退職関連記念研究会・饗宴

記号

[1]川村光毅教授 最終講義

記号

[2]日本生理学会大会サテライトシンポジウム【ニューロバイオロジー】[植村慶一教授 川村光毅教授 定年記念]

記号

[3]日本解剖学会全国学術集会シンポジウム「情動の神経機構とその生物学的意義」

記号

[4]退職記念研究会 討論会「脳と精神は如何に出会うか」

記号

[5]ぱてら会、川村光毅教授退任記念会

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[6]神経系の発生・分化・機能再建の研究会「情動発現の脳内機構」

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[7]退職記念寄稿文

記号

[1]川村光毅教授 最終講義

記号

@記念集合記念(第一校舎内)

記号

A講義スナップ

記号

B講義後のパーティー 11F(オアシス)

 解剖学教室川村光毅教授は来る3月31日をもちまして定年退職されます。つきましては下記の如く、最終講義を行いますのでご出席いただきたくご案内申し上げます。

   日時: 平成12年2月17日(木)午後4時より5時30分
   場所: 第一校舎講堂
   演題: 「脳と精神は如何に出合うか」講義要諦click

講義終了後、新棟11階「オアシス」にて小宴

記号

[2] 第77回日本生理学会大会サテライトシンポジウム【ニューロバイオロジー】

[植村慶一教授 川村光毅教授 定年記念]

<シンポジウム>

日時:2000年3月30日(木)9:30〜18:00
場所:慶應義塾大学信濃町キャンパス第一校舎講堂

<懇親会>

日時:2000年3月30日(木)18:30?21:00
場所:ホテル JAL City 四谷(信濃町キャンパスより徒歩7分)

プログラム

<開会の辞>                                 川村 光毅

9:30〜12:10                      座長:川村 光毅、池中 一裕

小野 勝彦    島根医科大学第二解剖
【脳の形成における細胞の移動 −オリゴデンドロサイトの移動を中心に−】

川野  仁     東京都神経科学総合研究所解剖発生
【大脳新皮質の形成メカニズム】

湯浅 茂樹 千葉大学医学部第二解剖
【神経発生におけるpresenilin-1の機能】

寺島 俊雄 神戸大学医学部第一解剖
【SRKラットのリーリン異常と神経回路】

端川  勉     理化学研究所脳科学総合研究センター神経構築 
【霊長類聴覚領皮質の構築と機能】

池中 一裕   岡崎国立共同研究機構生理学研究所神経情報
【中枢ミエリン形成細胞の発生と分化】

阿相 皓晃  東京都老人総合研究所神経生物
【中枢神経系におけるミエリン膜形成機構の解明について】

小幡 邦彦      岡崎国立共同研究機構生理学研究所神経化学
【GABAの初期発生へのかかわり】

13:00〜15:40                  座長:御子柴 克彦、植村 慶一

仲村 春和      東北大学加齢医学研究所分子神経
【中脳の領域形成】

中福 雅人 東京大学大学院医学系研究科神経生物
【哺乳動物脳の発生と神経幹細胞】

岡野 栄之 大阪大学大学院医学系研究科高次神経機能解剖
【神経幹細胞の同定とその分化制御】

戸田 正博      慶應義塾大学医学部附属先端医科学研究所細胞情報
【グリオーマにおけるMusashiの発現】

仲嶋 一範 東京慈恵会医科大学DNA医学研究所分子生物
【脳皮質神経細胞が整然と配列するメカニズム】

小川 正晴    理化学研究所脳科学総合研究センター細胞培養
【リーリンとカドヘリン】

岡本 仁/瀬川 浩     理化学研究所脳科学総合研究センター発生遺伝子制御
【LIMコードと運動・感覚神経の分化】

上口 裕之      理化学研究所脳科学総合研究センター
【L1の分子細胞生物学】

15:40〜18:00                 座長:野村 正彦、高坂 新一

宮脇 敦史     理化学研究所脳科学総合センター細胞機能探索
【カメレオンによるカルシウムイメージング】

竹居光太郎/御子柴克彦      科学技術振興事業団御子柴細胞制御プロジェクト 
【神経成長における細胞内カルシウムの役割】

白尾 智明     群馬大学医学部行動分析
【樹状突起スパイン形態制御におけるドレブリンの役割】

三浦 正幸      大阪大学大学院医学系研究科高次神経機能解剖
【神経系の細胞死】

高坂 新一     国立精神・神経センター神経研究所代謝
【アミロイド前駆体蛋白の脳内生理機能】

高松  研    東邦大学医学部第二生理
【ヒポカルシン欠損は学習不全をもたらす】

野村 正彦    埼玉医科大学第一生理
【学習と記憶】

<閉会の辞>                              植村 慶一

記号 [3]日本解剖学会全国学術集会シンポジウム「情動の神経機構とその生物学的意義」

31 March 2000:9:30-11:30, パシフィコ横浜,

 2000年度(第105回)日本解剖学会全国学術集会シンポジウム

 「情動の神経機構とその生物学的意義」座長:川村光毅、湯浅茂樹

プログラム

1. 西条寿夫、小野武年   富山医薬大・医
   情動の神経生理学

2. 篠田 晃        山口大・医
   情動回路の神経構築

3. 川野 仁        東京都神経研
   中脳ドーパミンニューロンの神経路形成過程:情動機能との関連

4. 池本桂子        藤田保健衛生大・医
   霊長類モノアミン神経系と情動機能

5. 湯浅茂樹        千葉大・医
   fyn 遺伝子欠損マウスにおける情動障害の解析

6. 川村光毅        慶應大・医
   情動と脳−21世紀への展望

抄録

西条寿夫、小野武年   富山医薬大・医

   情動の神経生理学

 情動(感情)は思考、注意、学習、・記憶、認知機能などと同様にヒトで最も発達した高次精神機能の一つである。すなわち、われわれは、情動により、外界や身体内部に関する膨大な情報の中から生体にとって重要な意味をもつ情報を選択・認知(認識)し、記憶情報と照合してその生物学的な意味[報酬性(有益;快情動)、または嫌悪性(有害:不快情動)]を価値判断している。また、思考内容に関する快・不快の価値判断や情報の結合の基準となるものも情動である。これら情動は、1)感覚刺激(対象物に関する情報)の受容、2)感覚刺激の生物学的(情動的)価値評価と意味認知、および3)価値評価と意味認知に基づく情動の表出および情動の主観的体験の3つの過程からなる。これらの3つの過程のうち、感覚刺激の価値評価が情動の最も本質的な部分であり、過去の体験や記憶に基づき情動系によって外界の事物や事象が自分にとってどのような意味をもつのか、報酬性か嫌悪性かなどを判断する過程である。情動の表出とは、外に現れて目に見える変化のことであり、1)刺激が有益のときには近づき手に入れようとする接近行動や、有害なときには遠ざかろうとする逃避や攻撃行動、2)顔面筋による表情の表出、および3)それに伴う自律反応やホルモン放出などが含まれる。一方、情動の主観的体験とは、感覚刺激により喚起される怒りや喜びなどで、情動の表出とは逆に、外からは見えない意識の中で起こっている過程である。
 これらの情動発現では、Papez(1937)やMacLean(1949,1970)らの先駆的な研究により、大脳辺縁系が中心的な役割を果たしていることが明らかにされている。さらに、解剖学的に、大脳辺縁系は、最も情動的な動物であるヒトでよく発達している。近年では、動物を用いた破壊・刺激実験、ヒトの臨床病理学的研究、さらにはPETやfMRIを用いた非侵襲的方法により扁桃体、前部帯状回、前頭葉眼窩皮質、側頭葉前部、島皮質、および視床背内側核などが情動発現に重要な領域であることが示唆されている。これらの領域は基底外側辺縁回路として相互に密接な線維連絡を有し、情動のニューラルネットワークとして機能している。とくに扁桃体は種々の大脳皮質感覚連合野から入力を受け、その感覚刺激の生物学的価値評価を行っている。さらに、扁桃体は視床下部および下位脳幹と密接な線維結合を有しており、この下行性経路により情動表出(情動行動、自律反応、内分泌反応)がなされる。したがって、これら扁桃体を中心とした感情情報処理経路のいずれかの部位が障害されると、最終的には情動表出が障害され、情動性の低下あるいは異常(Kluver-Bucy症候群)として観察される。すなわちKluver-Bucy症候群は、扁桃体を中心とした感覚情報処理経路における離断症候群として捉えることができる。一方、大脳辺縁系には、海馬体−脳弓−乳頭体−視床前核群−帯状回後部−海馬傍回からなる、基底外側辺縁回路と並列的な神経回路網(Papezの神経回路)が存在する。Papezの神経回路もほとんどすべての大脳皮質感覚連合野と相互に密接な線維連絡を有し、中隔核を介して視床下部−下位脳幹系と密接な線維連絡を有している。このように中隔核は、空間認知や記憶に重要な役割を果たしているPapezの神経回路と情動の表出に直接関与する視床下部・脳幹系との間でインターフェイスとして機能し、海馬体からの高次情報(記憶/空間情報)と視床下部からの生物学的意味に関する情報を統合し、自己の居場所を含めて周囲の環境状況に即した対象物体の意味認知に重要な役割を果たしている。本シンポジウムでは、感覚刺激の価値判断を行っているサルやラットの扁桃体や中隔核ニューロンの応答様式から情動発現の神経機構について考察したい。

 

篠田 晃        山口大・医
   情動回路の神経構築

 情動系は、情動体験と内的準備を含めた情動表出(自律神経系出力、情動表情、情動行動)から成り、外部環境や内部環境からの特に新奇情報や恒常性の乱れ、不適応に関する情報の認知・探索過程、評価過程を通じ、恒常性の維持や環境の適応に適当と思われる自律神経系と横紋筋運動プログラムへの出力制御をすることにより表現さえる。また、こうした入力情報の処理過程や情動出力からの再帰性情報処理過程が情報体験として顕在意識に上ると思われる。
 情動に関わる回路の中心は、連合野で処理された外部環境からの情報と視床下部や孤束核からの内部環境からの情報を統合処理し、前頭前野や基底前脳部を中心とする情動行動探索・発令系への出力と視索前野・視床下部・中心灰白質・腕傍核・迷走神経背側核を経ての情動行動や自律神経活動への出力を持つ扁桃体関連回路と考えられ、さらに、こうした回路は、嗅内皮質・海馬支脚への記憶刺激性増幅出力とモノアミン性ニューロンを主体とする欲動系への出力を持つ。
 今回は、情動経路に関わり最近新しく導入されてきている腹側大脳基底核系(腹側線条体淡蒼球系)の概念や扁桃体から分界条床核群に延びる扁桃体延長領域についての概念、中脳のアミン系の制御を介して内側視索前野に対して背側の自己刺激系を成す背側間脳伝導路等の新しい概念について述べる。さらに情動回路のその他の重要な特徴である嗅覚入力と性ホルモン感受性について、情動行動としての哺乳行動(乳仔期までの摂食行動)に関わるネックレス型一次嗅覚系および生殖行動や攻撃行動に関わる性ホルモン作動系についても言及する。
 基底前脳部の主体は、腹側大脳基底核系であり、嗅結節や側坐核は、背側に隣接する尾状核、被殻といった背側線条体に対する腹側線条体に相当し、以前無名質と言われた領域の大部分は背側の淡蒼球に対するに腹側淡蒼球に相当する。また分界条や扁桃体腹側奔走経路で扁桃体と強く結ばれた分界条床核を含む扁桃体中心核延長領域と扁桃体内側核延長領域という二つの扁桃体延長系リングシステムも基底前脳部の構成に強く関与している。最近では、基底前脳部は、腹側大脳基底核系と扁桃体延長系とマイネルトの基底核を含む基底前脳部大細胞群、さらに特に霊長類で著明な分布を示す数多くの散在性島状領域の複合体からなると考えられ、この領域の機能異常が分裂病やうつ病、その他の神経精神疾患の発症と深い関わりがある可能性が指摘されている。
 こうした情動回路は、またホルモンなどの液性情報に大きく影響を受けるという特徴がある。特に性ステロイドは代表的な情動行動である性行動、攻撃・防御行動の回路形成(分化)と行動(機能)の表出に決定的な影響を持つ。その関連脳領域のスクリーニングには、まず脳内のどの領域が性ステロイド受容体を表現する領域であるかを探ることが重要な手掛かりとなり、現在までのデータから、辺縁系(特に扁桃体)、分界条床核、内側視索前野および視床下部諸核が主導的役割を果たしていると考えられる。最近、雄の生殖機能や攻撃行動の分化・発現に関わる膨大なエストロゲン合成ニューロン群が扁桃体内側核・中心核から分界条床核さらに内側視索前野にかけての分界条に関連する弓状領域に局在することが霊長類を含む哺乳類脳内で見出され、これらは扁桃体内側核延長領域に相当し、ヒトの脳でもこれに相当するニューロン群が指摘されている。実際、エストロゲン合成酵素であるアロマテースのノックアウトマウスにおいて、生殖行動と攻撃行動の低下を見出しており、この領域が性ホルモンの影響下で性行動や攻撃行動の表出系の重要な中枢領域である可能性を強く示唆する所見を得ている。
 情動回路の発達は、個体が備える遺伝子プログラムに従って進行するばかりでなく、その過程で内部環境に出現するホルモンなどの作用によっても強く支配され、外部環境では、出生前の胎盤環境因子、出生後の母乳、食物、自然環境因子等が内部環境を経て神経細胞内遺伝子プログラムに作用し、さらに母子関係、家庭環境、社会環境因子等は直接脳の認知機能を含む記憶、学習系に作用し、強く脳の自己組織化メカニズムを修飾している。特に環境因子は、情動回路形成を修飾し、適応反応の形成や性格形成、脳の性分化に重大な影響を及ぼすものと思われる。

 

川野 仁        東京都神経研
   中脳ドーパミンニューロンの神経路形成過程:情動機能との関連

 中脳から終脳へ投射する上行性ドーパミン(DA)ニューロンは黒質線条体系と被蓋皮質辺縁系に分けられ、前者が主に錐体外路系の運動調節に関係するのに対し、後者は情動機能に関係を持つことが知られている。また、後者のニューロンは腹側被蓋野に局在し、大脳新皮質(特に前頭皮質)、扁桃体中心核、嗅結節、側坐核などに投射するが、特に側坐核は新規刺激や意欲に関係した情動反応や麻薬・覚醒剤・アルコール中毒などの報酬性刺激による習慣性、さらには精神分裂病の発症などとも関係する部位として重要視されている。
解剖学的にみると、黒質と腹側被蓋野のDAニューロンの分布には明確な境界がなく、どのようなメカニズムによって投射と機能の異なる2種のDAニューロン系が形成されるかという点についてはいまだ明らかでない。われわれはマウス中脳におけるDAニューロン系の発生過程を調べ、以下の結果を得た。
(1)黒質のニューロンが胎生11日までに誕生するのに対し、腹側被蓋野のニューロンは胎生11〜12日に誕生する。
(2)最初のDA軸索は黒質から伸長し、胎生13日には線条体に侵入する。その後、胎生14日には腹側被蓋野からの軸索が側坐核にまで達する。
(3)黒質線条体系と被蓋皮質辺縁系の軸索経路は胎生期には明瞭に区別され、さらに側坐核に投射する軸索には、胎生13〜14日の時点で神経接着分子L1の特異的発現が見られた。
(4)胎生期に側坐核から蛍光色素DiIによる逆行性標識を行うと、同側の腹側被蓋野のDAニューロンが多数標識されたが、黒質のDAニューロンはまったく標識されなかった。さらに、視床下部内側底部にも多数のニューロンが逆行性に標識された。
以上の結果から、黒質と腹側被蓋野のDAニューロンは、その誕生時期、軸索伸張の時期および経路、遺伝子発現などの発生過程に明らかな相違が認められ、それらは両者の機能的な違いを反映していると考えられた。
最近、被蓋皮質辺縁系のDAニューロンが食欲や性機能と関連することが報告されている。発生過程で示された情動反応表出の中枢である視床下部と側坐核との間の神経結合は、側坐核の機能を考える上で興味深い。さらに視床下部に存在する摂食・性機能に関係する多種のペプチド作動性ニューロン、さらには、レプチン受容体、性ホルモン受容体などの局在および発生と関連して、中脳DAニューロンの情動機能における重要性を論じたい。

 

池本桂子        藤田保健衛生大・医
霊長類モノアミン神経系と情動機能

 ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなどのモノアミンは快・不快、喜怒哀楽などの情動に関与する。モノアミンニューロンは、脳内に特定の局在を持ち、他のニューロンとネットワークをつくりながら、調節系として情動の神経回路に働く。このモノアミン神経系は、高等な動物ほど発達していることが知られている。本研究では、霊長類のニホンザル、ヒトにおいて、情動の神経回路のうち出力系に属する側坐核を中心に、中脳辺縁系を検討した。モノアミンはヒトの死後脳において速やかに酸化分解するため、比較的安定な合成酵素、たとえばチロシン水酸化酵素(TH)、芳香族アミノ酸脱炭酸酵素(AADC)などを免疫組織化学のマーカーとし、二重染色を組み合わせた方法を用いた。ヒト死後脳は、日本法医学会倫理委員会のガイドラインに従って、滋賀医科大学法医学講座の西村明儒助教授から法医剖検脳の提供を受けた。
 側坐核は、ラットでは大脳皮質、海馬、扁桃体、中脳、視床などからの入力を受け、中脳、腹側淡蒼球などに出力している。齧歯類の側坐核はshellとcoreの亜核に分けられ、shellは辺縁系からの入力を強く受けている。サルの側坐核も齧歯類と同様にshellとcoreの亜核に分けられるが、ヒトでは区分は明瞭でない。ニホンザルではshell背側部にモノアミン神経線維の入力が特に豊富で、サブスタンス-P、ニューロテンシンなどの神経ペプチドも多く存在する。側坐核腹側縁、側坐核近傍の前嗅核には、サル、ヒトではドーパミンニューロンが存在していた。サルや齧歯類と異なり、ヒトの線条体では、AADCのみを含有するニューロン(D-ニューロン)の分布密度が高く、側坐核では特に高かった。ヒト前帯状皮質には、ドーパミン線維と、TH単独陽性ニューロン、D-ニューロンがみられた。これらのD-ニューロンはモノアミン前駆物質を取り込んで、モノアミンに変換しているかも知れない。また、側坐核や前帯状皮質のドーパミン線維の起始核である腹側被蓋野では、ドーパミンニューロンのみならず、TH単独陽性ニューロンも観察された。腹側被蓋野のTH陽性ニューロンはすべて、THの補酵素であるテトラヒドロビオプテリンの律速合成酵素であるGTP cyclohydrolase I免疫陽性であった。ヒト腹側被蓋野TH陽性ニューロンには、L-dopaを最終生成物とするニューロンが含まれていると思われた。
以上の結果より、サル、ヒトにおいてそれぞれ独自のモノアミン神経系が存在し、特有の情動機能に関与していることが推定された。

 

湯浅茂樹        千葉大・医
   fyn 遺伝子欠損マウスにおける情動障害の解析

 Fyn tyrosine kinase (Fyn) 欠損マウスは強い恐怖反応、哺乳行動の異常など多彩な情動行動の障害を示す。Fynはsrc familyに属する非受容体型チロシンリン酸化酵素で、中枢神経シナプス活動における細胞内情報伝達にかかわるとともに神経発生にも関与する。したがってFyn欠損マウスは、特定の遺伝子欠損が情動障害を引き起こすにいたる神経機構を解析するための良いモデルになると考えられる。このマウスを用いて、情動の発現に関わる中枢の一つである扁桃体ならびに関連する神経構築の発生と機能の解析を行なった。
Fynは中枢神経系に広く分布するが、海馬、扁桃体、梨状葉、嗅球のような大脳辺縁系や大脳基底核に強く発現し、免疫電顕的には後シナプス膜肥厚部に局在が認められた。また、胎生期中枢神経発生過程では移動神経細胞の先導突起(leading process)に強く局在していた。
 成体Fyn欠損マウスの前脳においては、新皮質および海馬の層構造に異常が認められた。正常マウスの新皮質ではU〜V層に分布するcalbindin陽性ニューロンがより深層に異所性に分布し、海馬では歯状回の低形成、アンモン角の層構造の形成異常が認められた。Fyn欠損マウスにおけるこのような皮質層構造の形成異常には、発生過程における特定の神経細胞サブセットの移動障害が関与していた。
 一方、正常マウスの扁桃体ニューロンは胎生12〜14日にganglionic eminence最内側の神経上皮から発生し放射状グリア突起に沿って移動する。扁桃体ニューロンは発生直後から視床下部へ向かって投射線維である分界条(stria terminalis)を伸張した。胎生期Fyn欠損マウスでは扁桃体ニューロンにも細胞移動障害が認められたが、投射の形成に障害があるかどうかは現在検討中である。
 成体Fyn欠損マウスの情動機能について検討するため恐怖条件づけを行なうと恐怖反応が著明に亢進していた。恐怖条件づけ後に脳内に出現するc-Fos免疫陽性ニューロンのマッピングを行うと、Fyn欠損マウスでは正常マウスに比較して扁桃体、視床下部、中脳中心灰白質で陽性ニューロンの数が著明に増加していた。NMDA投与によってもFyn欠損マウスの扁桃体、視床下部でc-Fos免疫陽性ニューロンの著名な増加が認められた。いずれの場合も扁桃体亜核についてみると、視床下部に投与する扁桃体内側核群で増加が著しく、Fyn欠損マウスでは情動表出システムの興奮性亢進が起こっていると考えられる。
また、haloperidol投与によって正常マウスはakinesia、muscle rigidityのような錐体外路症状を示すがFyn欠損マウスでは症状が認められなかった。正常マウスではhaloperidol投与によって線条体のNMDA受容体ε2サブユニットのチロシンリン酸化が著明に亢進するのに対し、Fyn欠損マウスではほとんど影響が認められなかった。
以上の所見より、Fyn欠損マウスの情動障害には扁桃体の興奮性亢進が大きく関与している。特にNMDA受容体の反応性の異常とともにドーパミン作動性システムの障害も加わっており、その基盤には扁桃体を含む大脳辺縁系の発生障害、神経細胞移動の異常が関わっていると考えられる。

 

川村光毅        慶應大・医
   情動と脳−21世紀への展望

 高次神経活動における情報処理は認知システムと価値判断システムの二重構造から成っている。その結果は運動系を介して出力として表現される。感覚・知覚・認知・運動の系はこれまで、たとえば、それらの神経回路(網)について、比較的に詳しく研究されてきた。しかし、情動にかかわる価値判断システムの回路に関しては、立ち遅れた現状にある。人間においては認知機構は最高の段階に達し、言語(ロゴス)を介した抽象的認識が可能になる。脳の発達・進化の段階に照合して認識レベルに質的に差が生じると同様に、情動(パトス)機構を支える脳の発達段階を反映して、いわゆる階層性がみられる。魚の群集行動、鳥の鳴き方、ネズミの不安反応などを比較してみればその存在は明らかである。将来の展望として、ロゴスとパトスと今後判明するであろう何か形象的なもの、これら3者の統一を可能にする周辺の実験データが欲しい。脳と心が「何處」で「何」が「如何」に出会うのか。この問題を単に観念的に解釈する時代はすでに終わった。現在はやりの遺伝子と分子とそれにシステムの構成を、発生学や比較解剖学の知識をとりいれて、統合させるダイナミックな手法に基づく研究が要求される。いま、精神の異常の学問の分野に科学的に切り込んだ仕事が増えている。

記号 [4]退職記念研究会 討論会「脳と精神は如何に出会うか」
記号 会議中スナップ

2 June 2000: 9:40- party at Oasis

討論会「脳と精神は如何に出会うか」開催の知らせ

 仲春の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
 さて、慶應義塾大学川村光毅先生は、去る3月31日に解剖学教室教授の職を退任されました。これを機に、川村先生の永年の研究対象でありました高次神経機能に関わる様々な分野の専門家をお招きして、「脳と精神は如何に出会うか」と題した討論会を下記のように開催する運びとなりました。内容は同封のプログラムをご参照ください。時節柄、お忙しいこととは存じますが、ご出席いただきまして、討論にご参加いただきたくご案内申しあげます。

演者の方々へ
 聴衆・参加者には自然科学の人達のほかに、人文科学や音楽関係の人達もおられます。講演の導入部はintellectualな素人にもスーと理解できるようにとくに思いやりをもって話をして下さい。できるだけ用語、とくに専門の言葉は説明して用いるように心がけて下さい。jargon が飛び交うことがなるべく少ないようにご配慮下さいますようお願い致します。精神活動=高次神経活動という理解が深まることを期待してこの討論会を企画しました。知人に広く参加を呼びかけて楽しい会合にしたいと念じております。なお、当日、資料のプリント配布(hand-out)をなさいます先生は、前々日までに原稿を川村宛にお送り下さい。(川村)

討論会「脳と精神は如何に出会うか」世話人

千葉大学医学部 解剖学教室 湯浅茂樹
東京都神経科学総合研究所  川野 仁

              事務担当、問い合わせ先

慶應義塾大学医学部 解剖学教室 野上晴雄
船戸和弥

 

脳と精神は如何に出会うか(討論会)

2000年6月2日(金) 午前9時40分より
慶應義塾大学 医学部 病院内新棟11階 中会議室

プログラム

9:40-11:00
石 龍徳 (順天堂大・解剖)  「海馬ニューロンの新生・可塑性と記憶」
湯浅茂樹 (千葉大・解剖)   「マウス扁桃体の発生機構と情動発現における役割」

11:00-11:10 Break

11:10-12:30

川野 仁 (神経研・解剖発生) 「A10ドーパミンニューロン・欲と快」
上田秀一 (独協大・解剖)   「脳が生み出す攻撃性−攻撃性研究の最前線−」

12:30-13:20 昼食

13:20-14:40
川村光毅 (慶應大・解剖)   「ロゴスとパトス−脳の活動」
丸山桂介 (東京音大・樂理)  「音楽・神律の鏡
−知覚と響きの二つの方向性について−」

14:40-14:50  Break

14:50-16:10
坂上雅道 (順天堂大・生理)  「感覚情報と行動的意味」
丹治 順 (東北大・生理)   「アクションを実行させる脳」

16:10-16:20  Break

16:20-17:40
西川 徹 (東京医歯大・精神科)「分裂病がひきおこされるメカニズムを探る」
加藤進昌 (東大・精神科)   「心因性精神障害の神経科学」

17:40- 参加者全員による自由討論(視聴覚機器使用可)

19:00- パーティー、大学病院内11階レストラン「オアシス」

討論会「脳と精神は如何に出会うか」世話人

千葉大学医学部 解剖学教室 湯浅茂樹
東京都神経科学総合研究所  川野 仁
慶應義塾大学医学部 解剖学教室 野上晴雄

記号 [5]ぱてら会、川村光毅教授退任記念会
記号 退職記念スナップ

10 June 2000: 17:00- Hotel New Otani
  ぱてら会、川村光毅教授退任記念会

謹啓 清和の候 皆様方には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、慶應義塾大学医学部解剖学教室 教授 川村光毅先生には平成十二年三月三十一日をもちまして本学を定年退任されました。先生は、岩手医科大学、岡山大学医学部の解剖学教室教授を歴任後、昭和六十三年に本学解剖学教室教授に就任され、解剖学、神経解剖学の教育に尽力されると共に、本学並びに解剖学教室の発展に多大な貢献をされました。また、神経解剖学、神経発生生物学、最近では情動発現にかかわる神経路形成に関する研究など、常に神経研究の先端を歩まれ、この分野の研究の発展に大きな功績を残されました。
 つきましては、先生の永年のご功労をねぎらい、また新たなるご出発をお祝いいたしたく左記の通り退任祝賀会を催したいと存じます。ご多忙とは存じますがなにとぞご臨席賜りますようご案内申し上げます。

敬具

 平成十二年四月吉日

一、日時 平成十二年六月十日(土曜日)午後五時開宴(四時三十分より受付)
一、場所 ホテル ニューオータニ ザ メイン 十六階 彩雲の間
一、会費 二万円 (当日会場受付にて申し受けます)

パテラ会(慶應義塾大学医学部解剖学教室同門会)
会長 福井 朗
慶應義塾大学医学部解剖学教室
教授 相磯貞和

[6]神経系の発生・分化・機能再建の研究会「情動発現の脳内機構」

第4回 神経系の発生・分化・機能再建の研究会

テーマ:情動発現の脳内機構

日時:2000年9月3日(日)14:00〜19:30
場所:関内新井ホール 5A会議室
横浜市中区尾上町1-8 関内新井ビル11階 
 JR関内駅から徒歩2分

プログラム

14:00〜14:05
開会の挨拶 川村 光毅

座長 川村光毅

14:05〜14:50
1) 扁桃体の形態と機能
西条 寿夫(富山医科薬科大学 生理学)

14:50〜15:35
2) 線条体の機能−運動・情動・学習−
木村 實(京都府立医科大学 第二生理学)

15:35〜16:20
 3)情動神経回路の発生と分化 −中脳ドーパミンニューロン系−
川野 仁(東京都神経科学総合研究所・発生形態研究部門)

***休憩20分*** 16:20〜16:40

座長 井出千束

16:40〜17:25
性機能と情動
佐久間康夫(日本医科大学 第一生理学)

17:25〜17:50(発表15分、討論10分)
指定討論)性分化に関わる神経回路について
篠田 晃(山口大学 高次神経科学講座神経解剖学)

17:50〜18:35
5) グルココルチコイドとストレスとうつ病
渡邊 義文(山口大学 神経精神医学)

18:35〜19:20
6) 大脳辺縁系の発達異常と高次神経活動
川村 光毅(慶應義塾大学 解剖学)

19:20〜19:30
閉会の挨拶 井出 千束

抄録

扁桃体の形態と機能
西条寿夫・小野武年 (富山医科薬科大学・医学部・第一生理学・第二生理学)

 扁桃体は, 有益(快)か有害(不快)かなど既知の感覚刺激の生物学的価値評価に関与している。さらに, 動物を用いた近年の研究によると, 扁桃体は新奇な刺激が現れたとき, あるいは既知の刺激の生物学的意味が変化した場合に, 刺激の生物学的意味を学習していく過程, およびその記憶保持に重要な役割を果たしている。ヒトでも, 扁桃体は, 条件付けの獲得や情動的な体験によるエピソ−ド記憶の固定過程(短期的記憶から長期記憶への移行過程)に関与していることが報告されている。現在, これら情動記憶における役割として, 扁桃体は1)情動記憶の獲得(学習), 2)情動記憶の固定, および3)獲得した情動記憶の保持(貯蔵)のすべての過程に関与していることが示唆されている。一方, 扁桃体は, 前脳基底部および青斑核より, それぞれアセチルコリン(ACh)およびノルアドレナリン(NA)性線維投射を受ける。行動薬理学的研究により, これら2つの神経系は扁桃体で共同的に作用することにより学習・記憶貯蔵に重要な役割を果たしていることが明らかにされている。本口演では, これら扁桃体の役割を示唆する行動学的、神経生理学的、および神経解剖学的研究について最近の知見を紹介したい。

 

線条体の機能−運動・情動・学習−

木村 實(京都府立医科大学第二生理学) 

 線条体は大脳皮質との間に視床を介して部位依存的なループ神経回路を形成しており、運動系皮質−被殻系、前頭前野−尾状核系、外側眼窩前頭皮質−尾状核系、帯状回 前部−腹側線条体系などが区別されている。これに対して、黒質線条体ド−パミン系、視床線条体系は広範な投射をもち、それぞれ報酬や動機づけ、注意に関する情報を担っていると考えられている。さて、行動課題を行っている動物の線条体のニューロンは、課題で用いられる感覚刺激や手や眼球の運動に関連して活動するが、その活動は刺激や運動が報酬と結びついている時には大きいが、結びつかない時には極めて弱 い。一方、ド−パミンニューロンはジュースや食べ物などの報酬に対して放電を増大させるが、行動課題が達成された後で報酬を与えると、報酬につながる最初の手がかりに対して放電し、その後では活動しない。また、新しい行動課題の学習では、学習 初期に強い活動をするが学習の進展に伴って、活動が弱くなる。これは大脳基底核が動機づけに基づく学習(強化学習)に関与することを示唆している。

 

情動神経回路の発生と分化 −中脳ドーパミンニューロン系−

川野 仁(東京都神経科学総合研究所・発生形態研究部門)

