 圭)