 上行性の中脳ドーパミン(DA)ニューロンは投射部位と機能の違いから、黒質−線条体系(A9)と被蓋−皮質辺縁系(A10)に分けられている。前者が主に錐体外路系の運動調節や運動記憶の形成に関わるのに対し、後者は情動の中枢である扁桃体や視床下部と深い関係を持ち、新奇刺激や、摂食・性行動などの報酬性刺激に敏感に反応することが知られている。また最近、A10DAニューロン系はモルヒネ、コカインなどの薬物依存の形成や精神分裂病の発症にも関わっていることで特に注目されている。
 このように情動機能と深い関連を持つ中脳DAニューロンの発生過程は、情動機 能の発達と密接に結びつくと考えられるが、その発生のメカニズムや神経回路の形成機序についてはいまだ不明な点が多い。私たちは最近、マウスで中脳DAニューロン系の発生過程を形態学的に調べた結果、黒質と腹側被蓋野のDAニューロンは、誕生と神経投射の時期、軸索走行経路などの点で発生の最初期より分化していることを見いだした。さらに遺伝子ノックアウトマウスを用いて解析したところ、ある種の転写調節因子が中脳DAニューロンの神経路形成に関係することも明らかにした。これらの結果に基づいてDA神経路形成のメカニズムについて考察する。

 

性機能と情動

佐久間康夫(日本医科大学 第一生理学) 

 思春期における問題行動の発現や少なからぬ精神神経疾患の発症に性ホルモンが関わることが示唆されている。明瞭な雌雄差があり、それを人為的に転換できること、単純な行動要素に分解して数量化が可能なこと、また、性ホルモンの存在が行動発現に必要十分であるといった特徴から、脳に対する性ホルモンの作用や情動行動の脳機構を理解するために、ラットの性行動は格好のモデルである。卵巣摘除雌ラットにエストロゲンとプロゲステロンを投与すると強い発情が誘発され、雄のホームケージに導入すると一連の誘惑行動を起こす。前脳底部の内側視索前野の破壊により誘惑行動は消失する。この部位から中脳に下行する投射はエストロゲンに感受性があり、また行動中の動物から単一放電活動を記録すると、誘惑行動に一致して放電頻度の高まる神経細胞が存在するといった所見から、誘惑行動の調節には内側視索前野が中心的な役割を果たしている。一方、雌の挑発に応じた雄がマウンティングを試みると、発情雌はロードーシス反射により雄を受容する。受容行動も内側視索前野の異なった細胞群の調節のもとにある。大脳皮質や辺縁系と密接な線維連絡を持つことから、性行動に限らずさまざまな情動行動の調節に内側視索前野が関与すると考えている。

 

指定討論

性分化に関わる神経回路について

篠田 晃(山口大学・医学部・高次神経科学講座)

 性ステロイドは代表的な情動行動である性行動、攻撃・防御行動の回路形成 (分化)と行動 (機能)の表出に決定的な影響を持つ。その関連脳領域のスクリ−ニングには、まず脳内のどの領域が性ステロイド受容体を発現する領域であるかを探ることが重要な手掛りとなり、現在までのデ−タから、辺縁系 (特に扁桃体)、分界条床核、内側視索前野および視床下部諸核が主導的役割を果たしていると考えられる。最近、雄の生殖機能や攻撃行動の分化・発現に関わる膨大なエストロゲン合成ニュ−ロン群が扁桃体内側核・中心核から分界条床核さらに内側視索前野にかけての分界条に関連する弓状領域に局在することが霊長類を含む哺乳類脳内で見出され、これらは扁桃体内側核延長領域に相当し、ヒトの脳でもこれに相当するニュ−ロン群が指摘されている。実際、エストロゲン合成酵素であるアロマテ−スのノックアウトマウスにおいて、生殖行動と攻撃行動の低下を見出しており、この領域が性ホルモンの影響下で性行動や攻撃行動の表出系の重要な中枢領域である可能性を強く示唆される。

 

グルココルチコイドとストレスとうつ病

渡辺義文(山口大学医学部神経精神医学講座)

 うつ病の発症にストレスが誘因としてはたらくことは周知の事実である。さらにうつ病患者の抑うつ状態において、視床下部−下垂体−副腎(HPA)系の異常が状態依存性に認められることが数多く報告されている。その主なものはグルココルチコイドを介したネガティブフィードバック機能の異常である。このような事実から、うつ病患者は素因としてストレス脆弱性を有しており、軽微な慢性的ストレス負荷によっても容易に破綻状態に陥り、うつ病を発症するとの仮説が注目を集めている。この仮説からうつ病の病態に迫るためには、ストレス脆弱性の実体の追求が必要不可欠であるが、その前提としてストレスに対する脳の適応機構の実体を明らかにする必要がある。我々はHPA系、脳内興奮伝達系の化学的指標であるc-fos遺伝子の脳内発現、ストレス惹起性不安行動を指標として、慢性ストレスに対する脳の適応反応を確認してきた。うつ病の病態や抗うつ薬の薬理作用を研究するうえで、素因としてストレス脆弱性を有する動物モデルは恰好の研究対象となる。現在、我々が見出したストレス適応反応を指標として、このストレス脆弱性動物モデルの開発を行っている。

大脳辺縁系の発達異常と高次神経活動
川村光毅(慶應義塾大学解剖学)

 メダカにはドーパミン線維が密に終止する“扁桃体”に相当する領域があり、ここを破壊すると集団行動ができなくなる(坪川、川村)。トリでは、音声によってコミュニケーションが成立する。ニワトリ/ウズラのキメラ実験を行い、トリの鳴き声の種特異性を決めている領域は、nurob(鳥の扁桃体相同部分)と舌下神経核に線維を送っているnuic(dm)であることが示された(竹内)。nuic (dm)域は中脳網様体に相当する部分で、哺乳類ではここに歩行パタンのジェネレーターが存在することが明らかにされている。このように、社会行動の種特異性が扁桃体における価値評価という面と、中脳網様体のパタン・リズム形成/発現に関連づけられることは注目に値する。終脳が発達しているマウスでは、扁桃体が情動の発現に関与していることが恐怖(不安)条件反射実験を行った結果、明らかにされている(湯浅)。また、遺伝子欠損マウス、たとえばNkx2.1欠損マウスの解析で扁桃体や梨状葉皮質の形成不全や前交連線維の正中部における交叉不全、視床下部・前頭葉間結合線維の異常増強などが認められる(大山、川村)。さらに、Pax-6変異体ラットを解析して、視床皮質路が内包を通過せず、扁桃体核内に侵入するなど、情動系の異常投が認められる(川野、川村)。
 連合野が発達するサルの段階になると、価値判断ニューロンが存在する扁桃体の研究の外に、周囲の状況を判断して行動する動物のパタンを解析することが可能になる。丸や四角を区別でき、短期と長期の記憶の関連性などを調べられる(西条講演参照)。
 ヒトの大脳皮質は、新皮質の幅、ひろがり、線維結合などの面において、サルに比べてはるかに高度である。組織学的にみて、神経細胞が密に分布し、錐体細胞の樹状突起がより高度に分化し、回路網が著しく発達している。ヒトの脳ではヒエラルキーの高い情動系と言語系(パブロフの条件反射第二信号系)が結びつき、外界からの情報を処理し、環境に対して労働する過程で解析力や総合力が格段に高まる。またヒトの新皮質は領域化と層状化にも特徴ある発展がみられる。つまり分析的な知覚性皮質野と後連合野、さらに、前頭前野への発展というように“上向”的にヒトの大脳皮質をみたとき、下等動物には存在しないヒトの皮質の高次化された形姿が浮かび上がってくる。ネコでは混在している運動野と体性知覚野が、サルやヒトの皮質機能域では分離し、さらに細分化されてくる。「受動的」皮質におこる諸活動を統合して「能動的」機能を発揮できるように変換・総括する機能もつ皮質領域がヒトで発達してくる。この領域が連合野とくに前頭前野である。

[7]退職記念寄稿文集

 

安田 健次郎猿田 享男相磯 貞和倉田 洋子大谷 克己辰濃 治郎小越 章平国安 芳夫吉川 武彦白石 博康岡上 和雄内藤 順平寺島 俊雄Felix Makarov菅原 圭三端川 勉宗像 克治佐藤 洋一紺野 敏昭七海 敏之小笠原 孝祐関谷 治久鈴木 満Ann GraybielGeoffrey RaismanEdward G. JonesConstantino Sotelo井出 千束加瀬 学丹治 順松下 松雄遠山 正彌福田 淳小野 武年小幡 邦彦川村 浩臺 弘西本 詮伊達 勳中嶋 裕之小野 勝彦佐野 豊上田 秀一石 龍徳鈴江 俊彦塚田 裕三植村 慶一保崎 秀夫鹿島 晴雄伊豫 雅臣小川 元之馬場 存大山 恭司武田 泰生岡野 栄之岡本 仁白沢 卓二野上 晴雄片山 正輝神庭 重信竹内 京子中原 仁池本 圭子Chiara Cecchi松本 元丸山 桂介川野 仁(掲載順)

 

 川村光毅先生が定年を迎えられるに当たって

安田健次郎

 

先生は平成12年3月に定年を迎えられた。これにより昭和63年以降12年間に亙る充実した勤務を完了された。

先生は岡山大学医学部から慶應義塾大学医学部に移られた訳であるが、当時を振り返ると次のような経過で先生をお迎えした次第である。

昭和62年4月10日(金)に第一回解剖学教授選考委員会が開かれ、同年5月6日(水)に第二回の選考委員会が開かれた。以後数回の選考委員会を経て6月22日(月)の選考委員会において最終的に候補者を絞り、同年7月20日(月)の教授会で選出された。教授会での選出に先立って同年6月2日(火)に私は選考委員長として岡山大学を訪ねた。岡山大学医学部の意向と川村先生自身の意志の確認の目的であった。当時の岡山大学医学部長は小田琢三教授(医学部癌研究所生化学部門)であった。その時点で、慶應義塾に来て頂くことに無理な状況ではないことを確認し、次の選考委員会で候補者を一人に絞り7月20日(月)の教授会に議題として提出する準備をしたわけである。

話はやや逸れるが、当時の医学部長の小田琢三教授は昭和35年(1960)にニュウヨークにおける国際解剖学会議に次いで行われた米国組織細胞化学会議において既にお見掛けした方であった。その時点で核酸に関する研究をしていられたが、大部分が米国人であった参加者席から手を挙げて質問に立たれ英語で質疑応答をされる日本人学者が居られた。それが小田先生(当時の職位は明らかではない)であった。留学したての若い研究者に感動と勇気を与えてくださった先生であった。帰国後は同じ学会に属し、長くお付き合いをさせて頂いた関係もあり、気楽に川村教授をお誘いする事に対する可能性を打診することが出来た。その時には『岡山大学にとっては掛け甲斐のない解剖学者ですが、慶応大学が是非にと誘われ、本人が了承されるのならば残念ながら止むをえません』という趣旨のことを言われたように記憶する。医学部長と川村教授にお話をした後に、帰路同教授が大学の近くにある竹久夢二の美術館に案内して下さった。私には初めての経験であったが、後日、信州小布施の北斎美術館にも同画家の展示場があり、岡山に伺った当時を思い出したこともあった。

かくして昭和62年7月29日(水)に、植村医学部長が岡山大学を訪問し正式に割愛の願いを提出され、受理された。

その後川村教授は9月26日(土)に本学医学部を訪問され、医学部長に会われた後、塚田教授や私共と歓談する時間を持たれた。そして年度末の昭和63年3月12日(土)に本学解剖学教室を訪ねられ、その後住宅の探索などをなされて、同年4月1日付で本学の教授になられたわけである。

戦災を被った義塾の困難な財政状態の中で建築された第一校舎の教室は当時既に手狭であった。また電子顕微鏡も一台しかなく、他学から教授をお迎えするには必ずしも良好な環境ではなかったが、相談しながら、また、二〜三の工夫をしながらどうにか活動を開始して頂いた次第である。その後、私は医学部長の仕事に追われ、解剖学会と電子顕微鏡学会の用件で多忙となり教室内の事項に余り関与出来なくなったが先生は溌剌と活動を開始して居られた。

振り返ると、本当に瞬く間に12年間が経過してしまったと思う。他学から移られてご苦労も多かった事とお察しするが、この間先生は学会での活躍は勿論、多くの研究者を育てられ、本学の神経科学の発展に大きく貢献され、誠に賞賛と感謝の気持ちで一杯である。

今後は健康に留意され、益々研究の成果を重ねられ形態と機能に関わる脳研究の分野に大きな足跡を残されることを期待して止まない。

(慶應義塾常任理事)

 

川村光毅教授の退職にあたって

猿田享男

 

川村光毅教授は、198841日に慶應義塾大学医学部解剖学教室の教授として就任されました。解剖学教室は二教授制であり、神経解剖学を担当しておられた嶋井和世教授の後任として、脳・神経領域を担当することになりました。先生は1961年千葉大学医学部を卒業されてから、秋田大学医学部助教授、岩手医科大学教授、その後岡山大学医学部教授を歴任されたのち、私どもの医学部の教授に就任されました。歴任されてこられた各大学は講座制をとられていたことから、慶應のように大教室制をとっている大学では多少勝手が違って活動し難かったことと思います。先生が1994年から教室主任になられてからは、先生のペースで研究・教育が推進され、脳・神経生理グループとの共同研究等、慶應における脳・神経系の研究・教育の発展に大きく貢献して下さったことに深く感謝致します。しかし先生のライフワークである脳・神経系の発展と機能に関する研究を、慶應在籍中にどれだけ満足におできなられたか、懸念しています。やっと慶應にも新しい研究棟が建設され、研究体制が整ったときに御定年で、さぞ残念に思われていることと御察知致します。先生のように研究熱心な方は、これからご自分の研究に専念されると思いますので、どうぞ新研究棟を上手に利用されてこれからも素晴らしい研究をなさって下さい。

  私は先生とは研究領域も異なり、研究室も離れていたことから研究面での交流はありませんでしたが、御家族の方の病気のことなどから大変親しくさせていただきました。医学部の諸雑事に関して何かとご迷惑をおかけ致しましたが、色々とお助けいただき誠に有難うございました。これからは呉々も御健康に注意され、先生のお好きな研究をお続け下さい。長い間にわたって誠に有難うございました。

(慶應義塾大学医学部長)

 

川村先生の御退任にあたって

相磯貞和

 

 この度、川村先生が御退任を迎えられるにあたり、心よりお祝いを申し上げます。

 1988年に慶應義塾大学医学部解剖学教室に川村先生が御着任になられた際には、既に教室に在籍しておりましたにもかかわらずお話をさせていただく機会もほとんどないままに、御着任されて数日後に私は米国留学に出発致しました。従いまして、先生とお話をする機会を得ておりましたのは、1991年秋に私が教室に帰室して以来約10年の間でしたが、この間、私に様々の面で御指導と御配慮を賜りましたことを、厚く御礼を申し上げます。

 米国での生活によって米国風となってしまった私には、川村先生がお持ちになられている雰囲気はとても新鮮に感じられました。特に、ロシアに留学されていらっしゃった当時の御経験談や先生が好まれる文化芸術についてのお話などを、大変興味深く伺うことができました。先生のお話を伺うにつけ、米国での日々でイレーズされてしまったかつてのヨーロッパ文化へのあこがれが、私に再びよみがえって参りました。

 先生には退任後もライフワークとして情動に関する神経科学的研究を続けられると伺っております。どうぞこれからも御健康に留意されていただきたく、先生の学問を御披露されることを願っております。

(慶應義塾大学医学部解剖学教室、教授)

  

国民学校6年間の川村さん

倉田 (旧姓永井) 洋子

 

19414月、土浦市の高台に建つ学校に、122名の友人達と共に入学しました。既に日中戦争は始まっており、旧小学校は、この年から真鍋国民学校と改称されていました。校庭の中央に、数本の桜の大樹(天然記念物指定)が繁り、春には花が爛漫と咲き、夏には気持ち良い木陰を作ってくれ、生徒はわずかな休み時間を惜しんで、樹の下で大いに遊んだものでした。

  何もかも新しいピカピカの一年生の時、彼とは偶然、同じクラスとなりました。また、背の高い現在の川村教授からは全く想像できないことですが、身長に私と大差はなかったのか、身長順に定められた座席で、お隣として並んでいました。

  子供心に最も楽しいお弁当の時間、隣人の彼の弁当は、いつも色どりよく美味しそうでした。卵焼きに魚といった惣菜に、彼は箸を上手に使い魚の骨を丁寧にはずし、切り身をくずし、それを真に美味しそうに口に運ぶのでした。その行儀の良い器用な動作を、隣席から感心してそっと眺めたものです。

  ある時は、講談社の絵本を貸してくれました。「岩見重太郎」とか「牛若丸」といった歴史物語でした。お蔭様で、これは私の読書入門書となりました。これらの本は、和紙で表紙がカバーされ、頁が散逸しないように和綴じで修復されていました。その見事なしっかりした装丁に、女医であり歌人であった母上様の人柄がしのばれ、私の母は感嘆の声をあげたものでした。

  一年生在学の12月、真珠湾の奇襲、太平洋戦争の始まりです。シンガポール占領が報じられ、間もなく島は昭南島と改称され、生徒にゴム毬一個の配給がありました。しかし、これは束の間、ミッドウェー海戦以降は戦況も国民生活も逼迫していきました。サイパン島の陥落後、B29の襲来は激しさを増し、東京大空襲の際は、風に運ばれてきた灰が土浦の上空に数日漂い、晴天なのに曇り空でした。空襲と飢餓地獄の中、生徒は防空頭巾をかぶって登下校でした。疎開の友人も多数で、教室はすしづめでした。そのせいか、この時期の彼は少しシャイで腕白少年だったことしか、どうもはっきり思い出せません。

  19458月、終戦で平和になるにつれ、乏しい生活ながら授業が行われたのは五年生から六年生の頃です。教科書は軍国主義的表現を墨で黒くぬりつぶして利用する時代でした。しかし、軍歌は消え、音楽の時間には今に残る童謡や小学唱歌が復活して、子供心にもどんなに新鮮な感動でこれを歌ったかわかりません。理科の実験で石けん作りなどをして、学習意欲なども刺激されました。この頃から、彼は断然学力で頭角をあらわしてきました。また、実験の準備やクラスのことにリーダーシップを発揮するようになります。卒業年度の学芸会では、狂言の舞台に立ちました。地方都市に住む私達には、能や狂言を観る機会のない当時です。彼はどんな研究や工夫を重ねたのか、紋付着物と袴の装いで登場、「太郎冠者あるか……」の第一声で初め、淀みない台詞と動作で観衆の喝采を得たのでした。今思い出しても、自然に笑みが浮かぶものです。彼の大傑作でした。

  野球が子供の遊びとなると、彼は一塁を守備し、右手を高くかかげ、軽々とジャンプをしながら白球をとらえる姿が校庭にあったものです。この年度の3月、共に最後の国民学校の卒業生となったのでした。

  大学入学で土浦を去り、さらに学窓を巣立ってなお社会的力量を獲得するほどに、彼の研究活動の場は深く大きく国際的広がりをみせていったことでしょう。その彼の持つ豊かな素地は、戦禍の荒波を辛うじて潜り抜けながら、幅広く多面的に幼少時代から培ってきたものと思うのです。

(華頂学園短期大学前教授)

 

  

出藍の誉れ

大谷克巳

 

 世に「出藍の誉れ」という諺がある。私が藍であったか否かについては問わないことにする。今、この言葉を用いるのは、川村君が師の一人であった私を遥かに抜きん出ていたからである。

 川村君とその令夫人の孝子さんに会ったのは、昭和334月の事である。当時、草間敏夫教授の下の助教授として、4月からUCLAに留学のため出発する8月までの短時間、川村夫妻達に私の分担の泌尿器系を講義した。昭和374月に、草間教授は恩師の小川鼎三教授が東大を停年退職されたので、その後任として東大脳研究所教授になり、東大に転勤された。

 川村君は千葉大を36年に卒業し、草間教授の助言を得て、松本胖教授が担当された精神神経科に入局し、さらに大学院学生になった。

その当時の精神神経科ではフロイドの精神分析の勉強が主流となり、大学院学生の多くは自分が好む基礎医学教室で勉強することになっていた。丁度、その頃私は第三講座の教授に昇進し(402月)、中枢及び末梢神経系を分担することになった。そこに、川村君が精神神経科の大学院学生のまま入室したいと訪ねてきた。私の教室では、草間前教授(第一講座)が千葉大に置き土産として残してくれたNauta法ないしNautaGygax法を用いて聴覚領及び視覚領から起こる投射線維群を調べていたので、川村君にはこれらの方法を用い、大脳皮質の連合及び交連線維群を調べてもらう事にした。その理由は、これまで連合及び交連線維群ついての研究があまりにも少なく、しかもその研究法は肉眼、グリアの増殖ないしオスミウム酸を用いたMarchi法によるもので、硝酸銀を用いて変性線維及び前終末を染めるNauta法に比べると鋭敏性及び正確さに欠けていたからである。またNauta法はStrychnine SpikeないしEvoked Potentialを記録する電気生理学的手法に比べて勝るとも劣る事はなかった。

 川村君の積極的かつ非凡な研究により、視覚領、聴覚領および身体知覚領から起こる短、中等および長連合線維群の量、走向および終止層が、主としてネコであったが、これまでになく明らかにされた。さらに、電気生理学的な反應の相違から区分された身体知覚領のSTおよびSU域、加うるにFace1、F2Arm1A2、Leg1、L2の諸亜域、また聴覚領のAT域、AU域、視覚領のVT域およびVU域から起こる連合線維群が著しく詳細かつ明らかにされた。また、上述の諸知覚領野およびその亜域から起こる交連線維群についても、これまでになく詳細に調べられた。

 川村君の論文は、神経解剖学領域では最も権威のあるJ.Comp.Neurol.に掲載された。論文を欧文で発表することは、今日では当たり前であるが、その頃では数少なく、私の教室では川村君を見習って、以後欧文で書くことが定着した。なお、川村君は上述の論文以外にさらに研究を続けていったので、大脳皮質から起こる連合及び交連線維の諸問題に関しては、国の内外から極めて高く評価され、第一人者と目されるようになった。

 川村君に就いては忘れ難い事が二、三ある。その一つは、教室の技官達の面倒見が良かった事である。したがって彼らの信望が極めて厚かった。また、学生たちに親切であった。

そこで、学生たちが同君の下に集まってきた。さらに私を研究及び教育面で助けてくれたことについては言うまでもないが、当時、京大が当番で開かれた研究班の会議後では、京都御所、大原にある三千院などの案内をしてくれ、また、その頃、関東地方では珍しい「ハモ」料理店に誘ってくれたことを思い出す。

(千葉大学名誉教授)

 

 川村君と私

辰濃治郎

 

医学部に入学するのに医学進学過程というワンステップがあった昔々の頃、稲毛というところに、千葉大学医学部への進学過程が、帝国陸軍の兵舎のあとを校舎として、大学入学の学生に、高校の復習のような教育をおこなっていて、唯一高校と違うのはドイツ語を教えてくれるという点だった。二年間の過程の一年がすぎて、新一年が入学してきたとき、ドイツ語研究会の勧誘にいって、川村君が入会してくれた。

校舎の並びで、戦中、帝国陸軍の将校宅で、いま二三の部屋を学生に貸している家で、妙な縁で川村君と一緒になった。私は、その家族と、個人的につきあうのはしなかったが、彼はそこの奥さんと、かなり後まで文通によって、接触していたようで、彼の人間関係を大切にする一面があらわれている。

一年後川村君が医学部にきて、彼は音楽部に入り、そこで川村夫人と歌を謳うことになった。私も歌は好きで”歌う会”というグループにいたが、もし音楽部にいたら、川村夫人―その頃は美人女子学生の小口孝子さん−を彼と争ったかもしれないと、空想を楽しんでみたりする。

  私は卒後精神科大学院に入ったが、川村君も何故か精神科を選んだ。ただ大学院の研究分野に私は生理学教室をえらび、彼は解剖学を選んで、ここに大袈裟にいえば、二人の行く手は全く別の道となった。当時、解剖学教室には草間・大谷という立派な先生がいて、学生時代、私はその教室に特別に出入りしていて、もし私も解剖学教室をえらんでいたら、

川村君となにか画期的な共同研究ができたかもしれないなと、また無意味な空想をする。

  当時無給医局員はどうにかして生活の糧を稼がねばならなかった。私は房総半島の最南端の館山でアルバイトをした。そこで川村君とまた会ったのである。退屈な夜間当直で、川村君はNHK3チャンネルのシンホニーを聴いていた。私はマージャンをしていた。ここが二人の頗る異なるところとおもう。いまや川村君は音楽と精神活動の関連を求めようとし、私は緑一色のような絵を描きたいと努めている。

  畢竟、最終の謎は”何故脳細胞が心を生み出すのか?”だが、―――脳はいつかは心という機能を解き明かすと期待されるほど精巧な能力を有する反面、心は脳によって解明されるほど単純なものでないのは、古今の小説家が書いても書いても書ききれないほどだということである。

(防衛医大名誉教授)

 

 川村光毅君と私

小越章平

 

 年齢的に最近同級生の退官記念なんとやらの知らせが多い。中でも川村君はいつも気になる忘れられない同級生である。しかし、お互いに忙しく卒業後は数えるほどきり会ってない。私はどちらかと言うと、落ちつきのない良く言えば行動派、川村君は、ご存知の通り、静かな学究肌の秀才タイプである。全くタイプの違う者同士が、何故か学生時代から馬が合った。今回の依頼状に川村君自身の添え書きがあった。「チャンスがあれば会いたいね。お元気?悪友どの」と短い文章であるが、久しぶりに学生時代を思い出し懐かしさで一杯になった。そう言えば暫く会ってない。過日の彼の退官記念パーティーにもご招待を受け楽しみにしていたが,残念ながら急用でキャンセルせざるを得なかった。  

 40年前のことであるから記憶も定かでないところもあるが、彼と寝食をともにした病院実習は一生忘れられない思い出である。

 学生時代の彼は、勉強も趣味も酒を飲むのもジックリと言った感じで、私と言えば硬式テニスと絵画部に属し、特に共通の趣味もなかった。二人が特に親しくなったのはインターンの時、現在の成田空港近辺の病院実習に一ヶ月ほど寝食を共にして以来であった。現在、卒業後臨床研修の義務化が進んでいるが、われわれの卒業時は各科のローテート方式のインターンがあった。本来は付属病院各医局を回り臨床実習を行うわけであるが、どこの医局も今ほど教育には熱心ではなく、どちらかと言うと邪魔扱いで、各教室の関連病院に行かされた。しかし、この制度は結構学生には楽しく地方の病院の医師は不足しており「代診さん」として重宝され、病院によってはお小使いもくれた。その病院の院長は外科で豪放磊落な人で、当時は医師免許なしで手術もさせてもらった。慣れてくると指導医なしで川村君と二人だけで虫垂切除をした記憶もある。何かあれば先輩を呼べばいいくらいに呑気な時代であった。彼ははじめ当時の千葉大学の看板教授であった中山恒明先生に憧れていたようだが、ある時「俺は外科へ行くのは止めた」と言い出した。

 確かに私は手先が器用な方で細かいことをやるのが好きだった。彼が「あんたと競争したくない」ようなことを言った記憶がある。私は卒業後中山外科の門を叩いた。彼は精神科に進んだ。お互いに違う道に進んで良かったと今にして思う。彼は経済的理由というより雰囲気を楽しんだのか学生寮に一時期住んでいた。何回か、彼のうす暗い部屋を訪れたことがある。ある時、不意に訪れると女性同級生が先客として訪れていた。「ああ、そういうことか」とそれ以来は彼の部屋に行くのを止めた。その人は若き日の孝子夫人である。

 我々の同級生は何人か在学中に亡くなったり卒業時70数名であったが、数年前のクラス会での話によると18名の教授が生まれたと言う。確か、その中で川村君が初めての教授就任だったと思う。彼が岡山大の教授でいる時に、私は新設の高知医科大学第二外科の助教授として千葉から縁もゆかりもない高知へ赴任した。早速、彼から連絡があり、近くに来たのだから飲もうということであったが、結局一緒に飲んだのは何年かが過ぎてからと思う。私はヨーロッパの帰りに岡山に立ち寄り、駅の近くの居酒屋で旧交を温めた。翌日、高知に帰りゴルフに行く時何か片目が霞む。眼底の静脈から血が滲んでいるという。酒の飲み過ぎでしょうと眼科教授の診断である。確かにヨーロッパは水、ビール、ワインの値段が大して変わらず、結局はワインを昼間からのみ続ける結果となる。その直後に彼と日本酒を飲み過ぎが引き金となり眼に症状が出た。その時指摘された高血圧、高血糖、肝臓機能障害、要するに飲み過ぎから来る生活習慣病を是正するために、1年に2キロずつ合計10キロ減量作戦に成功し手術も無事に続けることが可能であった。その後クラス会で会った彼は全く減量には関心がないらしく、無事に定年を迎えたようで、おめでとう。この先何時までも、元気で「良友と悪友」の関係を続けたいものである。

(高知医科大学副学長)

 

川村光毅 君の思い出

國安芳夫

 

昨年、610日川村教授の退任の祝賀会が催されその会に出席させていただきました。

川村君の人柄がにじみ出ている大変あたたかい素晴らしい集まりでした。来賓の方々の挨拶から、川村教授の業績等についても披露され,一流の学者として立派な仕事をされているようで我がことのように誇らしく感じた次第でした。孝子夫人やお嬢さんとも久しぶりにお会いできました。

学生時代は学籍簿が近いこともあり、また部活も一緒で、川村君とは親しい付き合いをさせていただきました。夫人とは同じ内科に一緒に入局した仲間でしたし、出席順位が隣り合っていた関係(夫人の旧姓は小口:コグチ)で臨床実習や口頭試問(ムント)も同じ組になることが多く、私自身ずいぶん失敗や勉強不足で立ち往生しているところをしょっちゅう披露していたのを想い出します。夏休みに川村君に誘われて夫人の出身地の宇都宮へ遊びにいったこともあり親しい付き合いをさせていただきました。お二人のむすびつきは多分この頃に始まったのではと推察しています。

学生時代に我々が所属した部活はコール・クラニーという医学部の合唱グループでした。文字どうりに”頭蓋骨の合唱”だったのではないかと当時を振り返っています。2学年上に4人と我々の同級生が4人で、時々OB 12人参加して貰えるといった小人数のグループでした。混声合唱の場合は、教育学部や看護学校の学生と一緒に練習をするといった具合でした。川村君は第1テナーで頑張っていましたが、上級生が卒業後は部も存続の危機がおとずれました。 なんとか2年間を無事もちこたえて次の世代にバトン・タッチ出来たのは、我々を叱咤激励し部活動を続けさせた彼のリーダーシップと頑張りによるところが大きかったと思います。上級生が卒業して部を去るに際してのコメントは、最初はどうなることかと思ったがよくここまで成長したなとのことですから、その実力はどうにもならなかったということのようです。薄汚れた部室の調律もあまり出来ていない古いピアノで、記憶は定かではありませんが 多分、チェルニーの教則本で熱心にピアノの練習をしていた彼の姿をおもいだします。このように川村君は、自分で必要とか大切と決めたり判断したことに関してはとことん追求したり、時には蛮勇をもって突き進んでいくタイプでした。後年知ったことですが、医学部教授を、岩手医大、岡山大学さらに慶應大学と歴任したのも、その時点で自分の能力を充分発揮できるよりよい環境を求めた結果なのかと推測しています。

私が、学生時代に感じていた、彼の実力や学問に対する情熱更に勉強や研究をするときの仲間内では圧倒的に群を抜いていた迫力がやがては頭角を現してくる原動力になるもの、との期待が見事果たされた感じです。

最後になりますが、川村君の今日あるのは、奥様の献身的なバックアップのおかげも大きかったのではないかと思います。退任後の生活は、現在精神科医として活躍されるかたわらピアノを楽しまれ、絵画も嗜まれる美人の奥様と充実した生活を送られることを期待しています。

(昭和大学藤が丘病院 客員教授)

 

川村光毅君と私

吉川 武彦

 

19544月、この年われわれは千葉大学に設けられていた医学進学コースに身を置いた。医学進学コースにはC1C22クラスあり、あいうえお順で分けられていたので、「か」と「き」の私たちは同じクラスとなった。思えばこれがはじめの出会いである。医学部に入学してからも「か」と「き」の関係は続いたので解剖のティッシュも隣り合わせであったし、ポリクリの多くは一緒になった。

だがその学生生活はまったくすれ違いであった。彼はまじめなので授業にもよく出ていたようであったが、私は水泳をしていたし俳句をつくっていたので授業は二の次、三の次であったし、学生運動にも大いに参加していたので授業に出ることもほとんどない生活をしていた。私と彼とが決定的に違っていたのは、生涯の伴侶を医学部の学生時代に彼が決めたことであろう。私にはその能力はなかった。

会えば「おい、水泳はどうだ。まだやってるか」、「俳句なんてくだらないのをまだつくっているのか」と私をからかうのが日常の彼。そのくせ彼とは妙に気が合うので、これからのことをよく語ったものである。そうしたある日、二人とも精神科へいくことに決めた。そのときに話し合ったのは、彼は脳からこころを極めるということであり、私は行動からこころを極めるということであった。

脳に手がかりを求めた彼は脳の解剖を始めたし、私は精神病理や精神分析を始めさらには精神科のリハビリテーションをテーマにしていった。脳の解剖学者としての彼のことは私は知らない。ただ彼とは人のこころにどう迫るのかということで共通しているように思っていた。秋田に行き、岩手に行き、岡山に行きそして東京に戻った彼であったが、群馬を振り出しに長野に行き、千葉に戻り沖縄に行き、東京に来て千葉に戻るという私は、どこか彼と共通したものをもっていたようにも思う。

おそらく彼も、やりたいことをやらせてくれるところに行ったのだと思う。招かれたらば嫌とはいわず、ほいほいといったのだと思う。「おそらく彼も」といったように、私がそうだったからである。でも、ここでも決定的に違っているのは、彼は常に脳にこだわった点であろう。私は移動した領域は、臨床あり、研究あり教育あり行政ありでバラバラであったし、内容的にも精神医学から精神保健、障害児教育から障害児保育、地域保健から行政研究までにばらついてしまった。

それにしても彼の優しさは、年賀状に添えられた一筆によく表れている。「元気か」という一言だけでなく、「なにやら本を書いたようだが、読んではいない」という言葉が添えられている。相も変わらず私が日本泳法をやっているのを知って、「おまえは偉いな」と誉めてもくれる。俳句をつくっている私を冷やかすこともなくなり、やっぱり誉めてくれる。彼に誉められるとなんとなく勇気が出る。

「今何やっている?」というのも彼の問いかけの言葉である。もちろん私が落ち着きなく仕事の内容を変えているからこそこんな言葉をかけてくれるのであるが、そう問われることで彼に注目されている自分をあらためて気づくのである。決して器用ではない彼がかけてくれる言葉が私を勇気づけたり奮い立たせてくれる。その不思議さこそが、二人がめざしたこころの問題なのであろう。

つい先日、彼は私のいる研究所が主催している研修を受けに来た。研修を企画しているのは当然ながら私たちよりも年代が若い。「所長、年輩だからといって断るわけにもいきませんし、入れました」という年若の部長が研修初日に受講者リストをもって来た。見ると彼ではないか。研修初日は所長として挨拶をしなければならない。いやはや困ったことだと思っていたら遅刻をしてくれた。それも彼の優しさである。

学ぶことにどん欲な彼だからこそ研修に参加する気になってくれたのであろう。再び精神科の臨床医に戻り精神障害者と接する彼を見ていると、同じ出発点にたち通ってきた道は違ったが再び接点をもつようになった縁の不思議さを思うこのごろである。

(国立精神・神経センター精神保健研究所、所長)

 

川村教授のご退職によせて

白石博康

 

 この度は御目出度うございます。立派な業績を残されて無事に職務をまっとうされたことは誠に喜ばしいことと思います。

 私は先生と同期に千葉大学医学部精神医学教室に入局いたしました。先生は当時からその体格と同様に茫洋とした大人の風格があり、頼もしい感じでした。先生は大学院に入学し、解剖学教室で脳の研究をすることになり、多くの時間を解剖学教室で過ごしていました。お互いに忙しくて話す機会は少なかったのですが、先生は精神科臨床に強い興味を持ち、何事にもじっくりと腰を据えて取り組む方であるという印象でした。大学院を修了し、精神科に戻ってくるのかと思っていましたが、先生はすでに脳の研究の世界にすっかり魅了されてしまっていたようで、解剖学者の道を歩み始めました。

 その後先生は、いくつかの大学を教授として歴任され、大活躍されていました。ある国際学会に参加したときに、先生がシンポジストとして大脳皮質の神経路について講演したのを聞き、その緻密で重厚な内容に感じいったことがありました。先生のルーツは精神科医なので、脳解剖の研究の根底には精神医学的観点が流れているに違いないと、私はいつも推察しておりました。

 1999130日に開催された千葉医学会例会(千葉精神科集談会)において、先生は「前脳内神経回路の発達と精神活動」という演題で特別講演をされ、私は座長をつとめました。最近精神医学の分野で、精神分裂病の病因仮説として胎生期における精神発達障害仮説が提唱されておりますが、先生の講演内容はこの仮説に深く関係するものであり、先生らしい精神医学的視点を持った研究でしたので私は大変感銘を受けました。

 世の取り決めとはいえ、エネルギッシュな先生が退職されるのを惜しむのは、ただ私のみではありません。これからは、新たな視点で益々のご活躍を期待しております。

(土浦メンタルクリニック、筑波大学 精神医学教室 名誉教授)

  

 

40年ぶり、再度の期待を

岡上 和雄

 

 川村さんが、私が勤めていた病院にパート医で参加してくれたのは、40年近く前のことである。東横線沿線の駅前総合病院であった。私は、川村さんが来られた昭和37年に精神科の診療責任者になっていた。医長といっても経験数年、生半可な臨床医だった。全スタッフそして入院患者の平均年齢も20歳代、その後次第に主流になる戦後立の精神科の一つだった。

 ともあれ、頼りない医長のもとに、川村さんと浜村(現宮代)道子さんが、千葉大精神科の派遣新人としてきてくれた。川村さんは骨太、浜村さんは楚々の感じだったが、共にとても新鮮だった。戦後17年、経済白書の「もはや戦後ではない」から6年経っていたが、私にとっては、第1号の純系の戦後育ちの医師だった。二人とも頭も良かったが、素直で、こせこせせず鷹揚、前の世代には残っていた鬱屈・拘泥の端切れもないようだった。

 といっても時代環境はそれなりに大変で、その都市では毎年大量の中卒者の集団就職流入があり、1年経つと3割が転出、当院のナースたちも同様だった。めまぐるしさに合わせるように、内科病棟には世慣れをしていない自殺未遂の女性患者がひっきりなしに入、退院していた。でも川村さんが来る前年、国民皆保険の実施と、精神科では後になって批判を招きはしたが、知事による強制入院の名のもとの公費負担の普及があり、患者を抱えたがゆえのせっぱ詰まった貧困が減り始める時代の入り口に立っていた。

 そんな若干の経済的なゆとりの兆しのなか、何事にもアクティブだった川村さんの提案でわが出先の精神科でも輪読会を始めるようになった。たまたま仲間に東大独文科出身でもある高橋義夫さんがいたこともあって、ドイツの文献が主になった。当時のドイツ精神医学に、多くの患者が餓死あるいはガス殺死するのを黙視したことからくるショックが遷延していたことなどほとんど知らなかった。使った本は、ヤスパース(現象学、精神病理学)、ギリヤロフスキー(条件反射、東独版精神医学テキスト)、クレペリン(テキストではなく百年史)、ツット(了解人間学、妄想の世界)などの一部だった。川村さんは講師役の高橋さんに最もよく食いついていた。当時、私はこれらの本の中身をほとんど消化できなかった。それどころか今もあまり理解できないでいるのだが、それはそれとして、患者に説明するのに分かりやすい概念をもっていないのにほとほと困っていた。

 思えば、分裂病における、情報処理障害、細胞間伝達物質、あるいは画像診断の知見が登場するのはずっと後のことだし、認知療法や過剰感情反応に対するコーピングが多少なりとも普及するのもこれまたのちのことだった。その後捨てられることになる分裂病家族成因説についても実証性が薄いと文句をいいながらも結構振り回されていたし、人対人の関係の再構築なども直輸入では意味を持たないと外国人から言われて立ち往生していた。

そんな頃、つまり分裂病などについて患者にいう言葉を探しあぐねていた時代のある日、川村さんは脳の方から精神病、分裂病をみる道を探りたいと言われた。困惑の中にいた私は、そんな川村さんのいい分に一も二もなく賛成した。川村さんはそれから30数年、周知のように、千葉、秋田、岩手、岡山、そして慶応で業績を重ねられた。そして今ふたたび、精神科の臨床にも触れられる由をお聞きした。 

そこでせっかくのこと、脳の研究の立場と重ねて、精神疾病論、分裂病論についてもユニークな観点を拓いていただければと思う。精神疾病もほかの病気と同様、それ自体が痛みであるので、痛みを増幅させない説明が必要である。そのためには、将来展望を含めた伝え方をしなければならないが、その起承転結の中核は精神医学といえども客観的な視点からのものであることこそふさわしい。昔と違い、至近距離的には、人対人の関係、作業遂行、あるいは症状的体験と認知の中身を組み合わせることで多少とも有効に伝えられるようになってきたとも思うが、展望を語るためには脳の科学からの文脈を掘削し続けることが望ましいように思う。川村さんにとって節目のとき、川村さんらしい新しい土壌のダイナミックな耕耘をと、40年ぶりに再度お願いしたいと思う。

(全国精神障害者家族会連合会保健福祉研究所、所長)

 

 

川村先生との出会い、愚かな質問から30年

内藤順平

 

私が川村先生のご指導のもとで脳の研究をさせていただくようになったのはもう30年も前のことになります。先生に始めてお会いしましたのは千葉大学医学部第三解剖学講座の先生の研究室でした。丁度、私が修士課程を終わり、どこかに形態学にたずさわっていけるような就職先はないかと探していたときのことでした。そんなところは当時でも大学しかなかったのですが、その頃、私の先輩が千葉大学の第一解剖学講座に勤めておられ、その先輩の計らいで新設の秋田大学医学部に転出されることになっておられた川村先生を紹介して下さったのであります。川村先生は条件反射で有名な旧ソ連のパブロフ研究所へ留学のために出国準備でお忙しくしているところをわざわざ会って下さいました。早春の房総は心地よいほど暖かく、穏やかな二月のある日でした。先輩に手を引かれおそろおそろ先生の研究室に入っていったことを今でも覚えています。その時、川村先生は当時発刊されて間もない脳研究の最高レベルの論文を掲載していたBrain Researchにネコの連合線維結合に関する重要な三部作を投稿されていたところでした。部屋の中からの返事に誘われるようにして入ると、天井が高く意外とガランとした広い部屋に体格のいいお方一人、机に向かっておられました。その机には英文の原稿や図版やらが置かれておりました。その方はやおら椅子から立ち上がり、こちらを向かわれ、無言で私をしばらく、数秒間ぐらいでしたか見ておられました。私が無邪気にキョトンとしていると、ニッコリされ、「川村です」と一言落ち着いた口調で自己紹介されました。そのたった一言には何か深い知性なるものを感じさせるものがあり、これは私が今までに会ったことのない先生だと強く印象づけられたものです。そして私を手招きされ、先生の三部作の研究内容について熱心に説明を始められました。当然ながら脳の「の」の字も分からない私には何のことやら理解できませんした。先生は単にご自分の研究内容を一生懸命に説明されていただけかも知れませんが、多分そうだったと今は思えるのですが、しかし、その時はこれは面接試験だと早合点してしまい、とにかくこれは何とか理解出来ないまでも興味ある振りぐらいしないといけないと思い、しきりと意味のない相槌をしたり、トンチンカンな質問をしたり冷や汗の連発でありました。私には難しすぎた話でした。ただ一つ私の眼が引きつけられたのは三部作の論文の一つに描かれていた突っ張り合った力士の絵、「漫画」でした。その時感じたことはこんなハイレベルでアカデミックな国際誌の原著論文に全くドメスティクな相撲の漫画を描いて良いのだろうかと言う事と、それがとってもユニークで新鮮で、しかも分かりやすかったことでした。大変難しい話をする先生にこんな遊び心と言っては失礼ですが、ユーモアがあるのかと、これも私には瞠目すべきことでした。感心のあまりに、自分の愚かさをさらけ出す最後の決定的な愚問を出してしまったのはこの時でした。「先生、この絵はとっても素晴らしいですが、先生がお描きになったのですか」さすがに、先生はこの不躾な質問にどう返事をしたものかと思われたのか、一瞬、間をおかれ、「プロがいるのだよ」とさらっとかわされました。このプロとは先生ご自身のことであったことをすぐに気がつくべきでしたが・・・。川村先生は講義の時に黒板に脳の模式図をよく描かれるのですが、どれも簡単な絵なのですが何故か講義の内容がよく分かるものでした。それを見て始めて、あれは先生が描かれた漫画だと納得したのですが、後の祭りでした。一応の説明が終わった時には頭の中が真っ白けになり、その後、なにか私について聞かれたと思いますが、内容は全く覚えておりません。もうこれで面接は失敗に終わったと確信できたほど惨憺たるものでした。先生の研究室にいたのは30分ほどだったと思いますが、何時間もいたように思え、部屋を出た時は身体の中から一気に疲労感と虚脱感がわき出してきたのを覚えています。

  あの時から早30年。この間、先生は常に最新の技術を導入され、神経回路の解明に、また脳移植の発展に大いに貢献されたことは私などが今更もうすまでもないことです。それでもなお、神経科学の発展はめざましく、先生のもとで脳の線維連絡を丹念に調べていた頃とは変わり、今や、分子生物学的手法が脳研究のみならず、生物を対象とする学問分野で日常的に使われるようになってきています。この様な時代の流れのなかに良きにつけ、悪しきにつけ巻き込まれていく私に先生は何を言い残されようとしているのでしょうか。神経解剖学を志す者はこれから何処を向いて歩めばいいのでしょうか。それとも消える運命にあるのでしょうか。できることなら先生にもっと長く研究に携わっていただき、その方向を教示していただければと思わざるえません。これは我々が模索しなければならないことである事は分かってはいますが、つい聞いてしまいたくなるのは、やはり30年前、先生の研究室で発した愚かな質問の繰り返しなのでしょうか。

(名古屋大学()生命農学研究科、生物機能分化学講座、動物形態情報学、助教授)

 

 

川村先生の思い出

寺島俊雄

 私が川村先生の神経解剖学の講義を聴いたのは、昭和45年の晩秋だったと思う。大学1年生の時だからもう20年以上も昔だ。川村先生の思い出は創設期の秋田大学医学部と強く結びついている。

 秋田大学医学部が戦後初めての医学部として開設されたのは昭和455月だ。今では死語となってしまったが、当時は、一期校、二期校という入学試験の期日による大学の分類があった。私は、一期校、二期校の入学試験のいづれにも落ちて、千葉で予備校生活をしていた。何かの事情で大学の認可が遅れ、季節はずれの5月に入学試験があった秋田大学医学部に合格した時は、奥州の遅いサクラが散る頃だった。北関東で育った私は、秋田への車中から初めて見る新潟、山形、秋田の風景に随分と感傷にひたった記憶がある。当時の新設医科大の一期生や二期生ならば、皆、似たような経験を持っていると思うが、入学しても校舎も無ければ病院も無く、荒涼とした荒地を前にして、「ここに基礎校舎、こちらに病院が建設予定です」という大学当局の説明を聞いても、むなしく響くだけで、数年後には閉校になるかも知れないという噂が学生の間に急速に広がった。実際、数名の級友は、いたたまれずすぐに退学して故郷に帰り、再び浪人生活を始めた。

 こうした厳しい状況であったが、6年一貫の医学教育という当時の学部長の方針で、1年生の頃から解剖学などの専門教育が始まった。川村先生は、当時は助教授で、岩波新書の「脳の話(時実利彦著)」を用いて講義をして下さった。たぶん、川村先生は教養課程に先行して専門教育をすることに反対していたと思う。そのために、より一般的な内容をもつ「脳の話」をテキストに選んでくださったが、このテキストは、現在でも脳の入門書として優れていると思う。川村先生の講義の内容は、かなり高度で、しかも講義の後半になると次第に熱を帯び、時間の境が全くなくなってしまうのである。晩秋の夕日が差し込む古い木造校舎の2階で、教卓を端から端まで熊のように歩きながら、ポツポツと絞り出すように熱心に話す姿が思い出される。終了の時間が過ぎても講義が終了しないので、学生が騒ぎ出すと、川村先生は優しく「聴きたくないモノは去れ」とおっしゃるので、級友とともに私も直ちに教室を去ったのは若気の至りとはいえ、今となれば痛恨極まりない。

 川村先生は、私たちの学年に神経解剖を教えるとすぐにノルウエーのブローダル教授のもとに留学された。先生が留学中、川村先生の留守宅には助手の内藤順平先生が住んでおられた。近所のアパートに住んでいた私は、良く川村先生の留守宅で内藤先生とウイスキーを飲んだ。もしかしたらあのウイスキーは川村先生が宿舎に残していったものだったかも知れない。留学を終えた川村先生は岩手医科大学の解剖学教授として盛岡へと去っていった。そして内藤先生も川村先生のいる盛岡に去っていった。

 大学を卒業して初めて参加した昭和51年の解剖学会総会は、和歌山県立医大の主催で、夏の高野山で開催された。その総会のシンポジウムは、当時導入されたばかりのワサビ過酸化酵素による軸索輸送法に関するもので、日本を代表する解剖学者、生理学者、生化学者に混じって川村先生が堂々と講演しておられた。それを遠目に見て、6年前に神経解剖学を教えてもらった川村先生が、とても立派な先生であることを初めて知った。もちろん研究者として駆け出しの私には、川村先生がオリーブ核や橋核を介して小脳に至る視覚入力や聴覚入力の分野で大きな業績を挙げていたことや、大学院生の頃の大脳皮質連合野の研究で既に国際的に有名であったことなどは知る由も無かった。高野山大学のベンチに寝ながら、どこまでも高い青空を見上げて、あれほど偉い先生の講義を聴かずに、自分は教室から逃げ出した不明を恥じたことが今でも懐かしく思い出される。

 私は、今、人体解剖学と神経解剖学を教えているが、不意に20年以上も前に教わった神経解剖の内容が当時の教室の風景とともに思い出され、講義中、しばしの間であるが、驚きのために凍り付いてしまうことがある。先生と学生の関係は、希薄なように見えていて、存外、相当に深いのかも知れない。私の体の中にも、川村先生の「神経解剖学」が深く染み込んでいるのだろう。私が神経回路の研究が好きなのは、川村先生が神経回路の研究に一番惹かれていた頃の講義を受けた学生であるからかも知れない。

(神戸大学医学部第一解剖学教室、教授)

 

Dear Koki

Felix Makarov

 

  Great event was happened in 1970 year in Leningrad (now St.-Petersburg) –  IX International  Congress of Anatomists. Over 3 thousands of scientists came to Leningrad. Among participants was Koki Kawamura – young associate professor from Akita University with good experience in teaching of anatomy and in experimental neuroscience. That time we met each other at first time. He visited laboratory of ultrastructure of CNS of Pavlov Institute of Physiology of Russian Academy of Sciences. The head of the laboratory was professor Alexander Iontov. The main scientific problem was morpho-functional analysis of cerebral connectivity. After first-hand acquaintance with laboratory Koki expressed the willing to visit our laboratory next year and to carry out joint experiments  to study cortico-cortical connections in cat. Also he wanted to study more seriously Pavlov’s theory of conditioned reflexes because neural connections of the brain are structural foundations of the theory. Certainly he decided to do that namely in the Institute founded by great Pavlov. Our Institute was organized 75 years ago on the base of academician physiological laboratory headed by I.Pavlov. From the very beginning the Institute consists of two parts. One part is located  in old beautiful building in the center of St.-Petersburg on the riverside  of small Neva – one of the branches of Neva in its delta. And another part is disposed outside of the town, about 30 km from its center. The most of the laboratories of the Institute, and service departments are on the hilly ground  belonged to village named Koltuschi, later  this place after death of I.Pavlov was named Pavlovo. Laboratory houses, husbandry’s, living houses for researchers and  guestrooms were constructed under the guidance of him. Our neuromorphological laboratory occupies ground floor of small old house which is located just behind of  Pavlov’s back. Bronze monument  of Pavlov was erected here in 1950 year. Standing Pavlov in operating coat and sitting dog near his legs have been seen very well out of the window of the room where we worked with Koki during 6 months. Our joint research project was aimed to ultrastructural analysis of distribution in cortical layers of endings of  intrahemispheric and commissural  fibers originating from associative zones in cat. Koki and me worked hard, with great interest, there were many fruitful discussions. Koki turned out very serious, intelligent scientist and in the same time very kind colleague with good sense of humour, so very soon we became good friends. Very strenuous time was in the end of Koki staying period when we worked in the laboratory till night eagering to complete the processing of our data.

  Beside laboratory sometimes we spent very pleasant time in museums, theatres, suburban tsar’s palaces and others. Koki especially liked ballet, symphonic music and painting. Koki and his wife Takako liked very much to go for a walk in the town streets, parks, embankments of numerous canals and rivers with small and large bridges. Such walks are especially fascinating in our town during period of so called “white nights”(from May till July) when dark time is very short, only 1,5 – 2 hours. Koki started to learn russian language and as a talented person soon he could to have a short talk with his russian colleagues. In the laboratory we tradionally during drinking  tea  afternoon had time for “round table” . We discussed very different topics, including culture, traditions, history of our countries. Russians colleagues competed playfully each other who knows more japanese words. Visit of Koki stimulated us to know more about Japan (literature, movies and so on).

  New very interesting data were obtained according to layered distribution of synaptic boutons terminating  cortico-cortical fibers. We wrote the draft summarizing the result of our joint research and later this article was published in Russian journal “Archive of Anatomy, Histology and Embryology”.

  Besides Koki finished the writing of series of articles for “Brain Res.” on morphological organization of cerebral connections. He could  be acquainted with experiments in several physiological laboratories of our Institute which were carried out in  cat and monkey after lesions of different cortical fields. Koki gave lectures and reports for researchers of Pavlov Institute in  conference – hall and also for anatomists (Society of Anatomists and Histologists of our town) in largest auditorium of Medical university.  Koki visited  all famous memorial Pavlov’s places such as cabinet-museum in Pavlovo, museum in  the Department of Physiology of Institute of Experimental Medicine, former living flat of Pavlov where he  and his family lived  till his death  in 1936 year. Koki left us in autumn of 1971 and came  to neighbour country Norway. Over one year he worked there with outstanding anatomist Alf  Brodal. But that is already another story of scientific life of Koki Kawamura..

   15 years later (1986 year) Koki again visited us in third time, now as the guest of Russian Academy of Sciences. He gave several lectures in our lab, in Pavlov Institute and special lecture  was given in the Institute of evolutionary physiology and biochemistry of RAS.

   Certainly the time of our coworking and  closely friendship  with Koki Kawamura is engraved very brightly in my memory and very valuable for me.

 

(Ultrastructure of CNS of Pavlov Institute of Physiology of Russian Academy of Sciences, St.-Petersburg, Professor)

 

 

 川村光毅先生との出会い

菅原 圭三

 

転勤がつきものの美術教師の職を捨てて、岩手医大解剖学教室の解剖図作製係りとして勤務したのが、初代の二井一馬教授晩年の頃でした。二井教授亡き後、五代目の教授として川村光毅先生が赴任されました。

 私は教授が変わるたびに仕事と道具が変わりましたが一応それらをこなして過ごしておりました。中枢神経学者としての川村先生が、どんな仕事を設定されるのか、期待と不安を抱いて待っておりましたところ、プレパラート十数枚に感光乳剤を塗布しそれらを現像するという仕事でした。暗室電球をはずして、暗闇の中で作業が旨く運ぶよう前もって、膝の位置、前腕の動き、指間の開閉の自分のクセ等を記憶して実験に備えました。これといった失敗もなく四・五回目の実験を迎える頃だったと思いますが、先生がそろそろ失敗が起きる頃だな、と独りごとのように云いましたので、内心いささかムッとしました。「菅原さん!失敗というのは手なれた頃、起きるもんだよ」と・・・。何をそんなバカなことをと、気負って暗室に入ったところ、思わぬことが起きました。プレパラートを床上に落としたり、二枚ひっつけたりしてしまったのです。乳剤は衝撃をとても嫌うということを、常に云われておりましたので大変ショックを受けたことでした。それからずっと今日まで、宇宙ロケットの実験などの失敗の記事を見聞するとき、ふと先生の云ったことを思い出します。

 も、一つ忘れられない事があります。現像されたプレパラートの切片を図像化するとき、研究者の方々は一般的に切片を自然描写しようとする傾向が強いのですが、先生は論文に添付する図像は明解で出来るだけ簡明であることを主張されていました。助手の方や大学院生の方でこれに一寸不満を持つ人も居りました。

 自然描写というものは、世間一般には写実と云って、何かかなりの価値のある所業と思っている人々が色々の分野にかなりはびこっているのですが、心ある造型美術概論の基調の中に、モチーフ(動因)の積層化による視覚素因の明解化こそが美しさを超えて美の世界を提示することが出来得ると云うことがあります。私は先生の図版作製にあたって、簡明化の持論を傍らで伺っていて、この方は科学者にしてはかなり賢い方だなと感心しました。立体派の理論もフォービズムの動因も知ってる筈がないのに、いつどこでこの直感を獲得されたのか暫し感心することしきりでした。それから二十数年、七十三歳のヂヂになり毎年、年賀をいただき有難く日常を過ごしております。

(元岩手医大専門技術員)

 

川村光毅先生の退官に寄せて

端川勉

 

    川村先生が定年で退官されるとうかがっても、にわかには実感しがたく、別の次元のできごとのように感じておりました。時のたつのはほんとにはやいものです。

    私は昔を語るのが苦手ですが、これもご縁と思いますので、川村先生と十年ちょっとご一緒した盛岡時代を振り返ってみることにしたいと思います。

    私が川村先生にはじめてお目にかかったのは昭和49年の初め頃でした。先生が秋田大学から岩手医科大学の教授に赴任されて来られた翌年だったと記憶しております。ひょっとしたら就職できないかもしれないと半ば諦めかけていたところ、面接していただけることになり、ニワトリの視床下部・下垂体系の発生を扱った論文と標本をもって先生の部屋を訪ねました。その標本を顕微鏡で見ながらDiscussionしていただきました。

    なんとか拾ってくださってほんとうに感謝しております。それが研究者になる原点となり、秋田から一緒にこられていた内籐順平先生とともに、それから十年以上にわたってご指導いただくことになりました。

川村先生のところではじめに手渡されたのがE. G. Jonesの大脳皮質の電顕の論文で、これを手本に変性実験後の皮質の電顕所見をとるのが私の最初の仕事でした。

    しかしそれよりも、川村先生が当時最も精力的に取り組んだのが、開発されたばかりのARG(オートラジオグラフ)法やHRP(西洋ワサビぺルオキシダーゼ)法を使って大脳機能領域間や橋核および下オリーブ核から小脳への投射、上丘の求・遠心路の線維連絡などの解析でした。ARG法を実施するにあたっては、いろいろな段階で工夫が必要でした。そしてそこには作業を分担するものどうしの主張とかこだわりがあって、討論というか口論というか、そういう緊張感をもって仕事していたように思います。

    暗室の整備のためナトリウムランプを海外からとりよせたり、乳剤は入荷する度にわざわざ技官の菅原さんを盛岡から東京の輸入会社まで出張させて引き取るなど、川村先生も大変な熱の入れようでした。

    あるとき、微量注入を試みようとした際、注入アイソトープの濃度をめぐって先生とはかなりエキサイティングな討論したことを思い出します。結局注入そのものに失敗して、空振りに終わって申しわけないことになってしまうのですが。

    ARG法、HRP法を使ったこの間の仕事は一部オスロ大学のA. Brodal教授との共同執筆も含めて、Brain Res. J. Comp. Neurol.Neuroscienceなどの主たるジャーナルに発表することができました。成果のあげられた充実したときが過ごせました。

    先生にご指導いただいた期間のあとの頃に、昭和58年末から1年ほど、米国ウィスコンシン大学マジソン校でResearch Associateとして働く機会を与えてくださいました。そこではJ. K. Harting教授と一緒に仕事ができ、視野をひろげることができました。包容力のある、いい人にめぐりあえたと思っています。また、帰国後も、その時はすでに先生は岡山大学に転出されておりましたが、居残った私どもへお心づかいいただきました。私が理化学研究所に転出できたのも先生の推薦のおかげと感謝している次第です。

    川村先生からわたされた最初の論文の著者、E. G. Jonesのもとで理化学研究所で仕事できるようになって、まるで不思議な運命を感じてしまいます。そのとき積んだ研鑽が脳科学センター内での現在の私たちの使命に活かされていることはいうまでもありません。

    私どもは契約研究員ですので、私自身いつまで仕事が続けられるのか不安なところはありますが、これからも川村先生からはいろいろな面で心強いサポートをいただきながら、期待にそえる働きをしていきたいものだと思っております。川村先生におかれましても盛岡時代のエネルギーを思い出していただいて、どうか今後ともますますご活躍くださいますよう祈念しております。

(理化学研究所脳科学総合研究センター、チームリーダー)

  

川村 光毅 先生のこと

宗像 克治

 

 時は去る昭和40年代後半、26-7年前、4半世紀以上前のことであります。時代考証をしておりませんので、記憶違いなど多々あるやも知れません。平にご容赦お願い致します。

  慶應志木校を卒業し、医学部推薦にもれ、工学部に在籍しての予備校通いの毎日から、2浪して晴れて岩手医科大学に合格し、医学部という全く見知らぬ世界に飛び込んだ僕でした。教養部2年間、学部4年間と理解し北国の町での下宿生活がスタ−トしました。

 先輩たちから言われたことは、「教養のうちに遊んどけ、学部に言ったら厳しいぞ」でありました。正課のほかに、哲学のサ−クルだ、仏語の勉強だ、ゲ−テのファウストを独語で暗記するだの毎日、炎天下青空のもと硬庭での玉拾いをやりながら“青春を謳歌”しておりました。“サルビアの花”が流れていた頃であります。

 そして2年生になって後半から学部の基礎科目が始まりました。最初に触れる医学は、解剖学であります。不安と期待が高まります。解剖学は浦良治先生が教鞭をとられておられましたが、第一解剖に川村光毅先生、第二解剖に山内昭雄先生が赴任なされた時期で、先輩方から受け継いだ「浦の解剖学ノ−ト」が諸先輩の悲鳴と共に古典となった瞬間でもありました。

 川村先生の神経解剖の講義は難解でした。「この線維はcerebello-fugalで、これはcerebello-petalで・・・、ネコではこうなっていて・・・ここの線維連絡はまだよくわからなくて・・・」きれいな横文字と共にすらすらと線維が黒板の上を延びて行きます。学生には「何でネコ?」となるわけで、「何で」が本当に理解したと感じたのは、後日、ケルンのマックス・プランク研究所で砂ネズミの冷凍切片を一生懸命切り出している時だったと思います。

  山内先生がフイッシャマンのセ−タ−で徹夜明けの真っ赤な目をしながら講義なされる姿に女学生がキャ−キャ−言っていたのとは対照的に、もくもくと講義される川村先生には隠れファンが多かったのを記憶しています。雪のなか教授室を訪ね、なにか良い解剖学の本をと申したところ、大きな本をごそごそ出されて「これが良い」、「え!・・・」。黒いハ−ドカバ−に黄金色の丸印、そうGrays  Anatomy でありました。早速、帰省の折、お茶の水のジロ−(昔2Fでセルフサ−ビスがもの珍しかった旧店舗)並びの急階段を上がった洋書屋さんで求めて重い思いも何のその、ウキウキとして盛岡に帰りました。

 やがて教室に出入りするうち、脳神経のサブノ−トを作ろうという事になり、カ−ペンタ−(当時は邦訳本は出て無く)をbaseに有志で『Brain Manual』としてまとめることになりました。まだパソコンが普及していない時代ですから肉筆、肉図案であります。只まとめるのではおもしろくないから、各人がいろいろ調べて味付けをと盛り上がり、僕の担当は1番の臭神経で高木先生の本を読んだり脳の発生から辺縁系にいたるまで勉強しました。「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」に納得して、後日、看護学校の12脳神経講義には必ず引用していました。前述の砂ネズミは「桐野の5分間虚血モデル」ですから異国の地で海馬に因果を感じながら仕事をしてました。

 このメンバ−で次にとり組んだのが、Brodal であります。これは厳しかったです。みんな(先生も含め)若かったですから燃えていましたが、今考えると大胆な挑戦でありました。高じて、岩手山麓の八幡平温泉でBrodal勉強会合宿となりました。僕にとっては宝物のような思い出です。後日、都立精神研で勉強させて頂いた時、鈴木二郎先生(現東邦大学医学部精神科教授)がBrodalを抄読会のテキストにもちいられており、懐かしく思い出しました。

  先生は当時、鼻アレルギ−(花粉症だったのでしょうか)に悩まされており、研究室にお邪魔すると、鼻をカミカミいろいろお話をして下さいました。盛岡の街、県庁前あたりを奥様とお二人で寒いなか防寒帽をかぶって、仲良く散歩されておられる所に遭遇して、「ああイイナ」と感じ入ったことを思い出します。オスロの研究所の説明に、スライドで白夜を写されながら淡々と語られる先生のお顔は、生き生きとしておられました。

 川村、山内両先生という当時新進気鋭の先生がたから医学入門の事始めを頂いた我々は幸せだったと思います。同期では、脳外科、神経内科、精神科と神経系の臨床を志したものが明らかに多く、基礎では佐藤洋一先生が母校の第2解剖の教授になりました。

 僕はその後、筑波大の脳外科の医局に籍をおきました。お世話になった故牧豊教授は同門同精神科教室出身の川村先生を無論ご存知で、その後の先生のお仕事の内容も脳外科医にとっても大変興味深いものでした。学生時代から卒後既に23-4年になる今日に至るまで、先生の存在をいつも身近に感じながら生きて来たことを改めて思い、感謝の気持ちを込めてこの文を終わらせて頂きます。ご寄稿の機会を頂き本当にありがとうございます。今後の更なる先生のご活躍を祈念致します。

 

(医療法人社団双樹会 双樹記念病院  院長) 

 

 

 

 わかり難くて、何が悪い!

 佐藤洋一

 

 「おいおい、何を書いてるかわからないし、何を言ってるか、理解できない。どうしよう。」 

 28年前の岩手医科大学第三講義室、はじめて解剖学第一講座の川村先生の授業を受けた後、私たちはパニックに陥りました。黒板一面に書き連ねられた細かな神経回路図とラテン語と英語を目の前にして、途方にくれました。当時の授業は「わかりやすく」などとという言葉とは無縁の高踏的なものが多かったとはいえ、川村先生の授業はその最右翼で、難解極まりないものでした。これは、私たちの頭が悪いせいだろうが、しばらく授業を聞いていると、だんだんわかってくるかもしれない、と期待していたのですが、半年たっても全く意味不明のままでした。今、思い返してみると、それまで脳を見たこともない学生に向って、イントロダクションも何もなく、いきなり「Cerebrumにはcentral sulcusがあって、そこよりanteriormotor で、poteriorsensory area...」と話し始めるのですから、とんでもない授業だったと言っても過言ではないでしょう。板書も上下逆転する黒板2面を駆使したもので、今書いている絵が次には上に行くのか下に位置するのか、最後までわからない状況でした。そこで、板書を筆写する際に、数人が手分けしたこともございます。

 私たちもそれなりに努力したつもりですが、どうしてもついていくことができません。そこで春休みを迎えた時点で、学生の有志が集まり、「先生の授業がわからないので、授業ノートを貸してもらえないだろうか。」と川村先生にお願いしたところ、「嫌だ。不勉強な学生に貸すノートは無い。」と断られてしまいました。全共闘の運動が華やかな時代であれば、つるし上げにされてもしょうがないお言葉でしたが、ポスト団塊の世代の私たちは穏健そのものでしたから、「では、どうすれば良いのですか。」と懇願いたしました。流石に哀れと思われたか、「では、この本を読みなさい。」と手渡されたのがBrodalの書いた小冊子で、脳神経を概説したものでした。そこで、我々はそれをもとに、12対の脳神経の解説書を作ることにいたしました。図書館のスタディールームを借りて、そこに有志が集い、1ヶ月かけて脳神経の解説書を書き上げました。前年、やはり川村先生の授業に根を上げた先輩がいまして、その方が作った"Brain manual 1 (Spinal cord)"というのをモデルにして、"Brain manual 2 (Cranial nerves)"を仕上げたのです。そうすると川村先生はことのほか喜ばれ、「学生講義のテキストとして使おう。」とおっしゃってくださいました。「不勉強」のレッテルを少しは払拭したと勘違いした私たちは、寿司をごちそうになり、満ち足りた気分に浸りました(その代金は、テキストを学生に売って得た教室費から出たという事実を、後に知りました。)

 さて、それからも解剖の講義は続きましたが、肉眼解剖の講義は一切無く、神経解剖だけでした。肉眼解剖実習は、浦先生の作られた、通称ウラビデオに頼って進められました。わからないところを聞こうと思い教員控え室に行くと、深夜に及ぶ研究生活の代償でしょうか、川村先生はソファーにトドのような巨体を横たえてご就寝されているのが常でした。たまに実習に出てこられて手ほどきをされる事もありましたが、授業では細かな神経の枝まで講義なさったにもかかわらず、どういうわけか学生が苦労して剖出した神経や血管を大胆にも断ち切る事が何度かございました。そこで、組織学で非常にわかりやすい講義をなさっていた第二解剖の山内昭雄先生に手ほどきをお願いしたところ、フランス語の原書を持ってこられて「ここに書いてあるから、読んでみたら?」と、優しくお示しになりました。肉眼解剖実習を通して私たちは、「教師に教わろうなどと思ってはいけない。勉強は、自らするものだ。」と言うことを、骨身にしみて実感した次第です。

 さて、進級するにつれて通常は解剖学教室と疎遠になるのが通例ですが、どういうわけか有志の一部は、そのまま川村教室に出入りを続けて神経学の自学自習をしておりました。そのうち川村先生が「今度はBrodalの本を本格的に訳そう。」と言い出しました。かつての有志全員に招集がかけられ、助手の端川先生と内藤先生、大学院の学生と一緒に訳が始まりました。けれども、なかなか進捗しません。当然です。私たち学生はポリクリやデートで忙しかったのです。業を煮やした川村先生は、「合宿をする」と言い出しました。よせばいいのに有志の一人が、「では良いところがありますので、紹介します。」と応え、岩手山の麓にある学習院大学の厚生施設で3日間の合宿をする羽目になりました。朝から晩まで神経解剖の勉強をさせられました。それまでは、「合宿」は「飲み会」と一緒のことが多かったのですが、本当の「勉強合宿」でした。川村先生は、私ら学生を「研究者とみなす」と公言され、要求水準もずいぶんと高かったように思います。今でも参加メンバーと会うと、あの合宿のことが話題になります。

 さて、いろいろ失礼な事を書き連ねましたが、有志の多くは、卒後の進路を神経学に振り向けました。決してわかりやすい授業とはいえませんし、きつい言葉も投げかけられました。しかし、私たちは川村先生の神経学に対する熱意に共感し、教室を訪れておりました。私は卒後、縁あって解剖学の道に進み、教職につきましたが、教育において大事なのは「教育技法」よりも「熱意」である事を再認識しております。岩手医大時代に、川村先生は数々の業績を残されましたが、それにも増して「学問に対するagressiveなまでの真摯さ」や「貪慾な知識欲」という無形の遺産を私たちに残されました。それを受け継ぎ、次世代に伝えるのが私の責務と思っております(数人の学生が、分担して板書を筆写している点や、わかりにくさは、しっかりと継承してますよ。某医科大学学生談)。川村先生、本当に有り難うございました。

(岩手医科大学 解剖学第二講座、教授)

 

 

 

私の条件反射学

紺野敏昭

 

 条件反射の消滅(解除と言った方がよいのか?)にはどのような条件が必要なのであろうか。

条件というInputと反射というoutoputの簡単な図式であるのにその間に介在する仕組みは未だに不明な事が多い、いわばblack boxのままである。Ivan  Pavlovが提唱した概念はもっとも単純なモデルである。いわゆる梅干しと唾液の類である。梅干し好きな私は、毎日食しているのでこの図式は完全に維持されている。しかし梅干しを見ることもない世界に一体何年暮らしたら、この条件反射が消滅するのであろうか。消滅の条件としてどのような要素があるのかは不勉強な私は知らないが、時間の経過が重要な要素の一つであろう事ぐらいはおよそ想像がつく。

時々頼まれて老人を対象に講演を依頼されることがある。痴呆についての希望が多いが、私は痴呆の医学的話題は嫌いである。病理学、生化学的な知見は集積されてきているが、治療については未だに絶望的な状況にあるからである。まともに痴呆について医学を話すと、しゃべっている本人だけでなく聴衆も暗くなってしまうのである。そこで痴呆の話はそこそこにして、老人の生き甲斐とか老人の存在意義と言った話題に変えてしまう。

先日はこんな話をした。「子供たちはどうして親の言うことには強く不快な反応をしたり、あるいは反発するのでしょうね」「おじちゃん、おばあちゃんの小言には穏やかに反応するのはなぜなんでしょうね」。  子供たちは物心が付く以前から親(近年この役を主に演じているのは母親)から躾、時には八つ当たりを受けて育つ。この繰り返しで学習が成立するのであるが、条件反射も成立してしまうと考えられる。親の雰囲気、ちょっとした仕草、表情などを事前に察知して身構えてしまうのである。親の言うことはもっともだなと脳の片隅では理解しても、どうしようもない抗しがたい力が働いて反発してしまうことが多い。この図式も条件反射ではないかと思う。この図式に介在するのは扁桃体ではないかと推測している。あの抗し難い力は深在性の意識下の力で、neocortexの関与するところではないように思われる。しかしおじいちゃん、おばあちゃんの小言にはこの条件反射はあまり成立しないのではないか。だから皆さん、老人は家の中にいて、何ら生産的な事はしていないので肩身が狭い(今の日本国を支配し、蝕んでいる経済効率とか言う悪しき概念)などと悲観する事はないですよ。子供たちの健全な情動の発達にはおじいちゃん、おばあちゃんの存在はとても大切で、子供たちは国のもっとも大切な財産なのですよ。

私の場合条件反射の消滅にはおよそ10年の時間経過が必要であった。電話の交換手が相手の名を告げて回線をつなぐ度に身体は緊張し、声はうわずってかすれ、瞳孔は開き、血圧は瞬時に上昇する。「やあ、川村ですが、元気?」

 昭和49年に岩手医科大学医学部を卒業し神経に興味があった私は脳神経外科を選んだ。ベン・ケーシーの記憶が未だ鮮明だった頃である。大学院で何を勉強するかと主任教授に聞かれ、迷わず神経解剖学を勉強したいと答えた。同期で4人入局し、4人とも同じ答えで教授は驚いた様子であったが、穏やかに笑って、MerittText book of Neurologyに自ら入局記念にと署名して各人に手渡した後、紺野君と千葉君(千葉明善)は第一解剖学教室、鳴海君と日高君は第二解剖学教室に行きなさいと指名された。第一解剖学教室は川村光毅教授、第二解剖学教室は山内昭雄教授が主宰していた。お二人とも神経解剖学がご専門で、川村教授は中枢神経のfiber conectionを、山内教授は主に末梢神経の電顕の研究をしておられた。早速ご挨拶に伺うと、今すぐ来て勉強を始めて欲しいが、1年間は臨床の修練をする約束になっているから仕方がない。君ら二人には立派な脳神経外科医になってもらいたいから、僕は厳しく接するよ、バイトも最小限にしてもらうよと釘を差された。国家試験の合格発表直後で、浮かれていたところに一発ストレートパンチを食らった気がしたが、一年後にそれが現実になった。頂いたテーマはネコの大脳皮質と上丘のfiber conectionを鍍銀法であるFink-Heimer法で調べる研究であった。標本を渡され顕微鏡下で神経終末の変性像を説明されたがゴミにしか見えず、変性が変性として見えるのに1年以上を要した。当時川村先生の仕事はhorseradish peroxidaseを用いた神経ラベル法で、鍍銀法に比べて格段にわかりやすく何度も恨めしく思ったものである。思えばFink-Heimer法での報告は全世界的に見ても私と千葉君の仕事が最後ではないかと思う。どう見てもゴミにしか見えない自分の目を恨みながら鬱々とした気分で朝から真夜中まで観察とスケッチを重ねようやく10数匹分の所見をまとめ川村先生に提出したのは1年数ヶ月後であった。この間自分でも遊んだ記憶はほとんどない。本当に根を詰めて仕事をしたと思っている。一向に進まない仕事に、イライラし、自身に嫌気がさして窓の外を眺めて一服しているときに限って川村先生は部屋を訪れる。今にも灰が落ちそうなタバコを口角に斜めにくわえながら「やあ、どうした?」。毎回こう言うのである。これには返事に窮した。何かわからないことはあるかとか、困っていることはあるかと聞かれるのは返事しやすいが、どうした?と言われると一服していることを咎められているようでもあり、仕事が進まないことを詰問されているようでもあり困惑したものである。千葉君と机を並べて顕微鏡を覗きながら眠ってしまい、突然背後から「やあ、どうした?」と声をかけられ、しどろもどろで何とか応対し川村先生が部屋から去った後顔を見合わせると、互いの前額にくっきりと接眼鏡の跡が2個ついていて大笑いしたことがある。

この最初の1年数ヶ月がもっとも苦しかった。結果をじっと我慢して待っていた川村先生も苦しかったとものと思う。川村先生にとって、我々二人ははじめての大学院生であった。ようやくのことで提出した所見は信頼に足るものではなかったようで、discussion 顕微鏡を覗きながら検討していただいたが惨憺たるものであった。鍍銀法による観察は出来るだけ短期間のうちに集中してやらないと所見の統一性が損なわれてしまう。2度目の所見取りは数ヶ月で終え、この時点で始めて川村先生と議論できる土俵になんとか登れた。1年半の間に数百編の論文に目を通して整理していたが、それを見つけられて君はこんなに勉強していたのかと言葉をかけていただいたのが救いであった。その後は憧れのaxonal flowを用いた研究に取り組むことが出来た。

どうやらこの時期にさまざまな条件反射が形成されたようである。パタンパタンというスリッパの音、特徴のある空咳、鳴って欲しくないときに鳴る電話、たまに目を盗んで早めにとんずらした翌朝机の上に置かれてあるメモ、これらの刺激に対する反射が負の条件反射である。日に日に憔悴してゆく私を見かねて、解剖学実習中の学生グループが金がなくてろくに食事をとっていないと気の毒がり(本当に金もなかった)食事に誘ってくれたことがある。純粋な気持ちを断るわけにもいかず、ご馳走になった。しかしそのまま帰るわけにもいかず、2次会はお酒を振る舞ったが、お金がないので脳外科の医局長に3万円を借りて出かけた。今ではこのときのメンバーの幾人かは大切な友人である。

3年間の内容の濃い研究生活を終えて臨床の生活に戻った。これはこれでまた異質の地獄の世界ではあったが、それを乗り切れたのは川村先生の薫陶のおかげと思える。一つの事象、事例をじっくりと観察・分析して本質に迫る態度、執拗なほどのdiscussion、言葉を一個一個厳密に選ぶ態度、学会発表では原稿は見ないで話すこと、それにも増して研究に対する執念を身近に学んだ。これは私にとって正の条件反射である。負の条件反射は時間というスケールの中で消滅したが、正の条件反射は今でも私の中で生きている。

どのようにして部下(Unten)を指導したらいいのかと悩む後輩に私はよく言う。

恨まれるくらいに厳しく指導した方が、10年位すると感謝されるが、甘やかして接すると10年くらい後には軽んじられるよと。

脳神経外科に戻った私は、もっとも脂ののった時期に神経内科医に転向した。脳神経外科に飽きたわけでもなく、嫌気がさした訳でもなかった。むしろ手術が面白くて仕方がない時期であった。たまたま自分の知識ではどうにも診断できない3人の症例に遭遇し、臨床神経学の奥行きを知ったからであった。解剖学教室に在籍中、川村先生のもとで広く神経科学(neuroscience)の世界を見せていただいた経験が決断の原動力になっている。九州大学の黒岩義五郎教授が数名の解剖学教室の教室員のために臨床神経学の講演をしてくださったことが強く印象に残っている。Oslo大学のWalberg教授、英国王立研究所のRaisman教授のレクチャーを聴いたり、ドライブしたりしたことも忘れられない。何よりも学会だけでなく、神経科学のいろいろな研究会に連れて行って頂き一流の研究者のレクチャー、討論を見せていただいた経験は自分の大きな財産になっている。医学知識だけでなく、教養、素養の大切さは何度も教えられた。

 定年を迎えられた先生は、当時とほとんど変わっておられず、定年とは俄には信じ難いのであるが、生物学的には年をとらずに、ただ社会的に年をとったということだと理解している。当時から定年後にしたい夢を時々語っておられましたが、どんなことをなさるのか楽しみにしております。

盛岡にも是非遊びにいらしてください。

「やあ、紺野君、どうした?」・・・・・・・・

私の神経回路網はどのような反応を見せるのであろうか。

(こんの神経内科・脳神経外科クリニック)

 

 

 

大学院生活の思い出

七海 敏之

 

 川村教授の退官記念会に招待いただき、川村教授はもちろん、大学院時代(岩手医大)の先輩諸氏に会えたことは、私にとって今でも大変貴重な一日でした。これから話すことは20年近く前の事なので、記憶も定かでなく、断片的なものばかりです。多少は脚色している部分もありますが許していただきたいと思います。

 私は昭和58年に岩手医大脳神経外科入局し、翌年に大学院生として同級生の菊地君とともに第一解剖学教室の門を叩きました。一側大脳半球の病変によって、反対側の小脳半球の循環代謝量が低下する現象、Crossed cerebellar diaschisis (CCD)と神経解剖学関係を研究することが脳外科から与えられたテーマでした。CCDの文献を集め(ほとんど読まず)、菊地君とともに初めて川村先生に会って、『CCDにおける神経解剖学的役割を研究するように言われてきました』と話したところ、川村先生はしばらく考えて、『・・・、それなら紺野君、千葉君がすでに論文にしているよ。それよりさ、“イショク”やってみない?僕さ、神経回路の研究やめて“イショク”をやろうと思っているんだ、始めたばかりで分からないことも多いけど面白いから君らも一緒にやってみないか。』といった内容でした。紺野先生、千葉先生は脳外科の大先輩で、すでに数年前に川村先生の指導のもと、ネコを用いた実験で大脳−小脳間の神経回路の研究で学位を取っていたとの事でした。今から考えるとBaronCCDを発表した1980年以前の事と思います。それを知らない脳外科教室もどうかしてますが、川村先生から“イショク”という聞き馴れない言葉を聞き、それを理解するまで少し時間がかかったことを今でも覚えています。川村先生がなぜ神経移植に興味を持ったのか私は分かりませんが、第一解剖学教室が神経回路網の研究から突然、移植という未知の世界に入った時期でした。とりあえずCCDの膨大な文献を読まずに済んだことだけは助かりました。

 よく言えば(?)“郷に入っては郷に従え”、実際には“破れかぶれ”といった心境で始まった大学院生活でした。まず初めに与えられた仕事は、イモリの脳移植実験でした。イモリ(サラマンダー)の神経解剖図譜を渡され、『僕が出張(北欧)で遊んでいる間、この本を読んで実験(移植)しておいてね』と言い残して川村先生は1週間いなくなりました。八幡平の山麓に朝早く行きイモリを採取しそして、来る日も来る日もイモリの脳を取り出し、移植を行いました。イモリの頭蓋骨は予想以上に固く、そして頭蓋腔が狭いために神経組織の移植は困難を極めました。移植できても全て死亡する始末で結局、成功しませんでした。川村先生に叱られることを覚悟して、帰国後に経過を話しましたが、意外にもニコニコしながら『そう・・・』の一言。これでは納得行かず、『なぜ、イモリの移植を命じたのですか?』と尋ねると『だって君、イモリってしっぽ切ると又生えてくるじゃないの。脳も再生するかと思ってさ・・・。』なるほど、さすが川村先生と思ったのはほんの一瞬でした。それってトカゲのことじゃないの?、でも川村先生が言うからイモリもそうなのかな・・・?

まずは叱られなくて良かったと思った出来事でした。

 その後、実験動物はイモリから無難なラット、マウスを使用するようになってから安定するようになり、徐々に結果も出てきました。神経組織の移植実験は当時国内ではほとんど行われておらず、神経移植に対しての批判も時々見られ、“壊れた時計の中に、部品をただ放り込めば時計は治るのか?”といった記事も見受けられました。確かにそうかも知れませんが、川村先生はただ単に、移植された神経細胞がその後どうなるのか知りたかっただけだと思います。完成された脳の研究(神経回路)を“静”とすれば、発生学や移植実験は“動”と表現できるかもしれません。川村先生が“イショク”に興味を持ったのは“静”の世界に飽きたのかもしれないと思っています。決して臨床応用して病気を治そうなどとは考えていなかったと思います。我々も移植実験に興味が出てくるにしたがって、いつしか脳外科医であることを忘れ周囲の雑音を気にしないようにして基礎医学の純粋性、川村先生の純真な心に染まっていったように思います。

 私たちは宿主を成体ラット小脳とし、移植片に小脳原基の他、オリーブを含む脳幹を用いましたが、この実験系は他の実験系と違って、全く予想しなかった結果を生みました。それは“移植された神経細胞(プルキンエ細胞、顆粒細胞)が宿主(成体小脳)内に移動(migration)する”という事実でした。宿主と移植片の境界付近に漂うプルキンエ細胞は時々観察されていましたが、移植の際に宿主の皮質構造が乱れただけと思っていました。この時期、同様の移植実験を行っていたフランス人ソテロ教授が偶然にも川村先生の招きで岩手医大に来た事があり、なにげなく切片を見てもらったところ『これは移植片からのmigration cellだ!』と断言したのを覚えています。彼はなぜ、はっきりと言い切ったのか、この時は分かりませんでしたが、その後同様の実験系をしていたことを知りました。今から考えると彼は焦ったのではないでしょうか。世界中で、自分と同じ実験をしている人間がいるとは想像していなかったと思います。私たちがその後Neuroscienceに投稿した時に、待ったをかけたのがソテロと聞いています。ソテロがNature(Science?) にミュータントマウスに対する移植で移植細胞のmigrationが起こることを発表しましたが免疫電顕の手法を用いて神経回路の再生も起こり得ることを示唆したすばらしい論文でした。しかし、“migration”という大きな事実の発見に関してはほぼ同じ内容でしたので私たちの発表が先になることを懸念したものと思っています。彼の発表後、川村先生の論文もすぐに採用になりました。川村先生は多くは語りませんでしたが、悔しかったのではないでしょうか。

 また、移植実験を行っていたある日、移植片(小脳、脳幹)が余り、宿主ラットが少なくなってしまったことがありました。川村先生に話すと『それじゃ、もったいないから一緒にして入れたら』と言われ、言われるまま両方の原基を同時に移植したことがありました。何気ない一言でしたが、こうした同時移植例は生着率が高くお互いの移植片にadjuvant効果があることの発見でした。“もったいないから”とは、とても控えめな言い方でしたが、その心の奥にはやはり科学的な根拠があったのでしょうか(それとも偶然でしょうか)。

その後、岡山大学の伊達先生(脳外科)が黒質の移植実験で生着率を高めるためにdouble graftを行っていたようですが川村先生のアドバイスがあったのではないかと考えています。

 最終的には移植片と宿主の識別、グリアの役割などに興味が注がれ電子顕微鏡での観察、できれば免疫電顕で確認すること、さらにモノクロナール抗体の作製を行いオリーブ、プルキンエ細胞、顆粒細胞などの独自の抗体を作製して移植片と宿主との関係を明らかにすることなどを行いました。このため川村先生と三人で夜行列車にのり、群馬大学の薬理学教室にモノクロナール抗体作製方法を教わりに行ったことや免疫電顕の手法を習いに大阪大学に出向いたこともありました。プルキンエ細胞の抗体は比較的容易に作ることができましたが、川村先生が最もほしかったのはオリーブの抗体ではなかったでしょうか。川村先生は『もし、オリーブの抗体ができたら、君・・・、』と私に話しかけ、“移植片の同定 のことかな?”と思いましたが、次に続いた言葉は『・・一儲けできるね』でした。先生は言うまでもなく仕事熱心でしたがいつも話に夢があって私を楽しませてくれました。神経の移植実験は徐々に全国的になってきましたが、脳外科学会ではパーキンソン病患者の治療を目的にした黒質の移植実験が多く、川村先生は『あまり興味ないね』と一言いったきりで私も同感でした。

 プルキンエ細胞の同定はなんとかオートラジオグラフィーで可能でしたが、顆粒細胞、オリーブ、climbing fiberなどの同定ができないまま学位論文を仕上げる結果となったことは残念に思っています。今から考えると、抗体作製や免疫電顕の習得は短い大学院生活で、しかも先生の目を盗んでは遊びまわる私と菊地君の力量ではこれが限界であったものと許してください。『基礎医学はうそを書くと10年表舞台に出れないよ』と言い、『僕はね、論文を書くとき机の上にパンと牛乳を用意するんだ』と言って一晩で書き上げる姿には本当に驚かされました。真実を求める真摯な態度、桁外れの集中力は今でも私の医者としての心の中に強烈な印象として残っています。

 それにしても、川村先生の講義や試験は難解でした。学生の理解できる範囲を超えていたように思います。自分が学生の時の試験成績は惨憺たるものです。すでに先生に知られているものと思っていましたが、ある事をきっかけに心配がないことに気が付きました。それは大学院生の仕事として学生の試験監督を行った時でした。私達が学生の答案用紙を教室に持ち帰ると川村先生『七海君、菊地君それ(答案用紙)ね、適当に3つに分けといてね』と言われました。『え?』と聞き返すと『適当にさ、松・竹・梅でもいいから・・・』と。試験重視の神経質な教授でなくてよかった、おそらく私の試験答案も知らないだろう、と今では感謝しています。

 その後、岡山大学から慶応大学の教授となられた後は、年賀状での挨拶程度しか出来なくなりましたが、昨年、全く変わらない、むしろ若返った感じのするお元気な姿を拝見でき大変嬉しく思いました。岩手医大時代の最後の大学院生として指導していただいたことをいつまでも誇りに思いホルマリンでやられた嗅覚も、大学院時代の思い出と思っています。話したいことは山ほどあるのですが、つながりのない支離滅裂な話になってしまうのでこの位にします。これからも時々会う機会があれば色々昔のことを話し合いたいと思っています。健康に気をつけてこれからもますます研究が発展することを願っております。

(山本組合総合病院脳神経外科部長)

 

 

川村先生は永遠に不滅です

小笠原孝祐

 

昭和52年4月、岩手医大卒業後大学院生として眼科に入局したが、神経眼科外来を充実させたいとの田澤教授の意向受けて、1年間の臨床研修の後、神経解剖を勉強すべく川村光毅教授の解剖学第1講座にお世話になることになった。当時、大学院には他科の3人の先輩がいたが(卒業後全員、岩手医大学術最高賞を受けられている)、私の挨拶に対する最初の言葉は『こんな大変なところに良く来たね』であった。それもそのはず、昼夜のない生活だけではなく、論文は英文でしか受け入れられず、参考論文は山のように紹介されるのであるが、朝に渡された論文コピーの内容を夕方には聞かれた。著者名の間違えは厳しく注意された。また、実験、標本の所見取りについても手抜きは決して許されなかった。論文を書き、発表することは科学の発展において生命をかける決意が必要であるという基本姿勢に妥協はなかった。私は週1日半の眼科の出張診療の義務(ほんとうは生活のため)もあり、このわがままを認めて頂いたかわりに日曜日も休む事はできなかった。Discussionが深夜2時過ぎからになることもあり、私が比較的早い時間に帰宅した際に娘に人見知りされた時はさすがにショックであった。その後、学位論文をはじめ、先生が岩手医大から転出されるまで多大なお教えを頂き、米国留学の機会も得ることができた。また、私の眼科の後輩3名も川村先生のお陰で学位を授かっている。先生との思い出は枚挙にいとまがないが、そのいくつかを紹介し私の責任を果たしたいと思う。

研究室に入って2年が過ぎた1980年3月にスイスで開催される国際神経眼科学会への出席を先輩から打診された。自分の学位論文完成の目処が確実ではなかった時期であり、迷ったが、参加したい旨川村先生に伝えた。先生はいつもの通り(?)ソファーに横になって本を読んでいたが、学会の案内、要項を持ってくるように言われ、『案内(英文)をよんでみたまえ。君の英語が僕に通じたら許すよ』。私は『ドキー!』としながらたどたどしく英文を読んだところ『いいんじゃない』との予想外の御返事を頂いた。この学会に出席できたことが今でも御指導頂いている北里大学前医学部長、石川哲先生との出会いとなり、その後の私の人生の道を開いてくれたといっても過言ではない。

こういうこともあった。前述したように家族サービスなどままならない大学院生活であったので、一度眼科の出張を半日早く切り上げて盛岡市郊外の『いこいの村』というリゾート施設へ一泊で出かけた時のことである。プールの入口で『小笠原君』と声をかけてきた方がいた。それは何と川村先生であった。メガネのフレームがかわっていたので一瞬判らなかったのである。翌日の朝にはさらに驚いてしまった。それは、朝食のテーブルに部屋ごとの名札がついていたが、小笠原様の隣が『川村様』であったからである。何も悪い事はしていないのに、なぜか急いで朝食を済ませそそくさと部屋に戻ったのであった。翌日、川村先生からは何の話もなかった。後で考えればその週末は川村先生も娘さんと遊ぶための家族サービスの時間だったのである。

川村教授から教えられた学問、研究に対する取り組み方と姿勢は私の財産であり、現在の自分があるのは先生のお蔭であることに間違いない。大切な財産をなくすることないよう生涯『切磋琢磨』の気持ちを忘れず精進したいと思っている。それが、私ができる先生への唯一の恩返しであろう。

(医療法人 小笠原眼科クリニック)、院長)

 

 

 

関谷 治久

 

当時、北里大学眼科学教室は、石川哲教授の指導で神経眼科を主なる研究テーマにしていた関係から川村教授の下で神経解剖の研究の方法や考え方を学んでくるようにとの石川教授の御好意があり、昭和58年4月から昭和60年3月まで川村教授が在職されていた岩手医科大学第一解剖学教室に国内留学させて頂きました。

留学中は、HRP法でのサルのEdinger-Westphal核からの神経投射とサルのpretecto-olivary neuronsを研究させていただき先生の御指導のもと論文にまとめさせて頂きました。さらに留学終了後バージニア医科大学神経生理学教室に留学できるようにとBarry Stein教授ヘ推薦して頂き国外留学を経験できる機会を与えて下さいました。先生に御指導して頂いたおかげで、その後北里大学眼科学教室内に神経解剖形態グループができ、私の後輩の先生達4人が、神経解剖の分野で学位を取り1人は学内で年間発表された論文のうちもっともすぐれた論文ということで北里賞を授与されました。

国外留学後の私は、二重標識法を用いた上眼瞼挙筋の研究や視神経の発達・視神経再生に研究をシフトしていきましたが、ネイチャーに利根川教授の癌遺伝子で脳神経が再生されるという論文が発表され、とても臨床との掛け持ちでは研究は無理と思い、神経解剖の研究をやめ、現在はせきや眼科と埼玉医科大学総合医療センター眼科で神経眼科をしております。

先生に退官記念パーティーで久しぶりにお会い出来たとき他の先生と海馬の神経投射について討論されている光景を拝見でき、きっと退官されても雪の深夜にサルを駅に受け取りに行って来なさいとか、忘年会の飲んだ後も全員引き連れて研究室に戻って研究させる厳しさ?教授室で軽い?寝息を立てた後、深夜にお目覚めになり怒涛の如くあいかわらず研究されていくだろうなと思いうらやましく感じました。

先生に名付けて頂いた長女清香は、4月から高校3年生に、アメリカ留学中に生まれた長男泰治は、中学3年生になります。先生に御指導を受けた時間は、だんだんと過去のものとなって行ってしまいますが、先生に教えて頂いたものは現在も私の支えになっております。先生、御指導誠にありがとうございました。

(せきや眼科 院長)

 

 

「脳と心への世代間伝達」

鈴木 満

 

 医学部の講義とは、知識の伝達ではなく人格との出会いであると信じている。それなしに医学生の動機づけを喚起し続けることは難しい。昨今は視聴覚教材が素晴らしく使いやすくなったり、学生から講義の評価をされたりと医学教育をめぐる状況は大きく変貌している。それでも自分が情熱を注ぐ研究のエッセンスを次世代に伝えようとする姿勢こそが可塑性に富む脳と心に何かを残す。

Pyramidenbahn

 医学部3年目、神経解剖学の講義。黒板には複雑な脳内回路図が出来上がりつつあった。凡庸な学生にとってその内容は難解であったが、一心不乱に黒板に向かい真摯に学問を面白がっている川村先生の存在は痛快であった。講義の終わりに学生から錐体路に関する少し的はずれな質問があった。何と答えられたのかは思い出せないが、茶目っ気たっぷりの表情がそこにあり、学生の反応を楽しむかにように放たれたPyramidenbahnというドイツ語の響きにはどこか唯物論的還元主義とは趣の異なるhuman scienceの薫りがした。

僕のところに来なよ

 卒業を前に進路の相談に伺った。多言語を学び精神病理学の深淵に触れる書斎派の生活と、神経科学の言葉で精神疾患を語ることを目指す実験室派の生活はどちらも魅力があった。一頻り青臭い卒後研修の希望に耳を傾けた後に川村先生は言われた。「僕のところに来なよ」。

 大学院2年目に主科目を神経精神科から解剖学に変更した。「情動をやろう」と与えられたプロジェクトは、ニホンザル脳の側坐核に微量のHRPを注入し、神経線維連絡を調べるというものであった。側坐核の線維連絡は精神分裂病の病態理解にも関連するとあって気持ちは奮い立っていた。頭部放射線撮影から注入点を割り出し、定位脳手術を行うという実験神経学的研究である。しかし、年齢・体重ともばらつきのあるサルの脳の奥深くに、小さなinjection spotをねらい通り作るのは容易でなかった。6頭の手術を終え数百枚の顕微鏡切片の所見を取ったところで、数多くの追加実験の必要性が予見された。同時に、教室の新たな方向性は脳組織移植法を用いた研究に向かいつつあった。

ちょっと遊びに来ない? 

 大学院3年目、神経可塑性の権威であるDr Raismanの研究室に滞在中の川村先生から国際電話が入った。「ちょっと遊びに来ない?」という声を受けて渡英を即断した。ロンドンのNational Institute for Medical Researchで5週間にわたり神経組織の移植手技や染色法を習得することになり、最初の1週間ほど川村先生と同じ下宿に滞在した。英国人を自在に皮肉り笑わせる川村先生に圧倒されながら、先生のご指導のもと生まれて初めて揚げた天ぷらを英国人に振る舞うという無謀な体験もした。

 その後「ラット海馬原基の成体ラット小脳への移植」を学位論文としてまとめ神経精神科に戻ったが、1987年に再びDr Raismanの元で研究する機会が与えられた。ロンドンでは、神経生物学の手ほどきを受けて大脳白質の構造研究にのめりこんだだけでなく、世界各国から集まった研究者との交流を通じて、文化適応と脳の可塑性という多文化間精神医学のテーマにもめぐり会った。これらの体験のきっかけとなった川村先生からの国際電話に深く感謝している。

徹底的に厳密に

 古い大学報に川村先生の教授着任挨拶を見つけた。そこにはレニングラードにあるPavlovの墓石に刻まれた言葉が引用されていた。「徹底的に厳密に」「忍耐強く一歩一歩」「仕事には情熱をもって」。襟を正して若き研究者に伝えるべきメッセージであると思う。

 師の潔さを継承できず混沌たる臨床の現場に戻った9年前の決断が正しかったのかどうか時々考える。少なくともキャリアの長さでは私に分のある神経精神医学にしても「君、pedanticな事言うなよ」と無学を看破されるのがおちなのである。講義を省みても川村先生の存在感には遙かに及ばぬが、時にメッセージを世代間伝達しようとする自分に気づく。今思えば医学部3年生の時の「人格との出会い」は、刷り込み体験でもあったようだ。なかでも夜型の生活についてはそれを忠実に反映するものである、と家人に弁明している。

(岩手医科大学神経精神科学講座 助教授)

 

 

Dear Koki,

Ann Graybiel

 

It brings back many wonderful memories to be writing you this letter. I am delighted that your friends and colleagues are giving you a celebration, and that they have been so kind as to let me join in celebrating what a wonderful person you are. I vividly remember your great hospitality and charming friendliness when I visited Japan for the first time so many years ago. My impression of your special warmth has been reinforced each time we have met, and I salute you as a marvelous human being. Of course, we all know that you are a talented scientist who has led the way in many investigations and who has always shared knowledge with the greatest generosity. I think that I must be joining all of your acquaintances in hoping that others will learn from you not only facts and methods of science and medicine, but also gentleness and elegance of spirit!

 (Dept. of Brain and cognitive Sci., MIT, MA, Professor)

 

 

Renaissance Man of Japan

Geoffrey Raisman

 

Somewhere on a green lawn in Oxford forty years ago I must have been introduced to a Japanese gentleman in a crowd.  I say must have been, because I have no recollection of ever not having known Koki Kawamura – so easily did we slide into a lifetime relationship.  Our friendship had no labour pains, it needed no forceps delivery.  But I certainly knew nothing of Japan, that inscrutable country at the other end of the earth whose history was so full of contradictions that even the Japanese themselves

struggle to comprehend it.

 

Koki was then, as I was, a neuroanatomist, and the common link was the long standing school of neuroanatomy in Oslo.  But as I came to know him, I realised the immense breadth of Koki’s experience.  Apart from his fluency in English, he was comfortable with Norwegian, he spoke enough Russian to enjoy the theatre in Leningrad during white nights with his friend Felix, and his command of German served him well in his enduring love of Goethe’s Faust.  Many years later he nostalgically showed me the coffee shop where he spent his student days in intellectual conversation, in a street in Shinjuku, now alas taken over by a row of multicoloured neon brothels.

 

As the Japanese economic miracle unfolded, Koki was able to invite me to his country.  On my first trip, after an overnight train from Tokyo to the Tohoku, I found myself the only foreigner addressing a huge meeting of Japanese anatomists, huge snowflakes were blowing lightly over the walls of Morioka Castle, and Koki had decided to introduce me to his country.  After a night at a snow bound onsen on Mount Iwate, we set off on a once in a lifetime historical trip, two philosophers visiting and debating the historical heart of old Japan, Kyoto and Nara.  Walking round the kokoro lake at the Shugakuin we observed the goldfish escaping through the hole in the net on the gold lacquered Edo period screen, and discussed the Gempei Sasso, ancient and modern beauty, and the allure of Goethe’s Ewig-Weibliche.

 

Koki had a deep knowledge of Japanese history, literature, art and culture. No question I asked was too detailed for him, and no piece of Sen no Rikkyu, or ancient calligraphy was too esoteric for him to attempt to read.

 

At intervals over the years, I made many such visits with Koki, and I was always rewarded by new insights.  Above all, Koki was a man of the people. His favourite poet was Bassho, and he translated exactly the mood of longing of the Narrow Road to the Deep North.  Koki had a satirical eye for the great and powerful.  Human arrogance he viewed with scorn.  It was the humble, ordinary people of Japan who were Koki’s heroes.  Over the welcome warmth coming from a wood fire on a freezing day in Hakone he sang songs of Kanto (for we were on the less sophisticated side of the Pass) with an arthritic old woman serving glutinous potato stew with gloved hands.  He enjoyed shoulder to shoulder banter with the habitués of pubs on the unfashionable side of town, and with him I ventured into the translucent polythene pavement shacks, glowing with the yellow light of hurricane lamps, where the poor of Tokyo exchange cigarettes as they get drunker.

 

In return I introduced Koki to my home and to the heather covered moors and smooth green hills of Yorkshire, with their white limestone cliffs, still called by the Norse name Gordale Scar, and the place, high up in the Dales, where the River Aire disappears into the ground, to reappear miles further down, as a shining cascade of water, so slender that you could put your arms

around it.  I taught him the wonderful lines my father had taught me:

 

Yet shall your ragged moor receive

The incomparable pomp of eve,

And the cold glories of the winter’s dawn

Behind your shivering trees be drawn;

 

.. and back home in Leeds, introduced him to the Yorkshire delights of fried haddock, freshly landed from the North Sea by the Icelandic fishing fleet.

 

Koki is old enough to remember the rigid military discipline of his early childhood school.  He has observed many turns in the wheel of Japanese history.  Throughout his scientific life, Koki has always been fascinated by the very latest developments.  No new complexity deterred him.  He believed in the progress of science, he was always ready to learn, to balance old and new, and to move forward.  His mind was a placid as the waters of a mountain lake in summer, ever reflecting the light of the broad heavens, the sunshine and the passing clouds, ever calm, and ever welcoming to whatever, and whoever comes.  He was simple and innocent as a child, and as full of wonder and curiosity.  To this day, he has maintained his bright, enquiring interest in the mystery of the brain, the brain as a network of connections, and the brain as the seat of the mind, the source of all the human emotions, and the producer of that vast panoply of civilisation, the eternal masquerade from which his own enquiring, student brain never ceased to draw immense joy.

 

Koki Kawamura is a unique Japanese, in fact a unique person in any land.  At a time when people are learning more and more about less and less, he represents that greatest of human ideals and of a mind open to all things, and to all men.  Of Koki it may truly be written:

 

Nihil humanum me alienum puto.

 

(Div. of Neurobiology, NIMR, Mill Hill, London, Professor)

 

 

Koki

Edward G. Jones

 

I first met Koki Kawamura in 1968 under the rafters of the Anatomical Institute in Oslo.  That grand imperial building had been subdivided horizontally in order to create more research space, and it was in one of the upper tiers of the building that Koki shared a corner with a Portuguese neuroanatomist, Andre Sousa Pinto.  The professor with whom they were working, Alf Brodal, one of the greatest modern neuroanatomists, was more inclined to send visitors like myself off to see the Viking ships in the local museum than to waste time away from his microscope entertaining them. So after my seminar when all the other Norwegians had departed, I was left in the hands of Koki and Andre.  There began a friendship that I have always valued, one that has been reinforced by some delightful and often unanticipated encounters in unexpected places:  The Goethe House in Frankfurt, one of the smallest bars I have ever seen in Kyoto, a faded mansion in Sweden, an inexpensive noodle house in Wako.  Throughout the years, I have always been charmed by his cosmopolitan sense of the world at large and his remarkable capacity to engage with we gaijin on our own terms.  Perhaps the latter stems from his long-standing psychiatric predilections, but the former can only have its basis in a broad education and a wide perspective on the world.  Scientifically, too, Koki has exhibited considerable breadth in the research issues he has addressed, and especially in his willingness to engage quickly and effectively with new neuroanatomical techniques as these become available.  Knowing, as I do, the impositions placed on a Professor’s time in private Japanese medical schools, I can only marvel at Koki’s capacity for research productivity throughout his career.  I have every confidence that he will continue to be productive in his golden retirement years, during which I am pleased to see he will be involved with The Brain Research Institute at RIKEN.  He was one of my advisers and strong supporters when I commenced on the first three neuroscience laboratories at RIKEN , and I am convinced that the burgeoning present group of younger RIKEN neuroscientists have much to gain from his experience and generosity.

         (Center for Neuroscience, University of California, Davis, Professor)

 

 

Constantino Sotelo

 

Professor Koki Kawamura is an outstanding Neuroanatomist and a dear friend. After a successful carrier in Neuroanatomy and Neurodevelopment, with his never ending enthusiasm for research, he is now ready to come back to his early young interest and to start a new phase of his life as a psychiatrist.

 

Koki Kawamura is a rather atypical investigator. Since the beginning of his scientific carrier he wanted to travel around the world. He started with a training program in Russia (former Soviet Union), but few months after his arrival in Leningrad (Pavlov Inst.), he was accepted in the laboratory of Alf Brodal in Oslo. Professor Brodal, in the early seventies, was without any doubt one of the most prestigious Neuroanatomists in the world and Koki decided to change his plans and take the opportunity to follow his training in Oslo. This move was of great importance, because it offered him the possibility to participate to the very creative period of functional neuroanatomy with the revolutionary change of techniques : from the silver impregnation for degenerative axons to the anatomical tracing techniques based upon the use of anterograde and retrograde axonal flow markers. Koki has, thus, participated to the saga of building up a new neuroanatomy,  devoted to the study of the cerebral cortex, the brainstem, hypothalamus, and particularly the cerebellar system. His monography, together with Alf Brodal, on the olivocerebellar projection is, and will remain, a classical work for all investigators interested by the cerebellum.

 

After the great excitement of such a wonderful adventure, Koki decided to switch gears and to leave the field of functional neuroanatomy to begin a new period of his research carrier. This change was coincident with the new and last position as Chairman of Anatomy at Keio University, and is an excellent demonstration of his need for new and original research. He did not want to become an established neuroanatomist. He wanted to coordinate his new academic responsabilities with new scientific adventures. Thus, he became a dedicated investigator working in brain repair (mostly brain development). Numerous and important publications emerged during this last period. I will only mention the last ones on the role of the adhesion molecule L1 and the transcription factor Pax 6 in the development of the forebrain, especially the thalamo-cortical projections, that are successful examples of this productive period.

 

Let me add to his scientific achievements some personal memories. I met Koki in San Petersburg (named Leningrad at that time) in the summer of 1970, at the International Congress of Anatomy, and since then I had many opportunities to see him in almost all world continents : visiting castles in France, attending some meetings in the States, boating in some rivers in Indonesia, but what I cherish the most were my visits to his country, Japan. He has been my teacher in Japanese culture and civilization. I especially remember my first visit to Morioka where I was invited to a Buddhist temple for a ceremony in the memory of the death people whose corpses were used for anatomical teaching to students. Or my visit with him to the National Museum in Ueno in Tokyo, where I appreciated the beauty and refinement of Japanese art (sculpture, ceramics, paintings), or my first attendance to a No theatrical representation. But, by far, what I have most appreciated was the invitation to spend several days at his home in the Tokyo-neighborhood. He and his charming wife were my tutors in the Japanese way of life and, although I was rather a barbarian student, I keep very good memories of their patience and friendship. Thank you for all that my dear friend. I wish you a very long and productive period. I am sure that there will be time for a psychiatric epoch of your carrier and, most probably, one or two more future periods in your surprising CV.

(Hopital de la Salpetriere, Paris, Professor)

 

 

川村光毅先生の想い出

井出千束

 

 川村先生とは長いお付き合いをさせていただきました。私は、川村先生が岩手医大第1解剖の教授をされていました時に第2解剖に赴任しました。もう20年前になります。盛岡は私にとっては全く未知の土地で、右も左も分からない状態でしたが、川村先生に助けていただき、漸く研究をスタートすることが出来ました。川村先生は、あの頃はBrodal と共同で活発な神経解剖の研究を進めていられた時であったと思います。その後Brodal との共著を出版されるまでに共同研究を発展させられました。私が岩手医大に赴任して4−5年目ぐらいの時であったと思いますが、川村先生がAguayo らの行った「中枢神経への末梢神経の移植実験」に強い興味を示された事を憶えています。神経解剖を専門にされている先生がこのような細胞学レベルの論文に興味を示されることに驚きましたが、先生はその頃から「中枢神経の細胞移植」へと研究をシフトされていかれたと思います。わざわざイギリスのRaismanのところに出かけていかれて、中枢神経への細胞移植の技術を導入されたと記憶しております。私自身も末梢神経の再生から、中枢神経の再生に興味を広げていた頃で、先生と興味が一致して、良く討論したことを思い出します。イギリスから帰られて、移植技術を定着させるにはかなり苦労されたようですが、暫くしてやっと移植細胞が生着したと喜んでいられた川村先生のお姿が今でも目に浮かびます。その後間もなくして先生は岡山大学に移りましたが、岡山大学では脳神経外科学教室その他との共同研究で細胞移植の研究を本格的に進められ、大きく発展させられました。

 川村先生とは研究会でもご一緒でした。平成3年頃と思いますが、それまで私が中心となって開いていました「神経再生の研究会」と川村先生達が中心となって開いていました「神経移植の研究会」とが合同して開かれるようになりました。この合同研究会は、その当時漸く盛んとなって来た神経の再生と移植に興味を持つ研究者や臨床家が集まってざっくばらんな討議をする場として、大変有意義な会だったと思います。その研究会が母体となって『神経の再生と機能再建』という研究書を川村先生と一緒に編集して出版(平成9年)することが出来ました。この研究会はいわば小さな私的な研究会でしたが、これとは別に、全国的な「神経の成長再生移植研究会」が設立され、先生は設立当初からその研究会の幹事としてまた研究集会の世話人として御活躍されております。

 川村先生は慶応大学に移られてからも岡山大学での細胞移植の研究を一層発展されたと思います。また、数年前からは中枢神経の発生にも研究の視野を広げてこられました。さらに最近では、人間の情動の中枢神経機構について研究を進めておられます。私は情動にまで興味を広げられる先生に些か驚いているのですが、先生が医学部を卒業されてまず入局したのが精神科であったということを思い出して、納得した次第です。

 川村先生は、最初の頃の神経解剖の研究から現在の情動の研究に至るまで、全く先生独自の興味から研究を遂行されてこられたと思います。時代の潮流というものはありますが、先生は常に自分の興味から、研究領域を模索され、研究の幅を広げてこられたと思います。そして現在の「情動」の研究にはやはり先生本来の興味がそこにあったのかと、改めて先生の中枢神経研究に対する原点を見るような気がいたします。

 川村先生は、このように神経解剖、細胞移植による中枢神経の修復、小脳の発生機構、情動の神経機構という領域で大きなご業績を挙げてこられました。先生がご定年を迎えられるとお聞きして、時の速さに驚いております。先生には岩手医科大学時代から今日に至まで本当に長い間お世話になりました。この場をお借りして心からお礼を申し上げたいと思います。

これからも先生独自の発想からご研究を続けられて、また新しい視野から中枢神経を見せていただけることを期待しております。

(京都大学医学研究科生体構造医学機能微細形態学、教授)

 

 

川村光毅先生、長い間御苦労様でした

加瀬学

 

 川村先生と初めてお会いしたのは私が留学から帰国後1年して仙台市で開かれた日本神経眼科学会の学会場であったと思います。勿論、論文上では以前より存じ上げておりました。当時、川村先生は岩手医大解剖学教室の教授であり、HRP法による小脳を中心とした線維連絡研究の第一人者でありました。私はUCLAのBRIで覚醒サルを用いて眼球運動と小脳虫部についてsingle unit studyを行ってきたこともあり、先生とは小脳機能に関していろいろとお話ししていくうちに、小脳虫部―室頂核への視覚入力系についての共同実験を行うことに意気投合しました。neuroanatomyingle unitcombined experimentsをスタートしたのは1982年でした。実験は大変つらいものでしたが、思い出多い実験でもありました。特に、論文作成時の事は今でも思い出されます。その頃、川村先生は岡山大学解剖学教室の教授になっており、数回、岡山まで出向き論文書きしていました。私も北大眼科から札幌逓信病院眼科に移っていたので、岡山ではいつも電電公社の福利関連旅館に宿泊していました。川村先生のworking timeは朝遅く、夜遅くと完璧な夜型でしたので、discussionが終るのは、いつも午後10時過ぎでした。岡山の飲食店街があまりに早く閉めてしまうことには大変びっくり!したことを思い出します。更に、不幸なことに旅館に着いてみると食堂は閉じており、その上風呂の湯は既に捨てられているという最悪の状況が待っていました。10数年も経っているのに今なお昨日のことのように思い出されます。また、ある時、川村先生は今朝家内から「加瀬さんを一度も後楽園に連れていってあげたことがないんでしょう」と言われたのだが一度も行っていなかったよね!私は「はい!一度も連れて行ってもらっていません。」と答えたところ、それでは今日にでも後楽園へ行ってみようと言ってくれました。午後には後楽園見物が出来るか。ようやく、小生の心を分ってくれたかとうれしく思いました。しかし、昼食は岡山大の学食でとり、その後もタイプライタを打ち、discussionと続き、とうとう夜になってしまいました。「先生、後楽園見物はどうしましょうか?」と聞きますと「ああ、そうだったね!明日にでも行きましょう」と言って専ら、英文を書いていました。明日は札幌に帰るのですが…・と思いながら、論文が出来てからでも見物が出来れば良いかと思いましたが、その後も行く機会はなく、今まで見物に行っておりません。残念でした。その論文は1990年「Visual inputs to the dorsocaudal fastigial nucleus of the cat cerebellum」というタイトルでArch Ital Biol.publishされました。この仕事を通して、川村先生からは多大な勉強をさせていただきました。特に、川村先生の仕事(実験・論文書き等)に対する姿勢(集中力・洞察力・科学的思考力)は、私のその後の臨床研究生活に大きな影響を与え、昨年、日本神経学会ミレニアムシンポジウム「眼球運動」を集大成として講演することができました。本当に苦しくも楽しい実験をありがとうございました。今後も色々と御教示の程お願いします。これからも御元気で御研究してください。

(手稲渓仁会病院眼科部長)

 

 

みなぎる情熱と飽くなき探求心」

丹治 順

 

 川村先生との出会いは今から二十数年前、小生が北海道大学の生理学教室で助教授を勤めておりました頃、川村先生が北大第二生理の加藤教授と加瀬博士との共同研究で訪ねてこられた時のことでございます。そのお仕事ぶりはまさにどん欲、まさにアグレッシブで、北大に到着されるや否や間髪をいれず仕事に取りかかられ、寝る間も惜しんで実験に没頭されるご様子はまことに感動的でありました。“必殺仕事人”という形容がお似合いと思いました。

当時小生は補足運動野の研究に取りかかっておりました。補足運動野に関する知識はあまりにも少なかったので、まず脳内の入・出力投射を知る必要があり、そのころ世に出たHRP法を試みたのですが、稚拙なDAB法ゆえ失敗続きでめげておりました。そこへ川村先生がこられたものですから、まさに救いの神とばかり、正しい脳灌流法や発色法を教えていただきました。その時のありがたさを忘れたわけではありませんが、もっと心に残りましたのは川村先生の知識欲でありました。

実験や灌流作業の合間合間に、川村先生からは質問の雨が降り注いで参りました。そもそも補足運動野とは何なのか、運動前野とはどう違うのか、前頭前野との関係は?皮質間回路はどうあるべきなのか?視床経由の入力は基底核優位か、小脳核優位か?姿勢維持にはどれほど大切なのか、高次運動野と捉えるならばその最も重要な機能は何か?次から次へと質問されるうちに、補足運動野に関する知識の乏しさばかりではなく、小生の問題意識の浅薄さが露呈される次第となり、文字通り汗ばむ思いでありました。そのうえ先生ご自身の専門領域だけではなく、脳内の広汎な領域の神経投射に関して、まことに広汎で精確な知識が湧き出てくるために、先生とのデイスカッションは常に刺激的で、魅力と教訓に満ちたものでありました。

その後川村先生とは、文部省特定・重点研究の班会議で毎年お会いする機会が永いこと続きましたが、お会いすると直ちに質問攻めに会うことが常でありました。先生のご専門が変わり、脳組織の移植や再生の研究をされるようになってからも、お会いすると必ず脳の全体的構成に関する研究の現状について、詳細にわたって質問されることには変わりはございませんでした。

まさに驚くべき探求心を体現されている川村先生は、たとえ研究領域がミクロの神経組織に移っても、システムとしての脳の働きを決して念頭から離されることなく、脳機能の理解を求められてやむことはありませんでした。

一方、これは川村先生を知る多くの方々に頷いていただけると信じつつ述べさせて戴きますが、先生は実においしそうにお酒を飲まれ、談論風発されるので、酒食をご一緒にさせて戴くのが大変に楽しく、愉快この上ないことでございます。国内ばかりではなく外国の学会の折々にも、思い出に残るひとときを数多く過ごさせて戴きました。

川村先生、これからもどうぞお元気で、脳の探求をお続けください。小生へのご質問攻めもきっとまだまだお続けくださることでしょう。そして日本に育った若い脳研究者にご助力とご鞭撻をお願い申し上げます。

(東北大学医学部生理学教室、教授)

  川村教授のご退官に寄せて

松下松雄

 

2000年6月に,川村先生の退官記念の会が開催される旨の案内を受けたとき,“先生と私とは,まさにcontemporaryであった”という言葉を実感した.研究のテーマは異なっても,同じ世代で,同じ神経解剖学の道を歩んで来た.もっとも,先生は,後年別の方向に進まれたのであるが.振り返ってみると,神経解剖学は,経路追跡の新しい技術が開発される度ごとに飛躍的な発展を遂げてきた.最近のPHA-L法やbiotin dextran法より以前では,Nauta法,autoradiography法,HRP法など,新しい方法が出現すると,たちまち世界中が,それを使って,いろいろな研究をし,また競争が始まるのが常であった.私たちも,その渦中にあって,神経解剖学の発展の歴史,その世界が動く様子,また,あたふたと人々が動く様をも共に見てきたのではないかと思う.

ところで,いつ頃,またどのような機会で川村先生との交流が始まったのかは,良く思い出せない.私は,1961年に大学を卒業,実地修練を経て,1962年から,解剖学教室で鍍銀法を用いた神経解剖の研究を始めた.ある日,突然,千葉におられた先生から電話を頂いた.多分,これが川村先生と言葉を交わした最初であったように思う.予期していなかったことなので,今でもその時の状況は憶えているが,内容は何であったのかは思い出せない.私は,1968年,京大から関西医大に移り,あることから小脳の研究を始めるようになった.定位固定装置など神経解剖の研究設備も全くなく,研究費も乏しく,その上,年の中,半年は毎日午後,120人の学生の骨学実習,脳実習,人体解剖実習など教育に追われていた.

研究も進展せず,苦悩している時であった.その頃,J. Comp. Neurol. (1970) に発表された“前頭葉の皮質間結合”の論文の別冊を,先生から頂いた.カバー付きのものであった.その後,皮質間結合に関する立派な論文を次々とJCN,Brain Researchに発表され,早くも多くの成果を上げておられた.その当時の私には,大いなる羨望であった.その後,先生は,小脳の神経結合の研究では世界の最高峰にあったOslo大学解剖のAlf Brodal教授のもとで研究をされた.帰国後,岩手医大において,多くの優秀な共同研究者に恵まれて,数々の業績を挙げられた.学会でお会いした時,ときには電話で,先生の研究に対する熱意や厳しいお話,また,Brodal教授の研究や論文執筆に対する厳格な態度についていろいろな話を伺った.私の小脳関係の論文もたびたびReviewerから,英語の文体を含めて,非常に厳しいcriticismを受けた.Reviewerは勿論anonymousであるが,ある時,Brodalであることを知った.私は,停年になるまで,一つとして満足の行く完璧な論文が書けなかったが,川村先生のお話やBrodalから受けた批判が常に念頭にあり,それが,今日まで,緩みがちな私の心を引締めてくれた.また論文の書き方も,このreviewerの厳密で,建設的な批判から学んだものである.このように,私の研究者としての人生に大きな影響を及ぼした貴重な財産を,川村先生から頂くことが出来たことに大変感謝している.ある時,先生から,論文を投稿する前にお互いにpeer reviewをやらないかという提案があり,それが始まったが,2,3編ぐらいで頓挫した.続いていれば,随分有益であったと思うが,実際には,時間と労力の点で容易ではない.現在,外国から依頼された論文を査読していてもpeer reviewをしたものに出会ったことはない.それをすべきであると言われている程には,何処でもあまり行われてはいないようである.

川村先生は,大変flexibilityに富んでおられ,のびのびと幅広く研究してこられた.このことも,大変羨ましい限りである.1980年,Brodal教授と共著で,“オリーブ小脳投射”の大作の総説を出版された.ところが,後に,長年の神経結合の研究から,突然,神経移植や神経発生の研究に方向転換されたのには大変驚かされた.ただ単に私の眼には突然であって,先生には既に構想があったのかも知れない.最近では,情動から高次機能,精神機能まで研究を発展させておられるとのことを聞き知り,その限りなきエネルギーと柔軟性才能には感嘆させられている.

先生のご実家は土浦市にあり,産婦人科開業から引退されたご母堂さまが,絵を画いておられました.ある時,先生に連れられて,ご実家にお邪魔して,ご母堂様からいろいろとお話を伺い,出展された絵を見せて頂いたことがありました.また,先生とは,つくばの私の家で夜遅くまで飲みながら話をしたこと,岩手では,セミナーのあと,お宅に泊めて頂いだき,先生がレニングラードで研究された時,好きになったというShostakovichの交響曲(5番だったと思う)を延々と全曲聞かされて閉口したことなど,いろいろと楽しかったことが思い出されます.

後輩の私の方が,63才停年制のため早く退官しましたが,先輩であり同僚である川村先生とcontemporaryであったことは,人生における貴重な遭遇であったと,あらためて思い返しています.先生は,これからも留まることなくご活躍されることと思いますが,健康にはくれぐれも留意されて,新たなる人生を楽しまれることを願っております.

(筑波大学名誉教授)

 

 

神のお告げ

遠山正彌

 

   私が医学部を卒業したのが昭和47年。その当時の神経解剖学は大きく二手に分かれていたようである。脳内に含まれる生理活性物質から投射路を解明する方向と変性渡銀法による線維連絡から脱却し、1972年から1974 年にかけて開発された逆行性トレーサー法(HRP法)あるいはWGAなどの順行性トレーサーを駆使して脳の回路網を詳細にマッピングする方向である。我々は前者に属し、1970年代前半はスウェーデン学派により開発された脳内アミンの可視化法(組織蛍光法)により脳内アミンニューロンの投射路の研究を数人でまさに細々と行う状況でした。それでも心意気だけは意気軒昂で組織蛍光法ではアミンニューロンの詳細な投射を明らかにすることは困難だったので組織蛍光法をはじめとする脳内アミン証明法とHRP法の同時証明法の開発を目指していました。その当時に出会ったのが川村先生とBrodal博士との膨大な小脳の線維連絡の論文群である。自分との比較で何ともいえない鬱積した気分で読破したものである。そのときは「川村先生て、どんな人や?」という会話が頻繁であった。

   その後やや時が流れ、私どもの研究の軸を神経ペプチドに定め1980年前後より免疫組織化学が私どもの研究の主武器となった。当時私は留学から帰国。新しいグループの構築に取りかかったのですが、「金はない」(当時抗体作成には大変なお金がかかり、医師面を持つ者はバイトに言って研究費を調達してました)「将来の保証はできない」「研究の見通しに確固たる自信はない」の三拍子そろった、まさに現在の阪神タイガースの状況。それでもようやく軌道にのり、神経ペプチドの脳内分布、発生から回路網へと仕事が順次進んでゆきます。小脳や下位脳幹のペプチド性回路網の研究のバイブルとなったのがBrodal and KawamuraAdv.Anat.Embryol.Cell Biol. (1980)に発表されたreviewである。卒業してから10年間、まだ見ぬ川村先生に取り憑かれた10年間である。

   その「川村先生て、どんな人や?」の川村先生と初めてお目にかかったのはその当時の解剖学会の時である。「あのよう質問している人は誰?」「あれが川村先生みたいですよ」「えらい厳しいな。うちは大丈夫か?立ち往生せえへんやろな」「危ないでっせ」のひそひそとした会話が一瞬のうちに交わされた。これが私どもから川村先生への一方通行の出会いである。

   それがどう間違ったのか、川村先生から私に岩手医大にお招きがかかった。招かれる以上セミナーの依頼のはずであるが、雲の上の先生からのお招きで、過度の緊張状態にあったのでしょう、セミナーをしたか否かは私の記憶では定かではありません。冬の岩手。私の記憶に残っているのは少々飲み過ぎたことと川村先生が、「遠山さん。脳は面白いですね。」と耳元であの独特の口調で訥々と何度も呟くようにおっしゃた事です。あこがれの人からの耳元でのつぶやきは、私にとってはまさに「神のお告げ」です。そのお告げが私のその後の大きな支えになったことは言うまでもありません。今、大阪で私は大阪弁で「脳って、おもろいで」と教室員にしきりと「神のお告げ」連発しているのですが、果たして川村先生ほどの御利益がありますかどうですか。

   (大阪大学大学院医学系研究科機能形態学講座)

 

 

 

「川村光毅先生と如何にして出会ったか?」

福田 淳

 

  川村光毅先生と出会ったのはいつ頃のことだろうか?お知り合いになるずっと前から、お名前は存じ上げていました。小生がまだ研究者として駆け出しの頃、Brain Research誌が創刊されて間もない頃だったと思うのですが、川村先生の大脳皮質間の線維連絡に関する一連の論文が掲載されて、日本人にもこんな系統的な大論文をものする先生がおられるのだなーと驚きと尊敬の念をいだき、Koki Kawamuraの名は強烈に記憶に刻まれておりました。後年、先生と個人的にお知り合いになってから、先生が千葉大学の医学部を卒業されて、最初は精神科に進まれ、それから人の精神活動の基盤となる大脳皮質の神経回路を詳しく知りたくて基礎研究に転じられ、大脳皮質連合野の線維連絡を徹底的に追求されたことを知りました。私事にわたって恐縮ですが、小生も先生と同じように最初は精神科医をめざしてインターン(当時の自主研修)の1年間、精神病院で臨床研修を行いましたが、その後、脳生理学の基礎研究の道に入ったものですから、とりわけ先生に親近感を覚えました。

 お知り合いになった最初は、確か文部省の特定研究「脳の統御機能」の班会議かシンポジウムの後の懇親会の時だったと記憶しておりますが、それ以後、班会議や神経科学会、岐阜での移植と再生の研究会、谷口シンポジウムなど、自然とお会いする機会が増えて参りました。先生はいつも温顔で楽しそうに私の話を聴いて下さいますので、その穏やかで温かいお人柄に惹かれて、永らくおつきあいさせていただいております。

  昨年3月に慶応大学をご退官されてしばらくしてから、「脳と精神は如何に出会うか」と言う討論会(研究会ではない)を慶応大学医学部で開くので、是非参加してほしいとの案内状をいただきました。タイトルが実にユニークで、一体どんな討論が始まるのか、興味をそそられ参加いたしました。先生のお弟子さん達の視床下部や海馬などの組織発生に関する最新の分子機構の斬新な研究のお話から、前頭連合野における機能統合のメカニズム、精神分裂病の発生機序、最近、社会的に問題にされている青少年の情緒障害の脳内メカニズム、さらには音楽の脳内機構など極めて広範囲にわたるご講演があり、まさに川村先生らしい学際的な討論会を存分に楽しませていただきました。しかしながら、正直に申し上げますと、先生がこれから一体、何をめざされるのか、その時はよく分かりませんでした。

  その討論会の後しばらくして、先生から「この9月の横浜の日本神経科学・神経回路学会合同大会の時に、是非一度ゆっくりお話ししたい」とお電話をいただき、旅程を合わせて、駅前の和風旅館で一泊ご一緒させていただきました。その晩、横浜駅ビルのイタリアレストランに入って、食事をし始めると先生はおもむろに、「脳と精神は如何に出会うか」と言うタイトルの100ページを越える分厚い原稿を手渡され、これを今晩中に読んでコメントがほしいと仰いました。自分の部屋に帰って、小さな卓袱台のような机に原稿を広げ、必死で読み進んで行く内に、なるほど、あの討論会の狙いはこの原稿の仕上げにあるということを了解いたしました。その原稿は、脳科学から人間の音楽や美術などの精神活動の秘密に迫ろうとする、大胆で意欲的な構想で貫かれており、先生の学識の深さと芸術的素養の幅の広さ、そして人の精神活動の解明への限りない情熱に、改めて感服いたしました。先生はまた「最近、精神科の外来診療をやっているが、基礎研究とは違った格段に難しい心の問題に改めて直面している」と話しておられました。 一方で、やはり初心に戻って精神科医として絶えず、生きた人間に接して行く道を選ばれたのでしょう。

  これからの第二の人生を健やかに歩まれますことを、心よりお祈りいたしますとともに、教育者・研究者としての貴重な先輩、人生の先達として、これからもご指導下さいますよう、よろしくお願いいたします。

(大阪大学大学院医学系研究科情報生理学講座、教授)

 

 

川村光毅教授の退官に寄せて

小野武年

 

 川村教授のご退官の年を迎え、長年にわたり数々の業績を成し遂げられたことを思いますと、深い感慨を覚えます。その間、先生には学会や研究会の折りに私達の研究に対してのご意見や親身のご指導を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

 先生のご専門は神経解剖学、私は神経生理学や神経行動学を専攻しており、専門分野こそ異なっておりましたが、情動・記憶といった高次脳機能の解明という同じ目標に向かって、お互いに異なる方向から攻めていただけであって、「脳」に対する思い入れは同じであったかと思います。私が大脳辺縁系や視床下部のニューロン活動を記録し始めた1970年代の当時、先生は、すでにネコやサルで大脳皮質連合野間の神経結合や中脳から脳幹・脊髄への下行路投射と小脳求心路の研究を盛んにしておられたのを憶えております。その当時はそのような先生の高次神経系におけるご研究は存じておりましたが、最近まで、先生がご研究を始める動機となった真の目標については失念しておりました。

 私が先生のお話を直接伺ったのは、1997年頃に川村先生ご自身が組織された研究会「情動・記憶・意欲をいかにとらえるか」であったかと記憶しております。ご講演は、魚類、爬虫類、鳥類、および齧歯類から霊長類まで広範囲に及び、大脳皮質連合野間や大脳辺縁系の線維結合を比較解剖学的見地から分析し、言語による認知/認識の機構、扁桃体、海馬、視床下部、および前頭前野皮質を含む広範囲にわたる脳の構成やその機能と機構について、先生の仮説をとつとつと語りながら述べられていたのが印象的でありました。お話は、神経解剖学から、精神医学や哲学、さらには文学へと飛び、中心主題は "「心」とは何か" であったかと存じております。先生のご研究の切り口は、まさに1937年にPapezが神経結合からヒトの心を論じたあの偉大な論文を思い起こさせます。後で伺った話ですが、先生ご自身は若い頃に精神医学と神経解剖学をともに学び、さらに、哲学や文学にも造詣の深い碩学の士であることが分かり、至極当然と納得しております。また、最近研究をおやりになったメダカの群れを成す神経機構のお話も大変興味深く拝聴させて頂きました。今後も、是非、神経科学者としての情熱を持ち続けて頂き、解剖学会を含む多くの学会の推進役としてご活躍されることを心から期待しております。

 最後に、ご退官後も多忙な日々が続くことと存じますが、先生の益々のご健康とご発展をお祈り申し上げます。

(富山医科薬科大学・医学部・第二生理学・教授)

 

 

川村先生と私

小幡邦彦

 

 研究生活の始まりが川村先生はBrodal先生のもとでの小脳の解剖学、私は伊藤正男先生のもとでの小脳の生理学であるから共通項があったが、川村先生は最初、正式に精神科医の研修を積まれたのに対して、私はインターン時代に精神病院で当直のアルバイトをしただけであるので、神経科学のバックボーンがだいぶ違う。母校を出てから、川村先生は1カ所で助教授、3大学で教授を務められたのに対し、私は1カ所で助教授、2カ所での教授で終わりそうであるから、この点でも及ばない。川村先生は学会の討論などでも徹底的に粘られるのに対し、私はあきらめが早いのでそれだけ身に付く学問が浅いが、なにかうまが合うところがあるようで長い間、親しくおつき合いさせていただいた。

川村先生は解剖学者のイメージから外れて、進取の気性に富む方で、HRPやモノクローナル抗体の利用、細胞の脳内移植、ノックアウトマウスの利用など時代の先端技術を取り入れて重要な問題に切り込んでいかれた。先生が岩手医大時代に、群馬大にいた私が桐生のきのこ会館で脳の特定研究のワークショップのお世話をしたが、先生が開発されて間もないHRP標識についてご自身の方法と成果について講演されたのを覚えている。そのあと、私のところで神経組織に対するモノクローナル抗体がたくさんとれたので、盛岡から教室の若い方々を連れて前橋へ何度か来て泊まり込まれ、その抗体を使って共同実験をした。そのときのことでは焼き肉屋で食事したのを何故かはっきり覚えている。その後、研究会や科学研究費の会(幻のプロジェクトを含めて)ではよくご一緒し、私が今の生理研にきてからは海馬研究会とそれを辺縁系に発展させた情動研究会を数年続けたが、これはすべて先生のご指導、協力によるものであった。

川村先生は慶応大ご退職後も、脳・精神機能の解明を目指して思索を深められ、理研にもでかけて共同実験をしておられ、その若さと意欲に私は遠く及ばないと敬服している。2,3年前からとくに音楽と脳の関わりに興味を持たれて専門家とも議論しながら研究しておられるようである。実はわたしも密かに音楽の勉強をしているので(そのまとめを神経科学ニュース3月号に発表)、これからもライバルとしての縁が切れないようである。

(日本神経科学会長、岡崎国立共同研究機構生理学研究所、教授)

 

 

川村光毅さんに関する知見補遺

川村浩

 

単なる立ち話の域を超えて、光毅さんと知り合ったのは、当時在任された岩手医大に呼んで下さって、視交叉上核に関係する私の仕事の話をしたのが最初と思う。

 その後も脳組織の移植の話などでいろいろお話し合いをしたものである。

 しかし私にはどうも彼の時折示される、はなはだ人間的な面に親しみと興味を感じてきたところがある。なぜこんな持って回った言い方をするのか。実は私は、15年ほど前に英国のシンポジウムに招かれた。その折りに、ロンドン郊外Mill Hillにある国立医学研究所のG.aisman教授の所にもセミナーによばれて、研究室も見せてもらった。そのとき漫画スヌーピーの「チャーリーブラウン」を思わせる風貌の彼はちょっと照れながら、もう一人の川村から興味あるものをもらった、といって引き出しから一枚の絵を持ち出してきた。それは浮世絵のいわゆる春画であった。例の一物がはなはだ巨大化されて描かれたものである。明治の頃、日本に来た外国人の中には、日本人が本当にこのような巨大な逸物をもっているのか好奇心をもって観察を試みた者もいたらしい。

 35年以上前になるが米国留学の頃、日本に帰る産婦人科の先生がかなり大量のポルノグラフィーを蒐集されていて、それを日本に持って帰るといっておられた。税関は大丈夫ですか、と質問したところ、「いや専門の参考資料だといいますよ」と平然と答えられたので、なるほどと感心したことがあった。

 光毅さんの話も、解剖の専門家として、日本独特の芸術作品に興味が及んだとすれば、別に不思議はないのである。ただ本屋はこういうものをあえて展示はしていない。わいせつ物陳列のおそれがあるからである。それをあえて入手する勇気の無い私には、大いに感心するところがあった。そこで帰国後光毅さんに「あれはどうして手に入れたのか」と愚問を呈したところ、かれは悪戯っぽそうな笑顔を浮かべながら、本屋に「なにか面白いものない?」といえば出してくれますよ、とあっさりと答えられた。そこで無知な私はまたもやなるほどと感じ入った次第であった。

 ところで光毅さんの真骨頂はもち論こんな面ではない。解剖学の専門分野については部外者の私が立ち入る必要はないだろう。

 ただ、ロシア生理学の父といわれる、イワン・ミハイロヴィッチ・セーチェノフをご存じの方は少ないだろう。米国のマグーンは著書「Waking Brain」(2nd.ed.1964)の中で我々に先駆けて百年も前にセーチェノフが脳の脊髄反射抑制作用を発見したと称えている。セーチェノフは実は今から百五十年も前に「脳の反射」という革命的な本を書いている。この本は人間の精神活動も結局は脳の広義の反射である、と説いてパヴロフの条件反射の先駆けとなった本である。帝政ロシアの時代には神を恐れぬ不届きな本として禁書にさえなった。米国ではMIT Pressから英訳が出版されている。この本を光毅さんは訳出したいと語っておられた。私はこの本は脳の研究の古典として是非日本でも訳されるべきと考えている。しかし今のところこの出版をしてくれる本屋を思い当たらずご推薦できなかった。光毅さんのこうした面は退職記念会でも誰も語らなかったが、かれの多才でしかも優れた一面を示すと思うのであえてここに記したのである。

 光毅さんの今後のご健康とますますのご活躍を期待してこの拙文を捧げます。

(日本神経科学学会名誉会員、日本時間生物学会名誉会員)

 

 

川村光毅さんとの交友を想う

臺 弘

 

 私は精神科医として臨床に没入して暮らしてきた者ですが、「脳と心の相関」は常日頃現場の問題として頭から離れませんでした。そこで脳の基礎医学の方々には長くお付き合いを頂いてきました。昔、脳研究連絡協議会があった頃には、時実利彦(生理)、塚田裕三(化学)、白木博次(病理)の諸先生のお伴をして、全国を巡業して歩いたものです。解剖の小川鼎三先生は旗振り役でした。私が川村さんと巡り合うことができたのは、昭和586月(1983年)に、岩手医大精神科の50周年記念講演で「精神病は不自由病である」という話をした時でした。その時、川村さんは自由のように多義的な言葉を科学に持ち込まないほうが良いと注意されました。この教えは一時期には守っていましたが、その後は選択の自由という機能的な意味に限定して広く使わせていただくようになりました。

 川村さんは学問の原点を精神医学に持たれた方で、臨床家の話に興味を持ってよく聞いて下さいますので、以来二人はすっかりお馴染みになりました。あれこれの会合にも私を招いて啓発して下さいました。私にとっては大脳回路研究の泰斗が素人臭い質問にも答えて頂けるので、川村さんは文字どおり有り難い存在です。近頃、私が先生を煩わしている質問を例としてあげてみましょうか。

 

 この1年来、私は「瞬間意識」の異常という発想にこだわっています。分裂病者が知覚刺激を妄想的に受け取る、幻覚を体験するなどの現象は、誰にもある「ふと思い付く」仕方に異常が起こったのではないかと考えたのです。時間認識には単位があって、それは   50 msec 以内の出来事であるらしいことは、TVや映画のこま数や flicker fusion の閾値や色覚の micropattern の実験などの傍証から推論されますが、分裂病者の認知テストで明らかになった知覚関門・フィルター障害や逆向き抑制障害もこの単位時間内の出来事であることは注目すべきことです。これにはまだ誰も気付いていません。私は、分裂病者の描画テストでゲシュタルト構成障害が起こる時に、それもこの単位時間に起こるらしいことを知りました。そこで川村さんを質問攻めにすることになったのです。

 1次知覚中枢に興奮が起こってから、50 msec 内に伝播する脳部位の広がり地図を教えてください。1シナプス通過に必要な時間から、いくつのニュウロンを通過したかが判りますか。そこから幻覚や妄想の起こる部位が推測できるでしょうか。時間軸に沿った形態学としては、これまでの発生・形成過程だけでなく、微少時間分解能をもつハイテク機器を使って生理機能と結びつける手はありませんか、などと勝手なおしゃべりが出てくるのです。こういう話し相手に恵まれた幸せを心から感謝しております。

 

 川村さんは、ご執筆中の著書「脳と心の出会うところ」か「脳の奏でる美しい旋律」(仮題)の原稿の前半を見せて下さいましたが、早く出来上がったご本を拝見したいものです。ガリレオが、まだ正確な時計もなかった頃に、メロディーを口ずさんで落体実験の時間を測ったらしいという話なども思い出されます。リズムとハーモニーの脳機能とはどんなことでしょうか。音楽に乗って脳の回路系が動く有様に、想像を逞しくするだけでも楽しいことです。

 どうかいつまでもお元気に私たちを教えて下さいますように祈っております。

(坂本医院、新座、埼玉)

 

 

川村先生 御苦労様でした

西本 詮

 

 岡山大学解剖学第三講座は、神経解剖学ご専門の新見嘉兵衛教授が居られ、私が脳神経外科に居りましたので、ずっと親しくさせて頂いておりました。新見先生が定年ご退官の折り、自分の後任には、学内に適当な方が居られないので、岩手医大の川村光毅教授にお願いしたいと思うがどうだろうかと、ご相談がありました。川村先生は、私の尊敬する新見先生のご推薦であり、神経解剖学のご専門でもあるので、私は一も二もなく賛成し、教授会での選考も順調に進んで、昭和607月着任なさいました。

 川村先生は大変誠実・温厚な方で、親しみの持てる方でありました。私は従来、臨床医を目指す人の研究は、学位を取得する目的であっても、その臨床教室の中だけでやっていたのでは、臨床の忙しさに負けて、後々まで残るような研究はなかなか出来ないと思って居りましたので、教室員には脳に関する基礎研究に没頭させるために、外国とくに米国で勉強することを勧め、半数近くの人々が留学しております。ところが、折角海外で二年位じっくり専念しても、帰国すると設備とかテーマの関係や、臨床家としての本人の希望などにより、継続して行くことが困難になることが多く、困っておりました。

 そのような時に、神経移植の研究に力を入れて居られる川村先生が着任され、そのお人柄にふれた私は、是非ご指導を頂こうと、研究生活に入る予定の教室員の中から、伊達・中嶋の両君を選んで、お願いしました。

 私も時に先生の研究室に出向き、研究の進捗状況を見学させて貰いましたが、先生が家族的な雰囲気の中で、両君と一緒に熱心に実験して居られるのを見て、まことに羨ましく感じました。両君はともにラットの同種及び異種神経移植の免疫反応につき、Exp. Brain Res. 及び Brain Res. にそれぞれ論文を書き、学位を取得しました。

 ところが、先生はその後間もなく慶応大学からお声がかかり、昭和633月末、岡山大学を去って行かれました。私共にとっては、まさに青天の霹靂であったのですが、先生の抜群の資質が評価されたのと、お里が茨城県土浦であることなどから、まことにやむを得ない残念なことでありました。それでも先生は後任に千葉大学の後輩の徳永教授を推薦され、神経解剖学が引き継がれ、脳外科からも引き続いて、医局員を研究生として派遣することが出来たのは嬉しいことであります。

 伊達・中嶋両君とも、その後岡大脳外教室に居り、今は正講師を勤めていますが、伊達君は二年後には、現在の大本教授ご退官のあと、大学院の後任教授に就任する予定となって居ります。

 川村先生の教室に、私が派遣した両君が、このように立派に成長されたのは、先生の親身のご指導の賜物でありますが、私も伯楽として鼻が高く、また有難く思っている次第です。

 なお、私事に亙って恐縮ですが、私の息子が慶応大学の学生時代に、先生の教室に出入りさせていただき、論文に名前までつけて下さったことがありました。先生がそのように心の暖かい方であることを、私は大変嬉しく思って居ります。先生がこれからもお元気で、益々ご活躍なさることを、心から祈って居ります。

(岡山大学名誉教授・岡山療護センター顧問)

 

 

神経移植の世界に導いてくださった川村光毅先生

伊達 勲

 

 私が川村光毅先生の御指導を受けるようになったのは、先生が岡山大学医学部解剖学教室に赴任されてしばらくたった、昭和611月のことでした。私は、3年間の脳神経外科の臨床トレーニングを国立岡山病院で終了し、それから数年は脳神経外科関係の基礎研究をすることになっていました。当時の脳神経外科の教授であった西本詮先生から、新しい分野としての神経移植を今後脳神経外科の領域にも取り入れていくことができるよう、川村光毅教授の元でがんばって研究をしなさい、と励まされ、脳神経外科同期入局の中嶋裕之先生とともに、2年数ヶ月の間、川村光毅先生には大変お世話になりました。

 その当時、欧米ではパーキンソン病モデルのラットに対する胎仔黒質細胞の脳内移植が機能改善に効果があるということが証明され、まさにこれから臨床応用がはじまろうという機運が高まっていた頃でした。私は川村先生の御指導の元、同種異系間のラットの脳内細胞移植時に免疫反応がどのように生じるかについて、主要組織適合抗原などの関係を中心に研究し、その論文で後に医学博士号をいただきました。私が先生の指導をうけて最も感激したのは、先生の卓越した英語力でした。先生の英語は、みなさんもご存じのように、見事なQueen's Englishで、私たちの世代のように主にAmerican Englishを中学・高校・大学を通じて習ってきたものにとっては、とても新鮮に、それでいて重みをもって感じたものでした。先生は、医学研究における英語の重要性をいつも強調されていて、私は、特に英語に興味をもっていたものですから、大変影響をうけ、その後かなり力をいれて勉強しました。私は、昭和63年から平成2年の間、神経移植の研究で米国留学をしましたが、帰国後、脳神経外科学会同時通訳団の一人として活動することになりましたのも、川村先生の元で研究をさせていただいたことが大きなきっかけとなっています。

 川村先生の論文作成時の指導は、誠に情熱的で、それこそ朝から夜まで、机の両側に対座して、ああでもない、こうでもないと論文を練り上げていった日が昨日のように思い出されます。また、学会発表時には、充分な準備をして、フリーハンドで語りかけるように発表することを、強く指導され、私は、今でも学会発表時には、先生の教えを忠実に守って発表を心がけています。

 私が、直接川村先生の御指導を受けたのは、2年数ヶ月でしたが、先生はその後、慶応大学に移られてからも、私が神経移植の研究を続けていく上でいろいろなサポートをしてくださいました。たとえば、慶応大学で神経セミナーがあったときには、講演の機会をいただきましたし、先生が会長として主催された神経組織の成長・再生・移植研究会では、座長の機会を与えてくださいました。その他にも、いろいろな雑誌で、神経の再生や移植を特集した際には、しばしば執筆の機会を与えていただき、今日、私が神経移植の世界で活動をつづけているのは、川村先生のおかげと、いつも感謝申し上げている次第です。

 学会でお会いした際などにはいつもやさしく言葉をかけてくださり、励ましてくださいました。私は、今後も神経の移植や再生の研究を続けて行きますが、川村先生から御指導いただいた日々を忘れることなく、努力していきたいと思います。川村先生にはいつまでもお元気で、今まで通り、私たちを励まし、御指導いただきたいと存じます。大変ありがとうございました。

(岡山大学医学部脳神経外科)

 

川村先生の思い出

中嶋裕之

 

  私が初めて川村先生にお目にかかったのは昭和60年の秋か冬だったように思います。3年間の臨床研修を終え大学の研究室に戻る際、岡山大学脳神経外科の教授であった西本詮先生から、「この度神経解剖に川村先生が来られたので神経移植の研究を始めようと思う」という話を伺い、同期の伊達先生と一緒に昭和611月から川村先生の下にお世話になることになった訳です。移植をやりたいと最初から思っていた訳ではありませんでしたが、前年アメリカの脳神経外科コングレスに出席した際神経移植の話を聞き、興味を持っていたのが一つの理由でした。

 

  川村先生は、英語が堪能で、タバコをくゆらしながらShakespeareの原書を読む、朝の苦手な夜型の「知識人」という印象で、それまでどちらかというと口より手の早く、仕事が終わればさっさと帰る脳外科医の中で生活してきた私にとっては、まったく新しいタイプの先生でした。当たり前のことですが、標本の作り方から何もわからず、ちょうど学生時代からの友人であった小野勝彦先生に手取り足取り教えてもらいましたが、最初のうちは研究生活のペースがつかめず少々ストレスの多い日々でした。神経移植の手技は川村先生に直接、あるいは岩手医大解剖学教室の先生方に教えていただきました。まだ雪の残る盛岡でいろいろお世話になったのは楽しい思い出です。神経移植のみならず、神経培養、電顕などいろいろなことを勉強させていただきましたが、川村先生は神経細胞の移植による神経ネットワークの再構築・脳の再生・発生のメカニズムのことなどいつも熱心に語られ、メカニズムより直接的な効果に目を奪われがちな私は熱くご自分の研究の夢を語られる先生に「やっぱり基礎の先生は違う」といつも感心しておりました。

  一応データが出て、論文に仕上げる時には本当にお世話になりました。マンツーマンで何時間も、何回も文意の確認、文章の推敲などを行い、論文を指導するというのはこういう風にやるのか、ということを教わりました。何度も書き直した原稿は全部今でも持っています。最後のほうは川村先生が慶応大学へ移られることが決まった慌しい時期でしたが、時間をやり繰りして付き合ってくださいました。あまりいい弟子ではなかったと思いますが、先生の面倒見の良さに感謝しております。

  先生は岡山大学には3年程と短期間でしたが、先生に種をまいていただいたおかげで、その後当科でも伊達先生が中心になって研究を続けております。現在私は神経移植から離れて一脳神経外科臨床医として生活していますが、21世紀になり基礎研究が臨床にfeedbackされれば素晴らしいと思いますし、いろいろな新知見を聞くたび「脳」はやっぱり面白いなと思います。

  川村先生のご退官の知らせを聞き、10年以上前の研究生活が懐かしく思い出されました。先生の今後のご健康とますますのご活躍をお祈りいたします。

(岡山大学脳神経外科)

 

 

川村先生の岡山時代

小野勝彦

 

 川村先生は、昭和60年に岡山大学医学部第3解剖学講座の教授として赴任されました。岡山へ来られたころ、川村先生は神経組織の移植を研究テーマとしておられました。私は、当時教室では一番下っ端の助手であったのと、移植の実験に興味をそそられたのとで、それまでのtract tracingの実験から研究の方向転換をしました。

 岡山では、先生は移植や組織培養など新たな実験を始めるために、設備を整えることから始めなければなりませんでした。そのお手伝いをする過程で、培養実験・電顕観察・免疫組織化学染色などの手技を習得することができました。これらは、現在ルーチンに使っているものばかりです。また、実験方法や試薬など消耗品についての情報をあちこちの教室に聞きに行って、学内外のいろいろな先生と知りあいになることができました。川村先生の下にいる間に、ずいぶんずうずうしくなったという自覚があり、これは、実験手技などの習得とは別の意味の、大きな収穫であると思っています。

 先生が岡山大学に教授としておられたのは、実質2年半です。その間に、先生(とその下の者)は、新たな実験系を立ち上げ、失敗を繰り返し、そしてなにがしかの結果と10報近いoriginal paperや総説を出されました。下にいた者としてはけっこう忙しい毎日でした。もちろん平和な日ばかりではなく、何度も怒鳴られ怒られ、ブルーな日もありました。大学院生としていっしょに実験をしていた脳外科の伊達先生、中嶋先生には「たった14年の辛抱じゃが〜〜〜(典型的岡山弁)」と、なぐさめられたものです。もっとも、これもこやしとなったのか、それまでよりは図太くなったような気もします。その後、私がアメリカのRutishauser博士のもとに留学する際には、準備のためのやり取りの手紙の英語に関して、川村先生にはずいぶんとお世話になりました。

 こうやって考えてみると、研究テーマも含めて、現在の私の何分の1かは川村先生のおかげがあることは否定できず、まずは感謝感謝です。

 岡山時代の川村先生には、とりたてて面白いエピソードといったものはありません。しいてあげれば:@中嶋、伊達の両先生、川村先生それに私と4人で名古屋へ行った際に、川村先生は中央分離帯のある片側2車線の大きな道路で信号のないところを渡ろうと言われました。我々3人がいやがると、一人でスタスタと渡り始めました。先生が中央分離帯にさしかかった頃には、遠くの信号が変わっていずれの車線の車も多くなり、先生は中央分離帯で進退窮まってしまいました。私たちは、離れたところにある横断歩道を渡り、ずっと待っていると、ムス〜〜〜〜っとした顔の先生が追いついてこられました。一部始終をみていたわれわれは、笑いをかみ殺すのが大変。A福岡で開かれた研究会の懇親会場に川村先生は少し遅れて到着されました。九州大学の人からの伝聞ですが、先生は私(に似た者)が入った中洲のお店が懇親会場と思い、あとに続いて入店するといきなり高額な料金を示され、間違いに気づいてあわてて出てこられたそうです。料金から推察すると風俗のお店だったようです。もちろん、私はそんなお店に行っていないと強く否定。B論文をまとめるために慶応大学におじゃました際(‘8812月)に、白木の箱(もちろん中身有り)のたくさんおいてある組織実習室で夜一人で仮眠をとらされ、びびりまくり。これは慶応大学でのエピソードに属するでしょう。

(島根医科大学解剖学講座第2、助教授) 

 

 

 

 川村光毅先生のご退職に寄せて

――ささやかな岡山駅の思い出――

佐野豊

 

 日本で神経解剖学が盛んに研究され始めたのは1950年代を迎えてからである。いうまでもなく研究の主流は神経回路の追究であり、Nauta法が考案された1950年代後半からはこの手技を用いた研究が、HRPによる標識法が考案された1970年代後半からはこの手技を用いた研究が学会発表の主流になった。神経分泌の研究からスタートした私は、神経の研究者としても、内分泌の研究者としても、中途半端な存在であって、神経解剖学の主流からはずれていた。私は学会のたびごとに、神経回路の研究者たちの発表を退屈しながら聞いていた。なぜなら多くの発表が、「Aを破壊するとBに変性線維が認められた」、「AHRPを注入するとBに標識物質が観察された」といった現象の繰り返しで、何の目的で研究し、どんな結果が期待できるのか、私には理解できないことが多かったからである。こうした中で川村先生の発表はいつも輝いていて、いつも私は目を覚まして拝聴した。

 こんな私に、当時、岡山大学におられた川村教授から特別講義の依頼が寄せられた。学会の主流におられた先生からの依頼は、私にとってはいたって光栄であった。それまで一度も個人的に話をしたことのない先生と接することができるのも大きな楽しみでもあった。

特別講義に招かれると、講義のあとに夕食の接待を受けたり、宿泊の世話までしていただくことがある。私はそうした過剰なもてなしで、迷惑をかけることが嫌いで、川村先生にはあらかじめその旨を伝えておいた。先生は快くこの願いを了解してくださり、講義のあと神経研究に携わっておられる方たちや学生を交えてしばらく懇談したあと私を解放してくださり、岡山駅まで送っていただいた。切符を買った私に、先生は少し話がしたいと言われたので、それではコーヒーでもということになり、駅の食堂に入った。すると先生は早速、持参された大きなカバンからスライドファイルを取り出され、小脳の移植実験の話を切り出された。私たちは時を忘れて喋り、私は先生の研究に対する情熱にすっかり感動していた。私は先生の研究が一層発展することを願い、遅くなった新幹線の列車に乗った。私にとってそれは爽やかなよき思い出になった。

 1990年に停年退職した私は、神経科学の著書の執筆に取り掛かった。小脳について本格的に研究したことのない私は、川村先生の業績を読み返し、知識の空白を埋めた。研究生活からすっかり離れ、現役の研究者との接触も少なくなった私に、一昨年 川村先生から再びお声が掛かり、慶応大学のニューロサイエンス研究会で講演することになった。岡山以来の久しぶりの再会であった。先生は講演を終えた私に、真っ先に駅のコーヒーショップでの思い出についてにこやかに話された。私は、先生にとってもあの夜のささやかな懇談が楽しい記憶になっていることを知ってうれしく思った。

 研究者の間には相互に新しい知識を交換することによって芽生える友情がある。私は、友人の一人として、川村先生が大学を去られても、学問への情熱の火を絶やさずもち続けられ、健康で、神経科学の発展に一層貢献してくださることを心から念じている。

(京都府立医科大学名誉教授)

 

 

 神経移植の先生

上田秀一

 

私が川村先生のお名前を知ったのは、先生が岩手医大におられたころで、先生の長い研究生活のなかでは、神経細胞の移植を始められてからでした。J.C.N.等に発表された数多くの詳細な神経回路解析のお仕事は、後になってから知りました。

80年代当時、私は京都府立医科大学にいて、何とかスウェーデンの研究グループのようにセロトニンニューロンを移植できないかと考え、「生体の科学」など多くの雑誌に神経細胞の移植について書かれていた川村先生の総説を読み、手技をまねて毎夜遅くまでネズミ相手に格闘しておりました。格闘という表現はいささか大げさかもしれませんが、駆け出しの解剖学教室の助手がケージから逃がしたネズミを追いかけている様はまさに格闘であります。 「何でうまくいかないのだろう?!!!」と溜息をもらす毎日、川村先生に手紙を出して直接お聞きしようとも考えておりました。

外国ではBjorklundを中心にした神経移植グループが、パーキンソン病モデル動物に対してドーパミンニューロンを、アルツハイマー病モデル動物に対してはアセチルコリンニューロンを移植していました。また、ロチェスターのグループは先天的尿崩症ラットにバゾプッレッシンニューロンを移植し、臨床応用を目指した基礎実験が多くの雑誌に発表されていました。しかしながら、神経回路形成や神経細胞の移動といった神経発生の諸問題を移植を用いて解析する研究は少なく、川村先生のグループが中心に発表されていました。

先生が岡山大学へ移られてから、私のボスであった佐野名誉教授が岡山大学へセミナーでよばれ講演した後、成功したてのセロトニンニューロンの移植結果のデーターを川村先生に非常に興味をもっていただいたとの話を聞き、大変感動したことを記憶しております。また、1990年に岐阜県鳥羽市で開催された第1回の神経移植と修復のサマーセミナーでは私自身がセロトニンニューロンの脳内移植というタイトルで発表させていただきました。このセミナーではソフトボール大会で汗を流し、ワインを飲みながらの討論と楽しい時間を過ごさせていただいたのと、おそらく初めて川村先生と親しくお話しをさせていただきました。当時ご講演された先生方がみな現在の日本の神経細胞移植研究の中心にいることから、すごいセミナーに参加させていただいたと感謝しております。

慶應大学に移られてからも先生の新しいものへの探求心は益々さかんで、御自身で分子生物学の手法を身につけるべく講習会等へ参加されているとお聞きしており、日本の研究者では数少ない「雑用」という魅惑に惑わされない先生であると尊敬しております。

川村先生が今後も益々ご健勝で、神経科学の重鎮としてご活躍されますよう心よりお祈り申し上げます。

(獨協医科大学解剖学、教授)

 

  

川村先生の「トルネード効果」

石 龍徳

 

 川村光毅先生が退任されてから、私の周りでは、「川村先生は、退任後に、なぜあんなに元気なのだろう?」という意見が、あちこちで聞かれた。実際、先生の最近の研究活動を拝見していると、そのアクティビティは、益々上り調子、といった印象を受ける。そして、川村先生の周りにいると、その勢いに巻き込まれてしまうのである。これは一種の「トルネード効果」とも呼ぶべきもので、いろいろと影響を受けてグルグル回されている内に、自分の研究の幅が広がるとともに、上昇していくのである。幸運にも、私もそのトルネードに巻き込まれた一人である。

 私は、自分でコツコツと研究をしてきたのだが、ある程度の年齢になると、それだけでは、それ以上に研究を伸ばすのが難しいことに気がついた。やはり、自分の研究を理解し、支えてくれる大親分が必要なのである。それ無しでは、世の中に埋もれてしまう。この点で、川村先生は、いろいろな機会に、その「トルネード効果」によって、私をかなり低い位置から、見晴らしの良い世界へ導いてくれた大恩師である。

 川村先生に初めてお会いしたのは、川村先生が慶応大学医学部解剖学教室の教授として赴任されてからである。慶応大学医学部解剖学教室・生理学教室には、私と同じ神経発生学を研究する同年代の研究者が何人かいたせいで、ちょくちょく解剖学教室に出入りしていた。この同年代の仲間のお蔭で、川村先生と面識ができた。その結果、慶応大学で行われる大小のセミナーやシンポジウムに参加させていただいた。その折には、川村先生の直接の弟子ではないのに、いつも温かく迎えてくださったことをここに深く感謝したい。

 最近、川村先生は、脳の高次構造と情動の関係に関心を寄せられているが、この分野でもいろいろとお世話になっている。ある時、川村先生から電話があり、順天堂大学医学部生理学教室でサルの視覚の高次情報処理を研究されている坂上雅道先生のお仕事について聞かれた。私は順天堂大学にいるにも関わらず、坂上先生とは、それまであまり面識がなかったので、その時は、あまりちゃんとしたお話ができなかった。その後、川村先生が順天堂大学でセミナーをされたり、退任記念のシンポジウムで坂上先生と私が講演をしたりする内に、坂上先生とすっかり仲良くなってしまった。同じ大学の同じ建物にいるにもかかわらず、疎遠だった坂上先生と、川村先生の「トルネード効果」ですっかり仲良くなってしまったのである。これが切っ掛けとなって、その後順天堂大学の生理学教室(彦坂教授)で、セミナーをする機会を得た。これは画期なことであった。なぜなら、順天堂大学医学部で私が自分の研究についてセミナーをしたのは、このときが初めてだったからである。

 今現在、川村先生としばしばお会いする場所は、領域探索「情と意」の会議である。この会議には数多くの著名な先生が参加されているが、このような会議に出る切っ掛けを与えてくださったのも、川村先生である。この会議では、様々な分野(解剖学・生理学・精神医学・心理学・分子生物学)の研究者と議論ができ、また自分の研究も発表することができる。さらに、自分の研究と様々な分野の研究とのつながりを考える機会にもなり、結果として、自分の研究の幅を広げることができた。このような機会は、川村先生がいなかったら、得られなかったであろう。

 私と同様にこの「トルネード効果」の恩恵を受けて、上昇気流に乗った研究者も多いと思う。川村先生には、今後も、心地よい上昇気流を生み出すような「トルネード効果」を発揮しつつ研究活動を続けられることを期待したい。

(順天堂大学医学部解剖学第二教室)

 

 

川村先生と21世紀

鈴江俊彦

 

 武士のような厳しい風格のある先生というのが、最初に川村先生にお会いしたときの私の第一印象でした。しかし、お話しを始めるとすぐに、先生の飾らない暖かみのあるお人柄が感じられました。今でも、不勉強で先生の解剖学への深い御造詣の恩恵にあまり与れず、また川村先生のお人柄を熟知しているとは到底言えない私が申し上げるのは不適切かも知れませんが、川村先生が脳について、神経回路について語られるときに、私は、先生のそれらの対象に対する愛を感じます。これは先生の学問に対する愛情、あるいは学問を楽しんでいられることと深く関係しているのかも知れません。そのことといわば同様に、人と接するときの先生の態度にも、先生の愛と優しさが感じられるように思われます。愛情を持って学問に打ち込む武士というのが、私の川村先生についての印象です。

  武士といっても、古いものに固執しているのではなく、新しいものについても寛容に理解を示され、良いものは積極的に取り入れられるのが先生の特徴のように思われます。先生が研究されている哺乳類の神経系の発生に私も興味を持っていることと、先生の優しさと寛容さに惹かれたことがきっかけとなって、私どもの大学のあるお茶の水から、信濃町の川村先生の元へ最初にお邪魔させていただくようになってからもう5年以上にもなります。生体のダイナミックな発生をリアルタイムに解明したいという私の新しい、やや無謀な夢に御理解を戴きました先生から解剖学、発生学の深い知識とお知恵を拝借して研究を進めるという計画は、まだ立ち上がったばかりの状態ですが、先生の学問に対するまっすぐな愛情の恩恵を、私と私の研究にいつも戴いているように思っております。

 ゲノムプロジェクトの完成が間近になりfunctional genomicsとその応用へと時代は流れつつあるようです。しかし新しい時代に向かってどのように船を漕いでいったらよいのかは、あまり明瞭でないように思われます。私も先生に倣って、対象に愛情を持ち、対象をしっかり見つめつつ自らの学問の武士道を切り開いていきたいと存じます。

   新しい時代、21世紀といっても、真実を求める学問の武士道は不変であると思います。川村先生には、これからもますます、非才な私どもに厳しく、また時に優しく御指導下さいますようお願い申し上げます。

(東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科、システム神経機能学、医学部第一生理)

 

 

川村光毅教授に感謝する

塚田裕三

 

 川村光毅先生には慶応大医学部では定年までお務めを頂き誠に有り難う御座いました。

 私は先生をお招きするのに一役買わせて頂きましたが、私と入れ替わりのご着任となりご一緒に勤務する事はありませんでした。しかし、私も脳研究者の一人として、先生のユニークな神経解剖学者としてのご高名はかねがね承知致しておりました。脳の微細構造や繊維連絡から精神機能の解明に迫ろうとされる意欲には並々ならぬものを感じておりました。そしてまた多彩な文学的な才能をお持ちで何時も軽妙なお話ぶりに感服致しておりました。

 先生は国立大学の医学部を卒業されましたが、その後、私立大学、国立大学と各所で教育、研究に従事され、常に新技術を取り入れながら研究を進めるという経験豊かな人体解剖学者、とりわけ数少ない貴重な神経解剖学者であると承知致しております。研究面では神経組織の生体移植の研究を早くから手がけられ、形態学的に手堅い研究の積み重ねで高い評価を受けて来られました。この分野のご研究では私との接点もあり、学会運営などでいろいろお世話になりました。先生の幅の広い視野からのご発言は印象深いものでした。

 慶応大にご着任以来、後継者の少ない解剖学教室でいろいろなご苦労がおありであつたことと推察致しますが、慶応義塾大学として先生のご尽力にどれほど報い得たか心配です。兎に角、慶応大の解剖学教室を教育、研究面で支えて頂いたことに感謝致したい気持ちで一杯です。

 先生はまだまだ研究への旺盛な意欲をお持ちですのでご自身の研究の更なる発展と後進のためのご指導を今後もお願い致したいと存じます。先生のご健勝と益々のご発展を祈念申し上げます。

(慶応義塾大学名誉教授)

 

 

川村光毅先生に感謝の言葉

植村慶一

 

川村光毅先生、長い間、研究に教育にご苦労様でした。

 川村先生と私は、同年代であること、研究分野が神経解剖学と神経化学で、広い意味で神経科学に含まれ、共通の学会や研究テーマを持っていたこと、お互いの研究室が同じ建物の上下に近接して位置していたことなど、接点が多く、大変親しくお付き合いさせて頂きました。慶應大学へ着任した時期は川村先生の方が一年早く、20003月に二人同時に定年になりました。

 川村先生は、医学部卒業後、精神科で臨床を経験されただけあって、神経系の高次機能発現の解剖学的基礎の解明に強い興味をもたれ、一貫してこのラインにそって、大脳連合野の線維連絡の研究、神経組織の移植と再生の研究、神経発生の研究、情動行動の解剖学的基礎の研究などを推進されました。神経線維のラベリング、酵素抗体染色法、神経移植法の利用、ノックアウトマウスの解析など、その時代の最先端の技術を駆使して、すばらしい成果をあげてこられました。何時お会いしても、ご自分の御研究やそれに関連したとてもホットなニュースをもっておられ、楽しくデスカッシヨンさせて頂きました。その都度、川村先生の学識の深さ、学問に対する情熱と先見性に深い感銘を受けました。

 在任中に二人で協力して、学内の神経科学関係の幾つかの教室と協同して、慶應ニューロサイエンス研究会をたちあげ、学内外より講師を依頼して、年2回講演会を開いたこと、坂口基金の援助を受けて「神経発生」の国際シンポジュムを開催し、講演をまとめたモノグラフ:Neural Development, Springer-Verlag Tokyo, 1999 を纏めたこと、金子教授を加えた3人で「脳と神経、分子神経生物科学入門」(共立出版、1999)を編集したこと、神経接着蛋白質の抗体およびノックアウトマウスを用いて、神経発生に関する共同研究を発展させたことなどが思い出として残っています。

 今後は、川村先生には、悠々自適を楽しみながら、健康に気を付け、ご活躍頂きたいと願っています。

(慶應義塾大学名誉教授 埼玉医大客員教授)

 

 

川村光毅教授との御縁

保崎秀夫

 

 もう御定年ということでびっくりしています。慶應に来られてからは、しばしばお話をして、いろいろご教示を賜わることが多かったのですが、教授の精神科医の時代にはお逢いする機会はなく、たまたま当時の植村恭夫医学部長が岡山大学に慶応への移籍をお願いにゆく際に岡山大学で教授とお逢いした際の印象をお聞きしたことと、東大の秋元教授からいい奴がそちらにゆくぞといわれて、神経解剖学の権威であるとともに精神科医らしい一面をもたれた方ということを知り、直接お逢いするようになってからは精神医学、神経心理学、神経解剖学を統合した難しいお話をお聞きして勉強させていただいたと同時に、しばしば難解な質問をいただき返答に窮することが多く、集会で教授の姿を拝見すると、こっそり逃げていたという記憶があります。

 御夫人もすばらしい精神科医であり、今後御専門以外に精神医学の領域でもますます御元気にご活躍されることを願っております。

(慶応大学精神神経医学、名誉教授)

 

 

川村 光毅先生

鹿島 晴雄

 

 川村先生には本当にお世話になりました。心より御礼を申し上げます。

 先生の教授室には何度おうかがいしたことでしょうか。脳と心のことで何か思いついたり、少しまとめたりすると、お部屋をおたずねするというか押しかけて、勝手な考えを聞いていただきました。公務に研究に大変にお忙しいにもかかわらず、いつも笑顔でゆっくりと聞いて下さり、貴重なご意見やご示唆をいただきました。本当にありがとうございました。

 失礼をもかえりみず、何度もお部屋にうかがったのは、先生の気さくで暖かいお人柄に甘えてのことであり、また先生が精神科医でもあられ、さらにはパヴロフをはじめとするロシアの生理学、心理学に精通されておられることから、私の戯言を一番理解して下さる先生であると確信してのことでした。果たして先生には本当に沢山の貴重なご指摘、ご示唆をいただきました。一時間以上もお付き合い下さったことも何度もありました。本当に勉強になりました。ありがとうございました。ルリヤというロシアの神経心理学者の考えに興味を持っていた私は、神経解剖学、神経科学の大家を前にして、脳機能障害は抑制過程の障害から二型に分けられる等といったことを滔々と述べたりもし、今更ながら汗顔の至りです。                                                 

 先生には研究室の後輩の学位論文でも、懇切なご指導をいただきました。重ねて御礼を申し上げます。先生にいつもご指摘いただきました、高次脳機能を心理学的構造だけでなく、常に機能局在との関連で考える視点を忘れずに、研究を続けていきたく思っております。また先生からお貸しいただいたセチェノフの「精神の反射」の勉強も宿題として残っています。勉強が少し進みましたら、また進まなくなりましたら、以前のように押しかけさせていただきます。

先生ならびにご家族の皆様のますます末永きご健勝とご多幸をお祈り申し上げますとともに、今後ともご指導のほど何卒よろしくお願い申し上げます。

(慶應義塾大学医学部精神神経科学教室、教授)

 

 

川村光毅先生へのお礼と期待

伊豫雅臣

 

川村光毅先生、ご健勝にての慶応大学医学部解剖学講座教授ご退官、おめでとうございます。

私にとって川村先生は千葉大学医学部の先輩であるというだけではなく、精神科においても同門の大先輩であります。

私は川村先生と十数年程前に初めてゆっくりとお話をする機会を持たせていただきました。そのときの印象は今でもはっきりと憶えております。川村先生は誰も疑うことなく中枢解剖、発生の世界的権威であります。しかし初めてお会いしたときには、申し訳ございませんが、私は存じ上げませんでした。というより、まだ研究も駆け出しの私にいろいろとご質問をなされ、また大変気さくにお話をしてくださいました。当時私は精神病とドパミン受容体、セロトニン受容体との関係に興味を持っておりました。いろいろお尋ねくださるので、私も気持ちよく(今から考えれば大変ずうずうしくも)私の仮説をお話してしまいました。当然その仮説はまだ仮説のレベルではなく空想か妄想に近く、実験的検証はほとんど得られていないものでした。今考えると赤面してしまいます。それにも関わらず川村先生はメモを取りながら、次から次へとご質問されるのでした。一方で川村先生は扁桃体について図を書きながらいろいろご教授くださいました。そのような話を先輩であり当時の私の上司であった福井進先生にお話しましたところ、解剖学の大家とのことでした。大変気さくにお話くださるので油断して余計なことまで話してしまったな、と後悔しても後の祭りでした。同時に、権威となられても若手に気さくにお話くださるお人柄と飽くなき研究への情熱には大変敬服いたしました。

その後、川村先生は脳の研究を行っている多分野の先生方を一同に会する情動意欲に関する研究会を主催され、私も末席に加えていただきました。精神科ご出身の先生ですので、私ども精神科の後輩にも脳研究へもっと真摯に取り組むようにとの叱咤とともに、取り組めるよう機会を与えてくださったのだと思います。大変勉強になり、改めて脳研究への情熱が湧いてきました。心から感謝いたしております。

川村先生から精神科医に戻る、とのお話を伺いました。川村先生が以前に精神科医をなされていた頃と比較して、精神疾患への生物学的な観点からの理解が進み、また治療法も発展してきていると言えるでしょう。それでもその理解の進歩や発展は、おそらく先生が予測していたものよりは歩みが遅いかもしれません。しかし、いくつかの疾患では扁桃体を含む神経回路網がその病態発現に重要な役割を果たすことが示唆されてきておりますし、今後さらに先生が残してこられている成果が精神疾患へのアプローチに重要な役割を担ってくるものと思います。今後は精神科臨床という視点も加えていただき、先生のご研究がますます発展することをお祈りいたします。

今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。

(千葉大学医学部精神医学教室、教授)

 

 

小川 元之

 

私が、川村先生とお会いしたのは、医学部専門課程1年の秋から始まった神経解剖の授業でした。川村先生の巧みな話術で進められた神経解剖の講義と実習を受け、私は、すっかり神経生物学の虜になりました。何とか授業の内容を理解しようと思い、授業中に川村先生が紹介されたA.Brodal著「Neurological Anatomy in relation to clinical medicine」の原書を購入してしまいました。十分な専門知識がない私は、当然のように分厚いその本を持て余しましたが、結局下宿のインテリアとして飾ることにしました。約10年たった今では、この本も講義や実習の準備のために重宝され、ようやく本としての本来の機能を果たすようになりました。このように神経科学に興味を持った私は、医学部専門課程2年の約4ヶ月の自主学習(慶應義塾大学医学部で行われる学生のための自由選択プログラム)期間を、川村先生の研究室で過ごさせて頂きました。川村研究室では電子顕微鏡を用いた小脳プルキンエ細胞のシナプス連絡についての研究をさせていただきました。4ヶ月という短期間でしたが、まったく無知な学生である私に、動物の扱い方、電顕用試料の作成、そして研究報告書作りまで、実験医学の基礎となることを、お忙しい中、川村先生は色々と丁寧にご指導くださいました。そのときに垣間見た実験、研究の面白さは、学生時代ずっと忘れることはなく、卒業と同時に解剖学教室にお世話になることにしました。解剖学教室では、相磯研究室に入室しましたが、講座間の風通しの非常によい教室でしたので、神経科学についてわからないことがあれば、川村先生はいつでも、気軽にお話くださいました。特に私が、川村先生にお世話になりましたのは、解剖学会奨励賞の受賞と学位取得に当たってでした。解剖学会奨励賞は、私のような駆け出しにとって、全く手の届かない賞であると思っておりました。そんな私に、奨励賞に応募してみてはどうかとお話くださいました。また応募書類作成に当たっても、細かい点まで色々とアドバイスいただき、幸運にも、奨励賞を受賞することができました。このように学会から賞を頂きましたことは、その後の研究生活において本当に励みになるものでした。また、学位審査にあたり、川村先生は、これまでの私の研究データーに、神経系の実験結果を付け加えることを提案くださっただけでなく、審査当日まで実験結果の検討を一緒にしてくださいました。そのお蔭をもちまして、無事博士の学位を授与して頂くことができました。

私は、このようにさまざまに川村先生にお世話になって、これまで研究生活を送ってくることができました。川村先生は大学を離れられた後も、研究所にてご研究を継続なさるということをお聞きしております。川村先生が、解剖学教室にいらしたときより、もちろん距離的には遠くなりますが、今後ともこれまで以上にご指導ご鞭撻を賜りたいと思います。先生のご研究の更なるご発展をお祈り申し上げます。川村先生、本当にありがとうごさいました。

(慶應義塾大学解剖学教室)

 

 

 馬場存

 

 私が川村先生のお世話になりましたことは数多くございますが、特に印象深いのは、主に以下の二つの期間のご指導です。

 一つは、学生時代の神経解剖学の講義です。私はさほど優秀な学生ではなかったので、講義を伺ってもすぐには理解できなかったのが正直なところですが、脳の伝導路の講義では、川村先生は、膨大で複雑なネットワークの図を、ひとつひとつ解説されながら黒板上に次々と展開されて、それが瞬く間に広がってゆき、黒板の隅から隅まで神経伝導路の図で一杯になったことがありました。ノートを取りながら、先生の頭の中には、無限の知識が入っていらっしゃるのだろうか?と驚いた記憶があります(このような本質的でないところで驚嘆しておりました。申し訳ございません)。

 もう一つは、学部専門課程2年生(現在の4年生)時の、自主学習のカリキュラムです。この間、私は、川村先生の下に「神経解剖学と神経生物学」というテーマで数人の学生が集まり、それぞれ興味のある分野を自主的に学習・研究し発表するというコースに参加させていただきました。私は、川村先生に、甘利俊一先生の「神経回路網の数理」という本をご紹介いただき、勉強させていただきました。

 私は高校生の時から理数系が好きで、医学部の、膨大な知識の暗記を必要とする科目(本質はそうではないと思いますが、優秀でない私には暗記が精一杯でした)に辟易としていたので、理数系の、思考力中心の勉強を強く欲しており、夢中になって勉強しました。その際に、温かく見守るような態度で、私の拙い議論に耳を傾けて下さり、その後の学生生活を送るに当たっても希望が持てるようになった記憶があります。

 私は、医学部を卒業した後、「理論的には、人間の精神現象はすべて数式で表すことが可能なはずである」と考えながら、精神・神経科に入局しました。脳は、物質的にはニューロンという素子の集合であり、その考えは概ね妥当であろうと思っております。しかし、ネットワーク内のパラメータの数が無限に近いことに加え、外部から入力される情報のパラメータも圧倒的に多く、たとえ巨視的な視点からカオスの理論を参照するとしても、人間の、繊細で多彩な精神現象を数式によって説明するのは、少なくとも現時点では難しいのでは、と考えるようになりました。また、精神科の患者さんの診療に当たり、その心のありかたの多様さに驚き、強引に理論に当てはめてしまっては、患者さんの心を理解できないということも学びました。現在では、ネットワーク理論などに基づく数理精神病理学的な議論と、臨床精神病理学的な議論の両面から同じ頂上を目指して行くのが望ましいのでは、と考えております。その道のりは遠く、少なくとも私は、一生かけても頂上には到達できそうもありませんが、最初の一歩を踏み出すことができたのは、学生時代にこの行程の道筋をお示しいただいた、川村先生のお力添えがあったからこそだと思っております。

その後も、東京音大の丸山先生との合同の勉強会にお招きいただくなど、折に触れ、脳や人間の精神現象に関する知的な刺激を下さいました。このたび退官されるにあたり、これまでのご指導に謝意を表し、長い間のご研究・教育活動に心より敬意を表しますとともに、今後の先生のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げます。

(慶應義塾大学精神科)

 

 

川村光毅先生の日常(19934-199910)

−そして今なお「通過点」−

大山恭司

 

1993年の春に川村光毅先生のもとに助手として入室以来、6年半に渡り、教育、研究活動を一緒にさせていただいた。その間のエピソードを紹介することで、先生の"日常"を垣間見ていただければ幸いに思います。最初に記述すべき点は、"神経回路網の生き字引き"としての川村先生であろう。脳のどの部位がどのような神経回路網を構成しているか(hard-wiring)は"お呪い"のようにすらすらととどまることなく出てくるのには、今なお常に驚かされる。ただ単に教科書に記載されている知識を事細かに覚えているというのではなく、自分自身で所見をとり、その積み重ねに基づいてしゃべっているのだから、一言一言の重み、説得力が違うのは言うまでもない。それゆえ、こちらがいい加減な組織切片の観察にもとづいて何か言おうものなら一蹴されるのは間違いないところであった。一方、神経解剖学の講義では、"生き字引き"であるがゆえに、初心者には高級すぎる?解説になることもあったが、何度か聴講するうちに噛めば噛むほど味が出てくる味わい深い講義であったことが思い出される。解剖学実習の口頭試問では、学生に試問するだけでは満足できず、試問中に自ら剖出を行いdemonstrationしてみせる姿をよく見かけた。実際に所見をとって学生に見せる、それが"川村流""学生のための"教育であった。学生に身となる知識を蓄えてほしいとの思いが伝わる。本の知識を語るだけの研究者の話には耳すら傾けず、自分自身で実際の標本を見ない限り信じない姿と共通する点である。"生き字引き"である反面、知らないことは知らないとはっきり言える教授でもあった。決して知ったかぶりはしない、それどころかこちらが時として質問攻めにあうこともよくあった。近年、神経科学の研究においても他の分野同様、ご多分にもれず遺伝子の機能を考察することが頻繁にある。そんな中で、遺伝子の名前はなかなか覚えるのが大変そうであったが、それでも必要とあらば果敢に新しい分野にチャレンジする"可塑性(plasticity)"も備えていた。本来の専門ではない分子生物学的手法(たとえばin vitro転写反応など)に。さらに、川村先生を知る人の共通した意見として浮上するイメージは、"エネルギッシュ、豪快"な印象である。まさに"日常"において、夜中の1115分頃に教授室を後にし、終電車に間に合うように信濃町駅まで走って帰る「ベテランの学生」をよく見送ったものだ。1996年にはじめてコールドスプリングハーバー研究所でのミーティングに一緒に参加した時は、最初にdouble helixのオブジェ前で記念撮影をし、会議中は会場の最前列に陣取り積極的に質問、討論していた。さらにBanquetではオーガナイザー用の予約席になぜか堂々と座り、達者な英語力でオーガナイザー達と積極的に懇談する姿を見た。学会後、ニューヨーク のマンハッタンを肩で風切ってさっそうと歩き、最寄りのCDショップでMichael JacksonCDを買い込み、慶応に帰った後、教授室で軽快な音楽を耳にしつつコンピュータに向かう姿には何か斬新なものを見た。海外に行くと国内のdutyから開放されるせいかやたらと活動的で、コロラドのスキー場近くで開催されたKeystone Symposiumに参加したときは、学会の空き時間に一面雪景色の中、野山を歩きまわり自然を満喫する姿も印象的であった。豪快、そしてサイエンスに関してはかつ注意深く、繊細な姿勢が今なお健在であることに勿論疑いの余地はなく、退官は今なお「通過点」にすぎないと思われる。

(慶應義塾大学医学部解剖学教室、現在、英国に留学中)

 

石段教室の個人授業

武田泰生

 

 川村先生、ご退官おめでとうございます。すぐ近くに居ていつでもと思う気持ちに甘えてしまい、とうとう一度も先生の講義を拝聴しないままになってしまいました。今では非常にこころ残りに思っております。川村先生に初めてお会いしたのは、わたくしが慶應の生理に赴任した1992年の春でした。植村先生に連れられて第一校舎の二階におられた川村先生にご挨拶にお伺いした時です。非常に穏やかで研究に真摯な先生という印象を受けました。その印象は今でも変わっておりませんが、これまでおつき合いさせていただいた中で、特にに心に残る三つのことについてお話させていただきます。1)それまで神経解剖、神経発生に無縁であったわたくしに、神経解剖学の「生き字引」である川村先生には、種々の共同研究を通して、本当に有益なディスカッションをしていただきました。特に忘れることが出来ないのは、第一校舎の4階の生理から1階へ降りるあの石の階段です。あの石段は神経解剖学を学んだ貴重な教室です。帰宅途中のあの石段で、川野先生や野上先生が目を合わせるのを避けるように「さよなら〜」と足早に脇を通り過ぎて帰られる中、終電近くまで何度となく講義をしてくださいました。あの時にご教授いただいたことがまさに現在の礎となっております。ありがとうございました。次に、2)準解剖学教室員にしていただいたことです。忘年会の席上でしたからもうお忘れかも知れませんが、準教室員として教室内のイベントに参加する許可をいただきました。ますます神経解剖の知識が…..と喜んでおりましたが、忘年会や送別会などに声をかけてくださり、わたくしも喜んで宴会要員として欠かさず参加させていただきました。あの頃の楽しいひとときが懐かしく思い出されます。もう一点は、3)ご退官後ますます研究に情熱を傾けておられる姿です。もう5年ほど前でしょうか、「ぼくはこれからやるよ、定年になるまで。いやその後も。永遠のテーマ「音楽と情動」に向かってぼくはやるからね。」と目を凛々と輝かせておられました。何か大事な宝物を見つけた時のような無邪気なお姿を今でもはっきり覚えています。そして今まさに、ご自分の信念に向かって突き進んでおられるお姿を拝見し、自分が求める研究を楽しんでやっていく川村流儀と雑念にとらわれず没頭できる純朴な心を持ち続けることの大切さを教えられました。数年前、New Orleansで開かれたNeuroscienceの学会で、音楽とサイエンスの接点だとおっしゃってPreservation Hall に足しげく通われ、音楽に合わせて何とも形容しがたいstreet danceを楽しんでおられました。先生が追求されている「芸術と情動」の原点がここにあるんだなあと妙に感動して、つい一緒になってステップを踏んでいた自分を発見しました。どうかそんな川村先生であり続けてください。いつまでも我々に川村流息吹きを吹き込んでいただきたいと願っております。第一校舎の階段教室ならず石段教室で受けた神経解剖学の個人授業は、わたくしの宝でありこれからの研究の活力であります。今後とも、ご指導ご鞭撻いただきますよう宜しくお願い申し上げます。

(東京都老人総合研究所細胞認識部門)

 

 

川村先生との出会い

岡野 栄之

 

私と川村先生の本格的な出会いは、昭和63年の春に川村先生に私の学位の副査をしていただいた時であります。(ミエリン形成不全症の分子遺伝学的研究というテーマでした。)私は学生時代の神経解剖学の講義を川村先生からしていただいた訳ではありませんが、大変面白いお仕事をされておられるので、学会などでは必ず先生の研究室のご発表は、聞かさせていただいておりました。そのころより、先生のneuroanatomyのご造詣の深さには、感服しておりました。さて、学位審査でもneuroanatomicalな厳しい突っ込みがあるだろうと予期して、私は付け刃の勉強をして審査に臨みましたが、案の定、川村先生の奥の深いご質問には、まともに答えられませんでした。なんとか学位審査は通していただきましたが、以来、先生とは仕事の色々な面でのアドバイスをいだだく仲になりましたことは、私にとって大変幸運なことでした。また、私がはからずも阪大の神経解剖学の教授に就任した際も、解剖学の教育経験が全くない私が講義と実習ができるように、特訓していただいたことは大変感謝しております。お蔭様で、この特訓はよい勉強になりましたし、私の研究の方向性にも大きな影響を与えてくれました。また、最近では、情動と脳の高次機能のneuronal circuitに基盤をおいた先生のご興味に触発され、遅ればせながら私もこの領域の勉強を(大変ゆっくりではありますが)させていただいております。発生学と高次機能をリンクさせた研究は、私の長年の念願でありますし、Brain Scienceの最重要課題であると思っております。このような研究を行っていく過程で、これまで先生にいただいたアドバイスがいかに重要なものであったか、痛感することでしょう。先生と出会えて大変よかったと思っております。

 今後とも、先生にはご造詣の深いご示唆をいただきたいと思っております。

  どうぞ、これからもご指導の程、宜しくお願い申し上げます。

(慶應義塾大学医学部生理学・教授)

 

不思議の森の川村先生

岡本 仁

 

私が講師として生理学教室に来させていただき、しばらく経ったころ、まさにひょっこりと川村先生は訪ねて来られました。突然のVIPの訪問に戸惑う私に、先生は「なんか面白いことやってんだって岡本さん、ちょっと説明してくれない。」とおっしゃり、どっかりと座って私の説明に耳を傾けて下さいました。すぐに分かったことで、その後何度もくり返し明らかになったことなのですが、「ちょっと説明してくれない」というのは、全くもって曲者だということでした。先生は私の説明を聞きながら、「それはどういうこと、これはどういうこと?」と何度も何度もお尋ねになりました。私は、はじめは得意げに説明しているのですが、やがて話は前に進むどころかどんどん後ろに進んでいきます。そのうち、にわか仕立ての形態学者と発生学者である私などでは到底及ぶことのできない、広くて深い 疑問に話題は及んでいくのが常でありました。私は、自分の学びの浅さをそのたびに痛感し、先生にただ畏敬の念を抱くばかりでありました。

精神科医として出発された先生は、脳の解剖や発生を研究されることによって神経のネットワークの働きが生み出す理性や情動を説明することを、究極の目標とされているようです。さらには、ヒトの理性と情動が混じりあって生まれる芸術にも、深い興味を持っておられます。先生は、美しい物を鑑るときは、対象が芸術であれ学問であれ、究極的に万人は平等であると御考えではないでしょうか。好奇心と感動の心を持つことだけが、一義的に大事であるという御考えを、行動としても実践しながら貫かれてこられたように思います。

ヒトのゲノムの全塩基配列が明らかになり、生物学は最終コーナーを回って最後のデッドヒートに向かいつつあります。近い将来、先生が目指して続けてこられた遺伝子/神経回路/精神というつながりを明らかにすることも実現できるのではないかと、私は楽観的に考えています。私は一発生生物学者として、その最後の仕上げに加わっていくことができれば、これ以上の幸せはないと考えています。

 川村先生、ぜひこれからも私どもの灯台として、今後とも御指導をくだされば幸いです。(光に誘われて行くうちに迷子になっても、文句は言いません。)

   (理化学研究所/脳科学総合研究センター/発生遺伝子制御研究チーム)

 

ノックアウトマウスから学んだこと

白澤卓二

 

何年か前のことになるが、イソアスパラギン酸メチル転移酵素という蛋白質が老化した際に生じる翻訳後修飾を修復している酵素を欠損したネズミを作製して解析していた当時、ノックアウトマウスの形態学的解析に悩んでいた時期があった。生化学的予想からは、予期しなかった「てんかん症状」が出現したまでは良かったのだが、脳の重量がネズミの成長とともに増加し続けるというデータを形態学的にどの様に結論づけるのかで悩んでいた。何人かの専門家に相談してみたが、神経細胞の数や、アポトーシスの数などに著名な差を認めなかった。ある日、川村先生を紹介されて、ノックアウトマウスのコンサルトに慶応大学に行った。研究室でもう一度、プレパラートからノックアウトマウスの形態学を丁寧に検討していただいた。脳全体にグリア細胞が反応していて、全体が浮腫気味になっていることに最終的に気がついた。その後も何度もノックアウトマウスの脳の解剖を教えていただき大変感謝した。私が川村先生から教えてもらった最も重要なレッスンは、「木を見て、森を見ず」にならない事であった。私の形態学的解析はしばしば、ルーチンのニッスル染色やHE染色をスキップして免疫組織化学染色にいきなり飛んでしまう。すると弱拡大で、脳の模様、層の構造を再検する機会がない。すると「木を見て森を見ず」状態になる。否、もし、機会があっても見えないといった方があたっているかも知れない。川村先生は弱拡大で顕微鏡を覗きながら神経細胞のアレンジメントとかストラクチャーというような単語をよく口にされていた。「この部分はアレンジメントがアブノーマルで、、、」などと云うので、ティーチングスコープ越しに一生懸命に覗くが、私には何処がアブノーマルなんだか良く判らないまま終わってしまうこともしばしばであった。脳の機能を形態学的に理解するには、脳の構造や神経細胞の列びを3次元空間の中に位置づけて理解する必要があるだろう。遺伝子の世界から研究の世界に入って、後に病理学をかじった程度では、いつになっても弱拡大の世界が見えないのも仕方ないようにも思うが、分子生物学が花形になってから形態学を熟知した研究者が非常に貴重になっていることは確かなようだ。

(東京都老人総合研究所、分子遺伝学部門)

 

 

野上晴雄

 

午前中の一仕事を終え、解剖学教室のある第一校舎の玄関でタバコなどを吸っていると川村先生が大学の裏門をくぐって姿を現す。靴の底にバネでもついているかと思われるような年の割には軽快な足取りである。決まって1120分頃である。ごくたまにGパンでお出ましになったりするが、おおむねネクタイをきちんと締め帽子などかぶっている。足もとはちょっとアンバランスなスニーカーであり、これがその辺の重役出勤のサラリーマンとは違った雰囲気を与えている。私と一言二言話を交わした後二階の教授室に入る。事務の女性をからかいながらお茶を飲み、食事をとってやっと仕事に就くのである。私が川村先生の研究室にお世話になったのは、先生の最後の5年間であったので、もちろん自分で実験するということはなく、川村先生は助手や講師の先生方を捕まえて彼らの実験結果について、あるいは将来の研究について議論を戦わせるのを楽しんでいたようである。学内の活動に対してはどちらかというと消極的で、つまり教授会などさぼりがちで、話し相手が捕まらないと、終日教授室にこもってなにやら調べものをしている。たまに気が向くと、神経解剖学の実習に顔を出し、若い頃に自分で染色した脳の切片を材料に学生相手に講義をしたりする。そして脳研究のおもしろさを学生に非常に積極的に訴えるのである。この種の講義は割と好評である。慶應の解剖では原則としてすべての教員が肉眼解剖学の教育を行うことになっている。従って年6回ある解剖の試問では毎回川村先生も6-9人の学生を担当していた。川村先生の試問は別な意味で好評であった。秋にある解剖試問に通らないと学生はその分の解剖を翌年の夏休みにやり直さなければならない。だから解剖の試問は学生にとっては大問題である。ところが川村先生は、知識の量を量るというような試問にあまり興味を示さない。試問になると古いノートを取り出して、例えばそれには腕神経叢の構成が書いてあったりするのだが、それを頼りに学生と一緒に解剖するのである。それで何時間か時間をつぶすと満足して引き上げてくる。当然試問に落ちる学生などいない。川村先生は陽の高いうちから大学に来るものの、本格的な仕事はどうも夜になってからやっていたようだ。もしかすると昼間の川村先生は、例えば日光浴をして体温上昇に努めているイグアナのようなもので、近くのラーメン屋から取った夕食を終わる頃になると調子が出てくるのかもしれない。その時間になると私の仕事はほぼ終わり、同僚の川野先生とビールなど飲みに行ってしまうので、その後彼が何をしていたのかよく分からない。論文の校閲をお願いすると、畑違いの私の論文であっても有り難いことに詳細に筆を入れてくださる。それも驚くほど早く返してくださるのである。今思うと、私たちがそろそろできあがろうかという時間に川村先生は私の論文に目を通していてくれたのかもしれない。ともかく、夕食後数時間仕事をして毎日終電で帰っていく。

 慶應で十数年間繰り返してきた生活のリズムが、定年と共に大きく変化することになる。川村先生には健康に気をつけられて、ますますご活躍されることを期待しています。

(筑波大学、医学専門学群、解剖学、助教授)

 

 

片山正輝

 

私は、川村先生が、慶応に赴任された翌年に教えていただきました。神経解剖学実習での川村先生の姿は、常に研究者たらんとなさっていた先生の姿勢そのものなんだと今更ながら感じています。人体脳神経のスライスをみて、学生に教えてくださるのですが、いつのまにか学生のイスを奪い、座り込んで、“うーーん、いったいこれはなんだろう”と、なります。お話を聞いてみると、当然、学生の域を超えた微細な変化や所見に、見入ってらっしゃるのです。そして、最後には、筋道を立てて、御教授いただきます。学生の頃、“時間はかかるし、進まないし、困ったなあ”と思っていました。

その8年後、脳神経外科に所属した私は、川村先生のご配慮で解剖学教室での研究を許可いただきました。私の実験データをごらんになって、お話になる先生の様子は、学生の時に拝見したそのままでした。様々な要素を鑑みて、時間をかけてアドバイスをしてくださる姿勢に、“これが真実をみる、科学者の姿勢なのか”とひそかに納得しておりました。

現在私は、解剖学教室を離れて細々と研究を続けておりますが、先生が顕微鏡を前にスケッチする姿を思い出しながら、微力ながら頑張ってゆこうと考えております。

(慶應義塾大学脳神経外科)

 

 

ねちこく、辛口な、川村光毅先生の退任によせて

神庭重信

 

川村先生は、誰もがご存じのように、とにかく知的好奇心の強い人です。ある時、岡崎の生理学研究所で泊まり込んでの研究会が開催され、午前中から白熱した議論が行われ、懇親会でも至る所で盛んに議論が交わされました。いささか疲れて、一刻も早くベッドに潜り込もうと安宿へ戻ったのですが、運悪しく同じ宿に川村先生もお泊まりになっていたようで、フロントで姿を見かけられてしまいました。こちらが先手を打つ間もなく、“まだ早いよね(確か11時はまわっていたが・・)。僕の部屋へ来て、ビールでも飲みながら少し話そうよ。先生に教えてほしいことがあるんだよね”と切り出されてしまったのです。教えて欲しい、と大教授から言われれば、断れるはずもありません。自販機が故障しているとか、ビールが売り切れているとか、望み薄い幸運にひたすら期待しましたが、それも虚しく、缶ビールは勢いよく転がり出てきてしまったのです。

アンビバレンツをどう考えるか、自我は脳のどこで生まれるのか、それが分裂するのが分裂病の本質なのではないか、病識はどうして損なわれるのか、人は言語をどうして獲得したのか、人はなぜ神を信じようとするのか、などなど・・・・・。もう少し具体的なテーマとしては、ノルアドレナリンが増えた減ったではなにも解決しない、それは脳のどこに局在し、どのような回路でどの領域と関連して起こるのか、と問われ、機能を生み出す回路を問題にしない限り理解は深まったことにならない、と強調されました。神経回路の研究に生涯をついやされてきた先生ならではの確信なのでしょうが、真っ正面から突きつけられたことがきっかけで、今の自分の研究の方向性がみえてきたような気がしました。脳の科学は、脳の発生・発達の過程から、詳細に回路の設計図を明らかにしつつあり、今後の精神医学領域の研究も回路の視点を取り入れなければ、十分な理解に達しないでしょうから。

僕が神経解剖学者なる人と身近に接したのは、このときが初めてでした。そして、その体験は衝撃的でした。なぜ解剖学者がそれほどまでに、深く広く、精神のことを考えているのか。本来精神の専門家である僕たちが突き詰めて考えなければならないことを、毎日の多忙な診療に流されがちで、わかりきったこととして片づけていたり、あるいは考えてもしょうがないようなこととして受けとめていたことを気づかされたからです。川村先生は、どのような問題であれ、たとえ今答えが出せず、論文にならなくても、重要なことはあくまで粘り強く考え続ける姿勢が必要だと教えてくださったように思います。

考えることと、それを発言することは区別しなければならない、と教えて下さったのも先生でした。聞きかじりの話をさも決まったことであるかの如く研究会などで話したとき、先生は後で僕を呼び止め、“根拠のない意見を押しつけてはいけないんだ“と注意なさいました。最近一部の精神科医達が、社会を騒がす青少年の行動に対して、さもわかったような、デレッタントな、安易な発言をする姿勢を先生はひどく批判されていました。脳を研究し尽くされたからこそ、その構造と機能を安易に結び付けることに慎重になられていたのだと思います。精神科医は近頃マスコミ受けしていて、僕などでもちょくちょくマスコミにコメントを求められます。発言は、あくまで科学的根拠をもってするべきことを、何度と無く指摘された記憶は僕を無口にさせます。これではマスコミの売れっ子にはなれませんが、大きな損をしないで済んでいるのも、科学者としての姿勢についての先生の教えのおかげと、いまでは感謝しています。

先生の“ちょっと痛い言葉”は、でも、僕の宝であり、後輩にも伝え続けていきたいと思います。これからも、思いもかけない質問や発想からインスピレーションを与えてくれる、僕たちの、ねちこく、辛口で、厳しい指導者であり続けて下さい。

(山梨医科大学精神神経医学教室、教授)

 

川村先生との思い出

竹内 京子

 

 初めて川村先生にお声をかけていただいたのは、もう10年以上も前のことになります。フランス留学から帰ってきてすぐ、解剖学会で発表したのが慶應義塾大学医学部でした。ニワトリとウズラの脳を移植するという実験系を使った研究成果発表でしたが、私は留学前まで脳については全く研究したことはありませんでした。学会場ではお話をする機会はありませんでしたが、学会が終わってから何週間かたったある日、川村先生からお手紙をいただきました。詳しい内容ははっきり覚えていませんが、私の研究に対して、少しだけお褒めをいただいていたのをうれしく思ったのを覚えております。しかし、その当時、分野外ということもあって、失礼ながら川村先生のお名前を存知上げませんでした。後になってから、神経解剖学の分野では有名な先生であることがわかり、うれしさと恥ずかしさでいっぱいになったことが思い出されます。

それから、解剖学会会場で時々お見かけするものの、なかなかこちらの方からお話をすることが出来ませんでした。私には古き良き時代の偉い教授というイメージが強く、近寄り難かった様な気がします。

 そして月日が流れ、今から3年前、川村先生から慶應義塾大学医学部に来ませんかというご連絡をいただきました。ちょうど、東京での仕事をさがしていたということもあり、川村先生のご紹介で生理学教室の植村先生の研究室でお世話になることになりました。研究は解剖学教室で行うことになり、幸運にも有名なお2人の先生にご指導いただく光栄にあずかりました。田舎でのんびり過ごしていた私にとって、慶應義塾大学での2年間の日々は本当に刺激的でした。その中で、川村先生との思い出をいくつかあげてみます。まず、異分野交流会や“情と意を科学する”研究会など、いかにも面白そうな集まりに何度か連れて行っていただきました。自分の脳について科学する機会を得て、本当に感激しましたが、能力不足から、活発なディスカッションが出来なかったことを残念に思っております。また、川村先生は夜がお強いのに対し、夜が大の苦手な私にとって、夜9時以降のディスカッションは正直つらかったのを覚えています。反応が鈍くていろいろとご迷惑をおかけしました。お蔭さまで、最近では私も少し夜が強くなりました。さらに、日本語も英語も正確に表現することを教えていただきました。今まで、いかに言葉をいい加減にして生きてきたかということを思い知らされましたが、これは、なかなか直すのが難しいというのが現状です。考えてみれば、どれひとつとっても川村先生の思っておられるようには出来なかったことが悔やまれます。結局、川村先生のご退官と同時に、まるで本試験を落ちたままの状態で、私も慶應大学医学部を退職してしまいました。しかし、この度、理化学研究所でまたお会いする幸運に恵まれ、大変うれしく思っております。今後、もし可能ならば、再試験、再々試験をお願いすることが出来ればと思っております。これからもますますお元気でご活躍されますことをお祈りいたしますとともに、今までと同様にご指導賜りますようお願い申し上げます。

(理化学研究所)

 

 

 

川村先生御退官に寄せて

中原 仁

 

 川村先生に記念誌への寄稿の御要望を頂いたものの、書いては直し、直しては書きで、次第に自信が無くなって参りました。「学生としての立場より気軽に」と言うことで、気軽に引き受けてしまいましたが、良く考えれば私は模範的な学生からは程遠く、どちらかと言えば皮肉屋ですので、御要望に即せるかいささか戸惑いがありながら、何とか筆を握っております。未熟な人間の戯言として御笑覧頂けましたら幸甚です。

 川村研究室にお世話になるようになってから早いもので2年が経過致します。そもそも入門するきっかけになったのは、精神活動に興味があって、という高等なものではなく、ただ基礎医学の現場を見てみたかった、そこで自分の力を確かめてみたかったという下世話なものでありました。慶應の学生は、特に私は、プライドばかりが一人前で、入門後はとんでもないところへ来てしまったものだと、しばしば自分の大胆すぎた行動に反省を致したものでした。脳組織を見ても、上下すらわからず、こんなものを見て研究できるのであろうか、とあくまで現象論的な研究に不安を覚えました。幸い、神経解剖学の講義がすぐに立て続けにありましたので、ここで何とか勉強してやろうと必死になって講義に出た記憶があります。川村研究室の先生方、特に川村先生の御講義は、正直言って私には高等すぎて理解できませんでした。当時の私はパニックになるばかりで、教科書として薦められた本も購入致しましたが、多少の理解の助けとはなるものの、この研究をして楽しいのだろうか、苦行をつむ修行僧の気分か、と感じたのを思い出します。

 かくしてプライドだけで何とか先生方を呆れさせることの無いよう務めておりましたが、そのころはまだ川村先生が、あんなに温厚な方ではありますが、「教授」と聞くだけで恐れ多くて近寄ることができませんでした。研究室の大山先生にTAG-1に関連する仕事の手伝いを許され、毎日毎日、異常があるのかどうか分からないKOマウスを相手に、アトラスとにらめっこの毎日が続きました。およそ半年間、その作業を続けた結果、その成果が晴れてイタリアの学会上でさりげなく私の名前入りのスライド(恐らく誰も気づかないであろうが)とともに報告されることとなり、初めて嬉しさを覚えました。その学会には川村先生も御出席されており、御帰国されて少々してお会いした際に「君の名前が入っていたよ」と声を掛けられた際には後光が差して見えたものでした。

 大山先生がその学会と前後して留学され、私は取り残されたのですが、研究室の竹内先生に神経組織学の御指導を頂くようになり、その頃から川村先生に直接御指導頂く機会が多くなって参りました。川村先生はぶらりと研究室に来られて「どう、仁君?」と、時には(何故か)英語で気軽に声を掛けられて、私はびくびくしながら研究成果をお見せし、アイデアを盗んだりすることができるようになりました。そのような御指導を頂いた私は何とかその後半年で論文の形にまとめられるようになり、たまたま草稿を川村先生にお見せしたのがきっかけで熱心に御指導頂くこととなりました。草稿をお渡ししましたら一読されて「なかなかいいじゃない」と評され、喜んでおると、朱筆に荒れ野となった私の原稿が帰って参りまして、受験以来久々に机に何時間も向い格闘した上でまた見て頂くと「いいじゃない」と評され、しかし更に戦線の状況は厳しくなって参るという状況でした。十回近く私は食い下がり、何とか意にかなって「御苦労様でした」と先生に励まされた際は慶應に合格した時よりも安堵がありました。こうして何とか論文の形になりましたが、川村先生が先生のホームページに書かれているように、論文を作成することは実験をすることよりも一段と大変な作業であることに気がつかされました。更に、私の思考の甘いところは幾度となく指摘され、その結果、私はそれまでに慶應で身に付けていたその場しのぎの姿勢を改め、一つのことに執着しどこまでも食い下がるようになりました。学生の感想文が論文に仕上がったのは川村先生の御指導があったからですが、たかだか一学生の粗雑な原稿を真剣なまでに真剣に朱筆を入れてくださったことは、この上ない喜びで、先生の懐の深さに感謝致しております。私は研究者として必要な姿勢を川村先生の後姿に学んだ思いです。今となっては神経組織学はこの上なく面白い学問であり、アバウトに見えながら精細な検討が必要で、学問というより芸術に近いと感じており、既に中毒になっております。

 長くなりますが、いくつか私が感動した先生のお姿をここに記録させて頂きたく存じます。最も印象的だったのは先生主宰のセミナーでのことですが、とある精神科医が川村先生の御発表の際に「〜について御存知ですよね?」で始まるこれまた難解な質問をされておりましたが、それに対して川村先生のお答えは「いや、知りません、どういうのでしょうか?」と逆に興味津々になっておられました。知らぬものは知らぬと正直でいらっしゃるのと、そこに対しての興味をもっていらっしゃる「学者はかくあるべき」という先生のお姿に感動致しました。私の拙い論文に関しましてはこういうことがありました。実はその内容が先生の御友人の方が唱えられている説を根底から否定するものであったのですが、そのような論文を川村研から出すことは宜しいのでしょうかといらぬ心配を私がしたところ、「それはそれ、これはこれですよ」とおっしゃいました。

 正直であれ、誠実であれ、と親には言われて参りましたが、なかなか難しいものです。世の中偉くなればなるほど(医者など特に)、非正直、非誠実が多くなるのが常と感じますが、私のような若輩者が申すのも恐縮ですが、先生の正直で誠実でおられる姿勢には感動致しております。医道の先輩の川村先生にこのような御指導を賜れたことは何よりもの財産となりました。今後も先生に御指導をお願いいたしたく存知ますが、いつの日か「青は藍より出でて、藍よりも青し」となるべく、努力して参りたい所存です。

 ここまで書きまして、我ながら、この生意気小僧が、という感が募って参りましたが、期限もありますし敢えて書き直すことはせずに寄稿させて頂きたく存じます。最後に、学生らしい一言を付記致します。「川村先生の口頭試問はラテン語であったことを除けば、学生にとって何よりものオアシスでした。」学生を代表して感謝致します。

(慶應義塾大学医学部4年、慶應義塾大学医学部解剖学教室、東京都老人総合研究所神経生物部門)

 

 

川村光毅教授のご定年に寄せて

池本桂子

 

 川村光毅先生と初めてお会いしたのは、平成10年夏、生理学研究所(小幡邦彦教授)主催の情動研究会で「側坐核の神経回路」について発表する機会を与えていただいた時のことでした。この会に先立つその年春の解剖学会の折に、川村先生について、精神医学から解剖学に移られたという背景をお持ちで、情動研究会を開催されているということについて、久野節二先生(現筑波大学基礎医学系教授)からお伺いいたしました。久野先生は、精神科で臨床をして、留学後、藤田保健衛生大学の解剖学教室に移動したという私の背景が川村先生と似ていることを御指摘されました。私は、「情動研究会」?!・・なんて面白そうな研究会かしら・・と思うのと同時に、自分と似た背景をもたれる先生が、そのような会を開いておられることに驚きを感じました。そして、精神科の重症患者さんがある状況において示す行動パターンの男女差から、神経回路の性差に関心をもったものの、当時、そのあたりの解明がまだ進んでいなかったので、結局、滋賀医大の大学院での研究テーマが「霊長類の側坐核(情動を運動に変換するインターフェイスとされる核)」になったといういきさつについてもお話しました。側坐核は情動研究会でもまだあまり取り上げられていないとのことでした。その後、久野先生と川村先生に論文をお送りしますと、間もなく川村先生から、論文の執筆と情動研究会での「側坐核」についての発表のご依頼を受けました。まだお会いしたこともありませんのに、このような形で、機会をお与え下さる川村先生に感謝したものでした。後から知ったことですが、若い研究者のなかで、私と同じ気持ちを持った人は少なくない様でした。

 こうして出席させていただいた情動研究会では、第一線の優秀な先生方によるエキサイテイングな発表と討論が行われており、私はこの種の研究に魅了されてしまったのでした。以後、行われた会合にも出席させていただいて、多くの先生方と出会い、沢山のことを学ばせていただくことができました。研究会では、川村先生はいつも鋭い質問をなさるので、私は自分の不勉強に気付かされるのでしたが、先生は、常に学者としての見識だけでなく、謙虚さや、研究者としての探究心と批判を恐れず新しい分野を切り開いていかれるご姿勢、教育者として後輩への配慮を示しておられるご様子でした。

 人間の知情意を科学的に解明する努力の一環として、川村先生は幅広く芸術、音楽、言語、創造性といった人間の機能にもご関心を示しておられるのは、さすがとしか言い様がありません。この方向に、人間の信仰心、宗教心といった機能への神経科学的アプローチが加わるなら本当に面白いことだと個人的には感じております。

 川村先生は、ご定年後は臨床精神医学にも携わっておられるとお伺いしました。もちろん、研究もお続けになっておられると。これからも一層すばらしいお仕事をされ、神経科学の発展のために貢献なさることと思います。先生の今後ますますのご活躍を心からご期待申し上げます。

(回精会北津島病院精神科神経科、滋賀医大非常勤講師)

 

 

Hi  Koki

Chiara Cecchi

 

I met Koki a couple of years ago at Cold Spring Harbor, in the United States, while we were both working on developmental neuroscience. To me, it was very clear from the outset and during our several conversations that his knowledge and experience in the field of  brain research and  neurodevelopment are really impressive and that he has made a great contribution with his work and studies to the scientific community.

Then, about a year later, I had the very pleasant opportunity to host him here in Milan, Italy, where I live and work. He visited our lab at DIBIT-San Raffaele Hospital and again we were able to discuss our scientific projects and possible future collaboration.

While Koki was in Milan, I could appreciate how enthusiastic he is about European culture and art. I was also very impressed by his knowledge of Italian art, particularly of opera, literature, music and food. He could even quote entire sentences taken from different operas!

 

I have always found Koki to be a very open and charming person, very fond of his work as well as of life. He has the ability of transmitting his passion and interest in his work in discussions with him and in my opinion this is a very important quality in a scientist. I am very grateful to Koki as meeting and knowing him represented my first opportunity to encounter the Japanese style and culture, which I really enjoyed and appreciated.

I am very honored to have the opportunity to write this short note on Koki on the occasion of his retirement at Keio University, even though I am sure it only represents a very small contribution. I wish him all the best for his future years.

Good Luck Koki!!

 (Unit di Biologia Molecolare dello Sviluppo,

DIBIT-Istituto Scientifico H San Raffaele, Milano)

 

 

川村光毅教授退官記念に寄せて

松本 元 

 

川村先生と懇意にさせて頂く直接の機会は、小生がコーディネートさせて頂いた科学技術振興事業団「平成10年度異分野研究者交流フォーラム」での、“情と意を科学する”(平成11320日(土)〜23日(火)、於:箱根プリンスホテル)でご一緒した時が初めてであった。異分野研究者交流フォーラムというのは、異なる研究分野・組織の研究者に出会いと自由に意見を述べあう場を提供し、研究者が自由に意見を述べあう中から、自らの研究へのヒント、あるいは既存の学説にとらわれない新たな発想を生み出し、これらの成果から新しい研究領域・課題などを創出する、というものである。この中で、我々は“情と意を科学する”というフォーラムを、脳神経学者、精神科医、心理療法家、教育者、芸術家、宗教家、ジャーナリスト、社会学者、企業経営者、情報工学・物理学などの理工学研究者、大学院生などの約50人で構成し、下記の趣旨でホットな議論をしたのである:

 

「人の心は、知・情・意から成る。脳は、情が受け容れられ、意が高まり、知が働くと考えられる。すなわち、知・情・意は互いに並列にあるのではなく、階層化されており、相互連関する。従って、情・意は、知性・精神性・感情表出・言語出力などを制御調節する最も基本的な脳の働きである。本フォーラムでは、情・意がわれわれの精神活動・知性・心にどのような働きとして現れるかを考えると同時に、脳科学が情・意を現在どのように捉えようとしているかを調べる。精神性に対する関わり方として、臨床医学では、例えば内因性精神疾患に対しては治療(“治す”)という対症療法的対処とともに、カウンセリングなどを主体とする心理療法的対処(“癒す”)ということもなされてきた。情・意に関して人をどのように捉えるかは、“治す”と“癒す”のそれぞれの立場で違いがあり、その違いが臨床における療法の特殊性をもたらしているといえる。情と意は、文化・芸術・知性、さらに宗教にも密接に関わるものであり、それを脳科学の立場からしっかりと明らかにし、その根源がどこにあるかを知ることも大切であろう。本フォーラムは、従来の科学が単に事物の説明に留まりがちであったのを超えて、ここで得た事柄を我々の日常生活での活動の中に活かし、我々自身が輝いて生きることを実感として味わえるよう試みるものである。」

 

この“情と意を科学する”のフォーラムは、平成11年度および平成12年度にも引き続き継続させて頂き、「人とは何か」を脳科学の側から探求するための重要な側面を示しつつあると思っている。この3期に亘る(3年間)フォーラムを通し、またJoseph E. LeDoux”The Emotional Brain”の邦訳(東大出版会から発刊予定)でご一緒させて頂き、私はこの3年間で、川村先生と急速に親しくさせて頂いたのである。平成10年度のフォーラムでお会いする前に私が抱いていた川村先生のイメージは、脳の解剖学を生涯の仕事としてこられた、堅い実験研究者であり教育者である、というものであった。しかし、その様なイメージは修正すべきであるとフォーラムでお会いしてはっきりと思わされた。それは、川村先生が、「マタイ受難曲に示される愛と苦悩の旋律や、アイーダにおけるラダメスに対する不死の愛と父エチオピア王に対する祖国愛の葛藤などを、脳科学の立場から理解したい」と言われたからである。私は、「人とは何か」ということに具体的な問題を設定し、それに向けて自分の現在の仕事を位置づけし、少しでもそこに近づこうと努力されている人に、心から共感する。川村先生は退官されるが、この退官が先生の夢へのスタートでもあることを知って、心からお慶び申し上げます。

(理化学研究所 脳科学総合研究センター チームリーダー)

 

 

夏の日の午後に

丸山桂介

 

人間の出会いはしばしば偶然の手に委ねられる。だが偶然はそのときに、人間が意志して求めても常には手に入らぬものを一瞬のうちに開示して豊かな恵みをもたらす。何故なら出会いは、誰か或るひとりの人間が世界に対峙しつつ生きて在る、その在り方の根幹に触れて世界の在り方を一変させることがあるからだ。言えば、出会いはときに人間の実存に関わる。

 一昨年の夏のある日の午後、慶応大学医学部解剖学教室で、ヒトの脳の実物を前にして川村教授の講義ははじめられた。そのときに、講義を受けていたのは私ひとりであった。

脳の解剖学の第一人者から直接に脳の機能・働きに関する説明を受けることが出来た私は、ただ恵まれていたという以外にない。無論、そのときの脳の解析はごく初歩的・基礎的な域を超えるものではなかった筈である。脳を前にし、手にしたのは私にとってそれが最初の経験であったからである。だが基礎的な事柄にこそ学問の頂点、最先端は鋭く表れ得るものであることを忘れてはならない。幾つかの事柄のうち、脳と言語の関わりについての説明がわけても詳しくなされたのは私が音楽という、人間の特殊な言語を専門としているからであった。言語野から、しかし根本的には言語野を超えて脳機能の全体的働きの中から言語は生み出されて来るものであることを教えられたそのときに、私の音楽に関する研究はひとつの次元を超えた。ひとつのことばに内在する多層・多様な意味と、それを理解しつつ他者とのコミュニケーション、即ち存在の出会いを形成してゆく能力。そのことばの構造とそれを生み出してゆく脳の機能こそ、音楽の響きの世界の根幹に直接するものであるからだ。しかもことばを生み出す脳の機能は普く人間に共通のものでありながら、ひとつのことばに隠されている深層の意味には、ひとりの人間の育ったそれまでの生涯の全過程が反映されているという。脳の構造・ことばの構造に担われた個と普遍の完全なる融合−ヒトの脳をはじめて手にして、私の手の中でヒトの脳はそのとき人間の存在の重さを伝えて深く感動的であった。

 それから何回か、音楽に興味を寄せられている川村教授と私の間で、交換授業がおこなわれた。おそらくお互いに、極度に高度な、しかし時折理解し難い奇怪な質問を投げかけ合いながら相互の知識は深められていった、というよりも、相互の世界に対する、世界を読む目は深められたと言ったらよいであろう。

 私は、川村教授の個人的事柄はほとんど何も存じ上げないが、御本人の語るところでは、大学時代に合唱団に入り、ピアノを学ばれたという。いまは、言語との関連からとりわけてオペラへの関心を強くされ、ヨーロッパでも学会に出られて夜、オペラハウスを訪ね歩かれている。ピアノをよくされる奥様を傍にされて、音楽的に恵まれた環境においでになると申し上げてよろしかろう。勿論それには、川村教授が文学的資質を豊かにされていることも書き添えられて然るべきであろう。そのような多様な資質・興味、世界への理解がなければ、たとえヒトの脳が前にあったとしても、脳に集約され透視される人間の精神の世界について、私の前で何時間にもわたる講義を展開されることは不可能であったに違いなかろうと思われるからである。

 慶応大学を離れられて、多忙さの度は増しておいでであると言われる。だがそれにもかかわらず、教授は間もなく、音楽学の本格的研究に着手される。おそらく、何かの機会に、近い将来に再び論集に寄稿を許されれば、川村教授は音楽学の、私は脳の形而上学に関する論文を各々に発表することになる筈である。もしもモイラの気が変わらなければ。

(東京音楽大学、音楽学)

 

 記念誌出版にあたって

川野 仁

  1992年から6年間慶應義塾大学の解剖学教室でお世話になったご縁で、昨年より川村先生を客員研究員として東京都神経研究所にお迎えしております。その関係から、記念誌を作るにあたって、世話人の一人として寄稿文受付の窓口を務めさせていただきましたが、雑務にかまけて皆様方に行き届いた対応が出来なかったのではないかと危惧しております。このような いい加減な事務局にも関わらず、この度、記念誌を出版できる運びとなったことはひとえに寄稿された方々のご協力の賜物であると感謝しております。

この記念誌は、極力派手にならぬようにとの川村先生のご意向で、表向きの豪華さこそありませんが、読んでいただければお解りのように、内容はこれまでの川村先生の半生を象徴して、広範囲な分野の方々からの寄稿文、最終講義の要約、解説付きの業績など、たいへんヴァラエティーに富んだものとなっております。この記念誌を一読すれば、川村先生の実直で朴訥なお人柄や研究と教育に対する人一倍の熱意が十分に読みとれると思います。

川村先生の情熱は、物事の真理や本質をじかにこの目で確かめたい、という実証的な研究態度に貫かれています。それが、精神科学から神経解剖学、さらには神経の発生と再生、情動まで次々に新しい研究分野に果敢に挑戦する原動力になっているようです。現在、川村先生は週に1〜2日、神経研の研究室で温厚なおじさまとして、ご自分のお子さんより若い人たちに囲まれて過ごしていらっしゃいます。しかし胸の内に秘めた研究に対する情熱はいまだに熱いことは、その言葉の端々から伺えます。

この記念誌は川村先生の定年退職を期に纏めたものですが、川村先生の研究生活は今後も長く続いていくと思います。先生とコンタクトをお取りになりたい方は以下の電話番号とメールアドレスをご利用下さい。

                                         (東京都神経科学総合研究所発生形態研究部門)

連絡先
東京都神経科学総合研究所発生形態研究部門
TEL: 042(325)3881内線4507
E-mail: kokikawa@tmin.ac.jp
または、理化学研究所脳研究センター細胞培養技術開発チーム
TEL: 048(467)5594内線7707
E-mail: kokikawa@brain.riken.go.jp