ロゴスとパトス (付 川村先生への手紙

 精神科医として精神病の治療に従事し、ヤスパースの精神病理学などを同僚と輪読して学ぶかたわら、夜はヒトの大脳皮質の組織標本を作ってスケッチをしたりして細胞構築学(忠告された通り、業績にはならなかったが)の勉強をしたり、ネコの大脳の連合線維の実験をした。

 高次神経活動を学ぶ基礎の基礎として皮質間を興奮がどのように伝達するのか、その規則性を知りたかった。もちろんネコでは不満であった。チンパンジー(後に、ガーナ国の首都にあるアクラ大学医学部に1ヶ月間教育要員として招かれたとき、この動物が使えるならばという条件で承諾した)ならずとも、せめてサルで実験したかった。あとから範囲を広げていけばよいのでネコで毎晩毎晩実験をし、所見をとって一段落するのに10年かかった。

 後年サルの連合線維を研究できるようになった時にこの蓄積が大きな力となった。サルで大脳皮質の研究をすると同時に、ネコで中脳から脳幹/脊髄への下行路投射の研究と小脳求心路の研究を軸索変性法や標識追跡法を用いて行った。約10年間これに没頭した。一息つく暇もなく、次の第3番目の10年間はラット、マウスを用いて再生・移植・発生の領域に大胆にも踏み込んだ。今までの仕事を発展させるか、それとも、この未知の領域にすすむか随分考えた。

 Geoff Raismanというイギリスの朋友から「どうしてお前は長いこと頭を使わない学問をしているのか。なお悪いことに、たくさんの論文をかいている。」といわれてその挑発に乗ってしまい、この領域の面白みを教えられた。この酒場での喧嘩がなくても、私はこの発生と再生の領域に入っていたと確信する。なぜなら私は若い頃から、物事を動的に観察し、研究せよ、対象とする自然は絶えず変化しており、けっして1つの所にとどまってはいないのだからという風に教育され学んできたからである。ヘラクレイトスも鴨長明も言っているではないか。そして自然に逆らわないで素直な質問をするように、そうすれば自然はいい答えを返してくれる。哲学的にいえば素朴な自然弁証法である。

 このようにヒト(人間)を対象としていた臨床家が年をとるにつれてだんだんと小動物を相手に実験をするようになった。これから先の10年間は大腸菌を相手にするかもしれない。ヒトとの友人としてあるいは医者としての社会生活・人的交流もさることながら、サル、ネコ、ラット、マウスを用いた実験の研究生活からえた貴重な体験は、私の思想ないし哲学(大げさだが)を形成する上ではかり知れないものであった。このように思う年恰好になった。

 最近ときどき考えてはいたが、そのために時間を費やすのが惜しくて、まとまりのないまま私の頭に浮かんでいたものを、いま考えてみたい。この機会を与えて下さった編集部の方々に感謝する。
表題を「ロゴスとパトス」としたが、これはわれわれヒトの脳がもっている高次神経機能の2つである。すなわち、高度の認識機能を支えている「言語」活動と、環境との関わり合いにおいて、自己保存から精神機能の発現まで広範囲な行動を保証する「情動」活動を意味するキーワードとして用いている。これらの活動は発達した前脳が上手く働かないと発揮されない。

 最近、心/精神と脳との関わりの問題が、マスコミを含めていわゆる知識人の間のサロン的また学問的話題としても注目されている。いまどきヒトの心の源を心臓の働きや肝臓の働きに帰する人はまずいないだろう。心は脳の高次機能の産物であることは中学生でも知っている科学的常識で、真理である。しかし驚いたことに、心を脳から切り離して、脳の関連外のものと考えている頑固な人にときどき出会う。しかも、れっきとした教養の備わっている人である。いわゆるインテリである。そればかりか自然科学者の中にもそういう人達はいる。科学的に証明されていないという。ここで観念論と唯物論について歴史をふりかえりながら論じようとは思わないが、自立した心をもって、自分の考えをもって行動して、充実した生活を送りたいと思う人は、自分の心は脳の産物ではないとか、脳の外側に心があるとか、自分が主観的に認識しないかぎり、対象の存在を認めないとか、自分が誕生する以前に地球が存在したかどうかは私は証明できないので責任をもって回答することはできないとか、道を踏み外した無責任な態度はとらないでもらいたい。動物実験にたずさわるもの、特に脳を実験的に研究しているものは。クロード・ベルナールならずとも、次のように言うであろう。「これに賛成できない人は実験をして真実を解明しようとしないで古代や中世の人達の書いた本をひもといて、それを金科玉条として信奉したらよい」と。トラヴィアータの魅力はオペラの世界のものである。

 実験動物を用いて脳を研究している人達は、犠牲となった動物に対する責任においても真理を科学的に追求し、それを一般の人達に財産として伝えていく義務があると思う。ファウストとの契約の場で、メフィストは「血液は特別な液体ですぞ」というせりふを吐く。私は「脳は特別な物質ですぞ」というせりふを吐きたい気持ちを実はもっている。誤解を招く言葉なので登場させたくなかったが、メフィストの魔術的な響きの変奏曲(ヴァリエーション)として活字にしておきたい。

 多細胞生物の身体は細胞一個の受精卵からそれが増殖し(量が増え)、分化し(新しい質が加わって)形成される。ではゾウリムシのような、単細胞生物はどうか。外からの刺激で個体である一個の細胞は全身的に反応する。進化の過程で、次第に刺激を有効にうけいれ他の部分にそれを有効に伝えるというシステムが、原始的ともいえる多細胞生物である腔腸動物になるとそなわってくる。神経の網状に連続したつながりが、細胞が増加して一部が特殊化/分化して、このように量的に一定以上に達した段階で質的に特殊な細胞への分化がうまれたのである。細胞内に発現する遺伝子の量、質も違っているにちがいない。したがって蛋白の種も分化発展したものであろう。とくに蛋白はその生物にとっての存在様式そのものである。細胞の量の増加、それにともなう質的転換としての細胞分化はこのように生物を進化論的にみたときに観察される。それは一個の細胞としての全能力を発揮する機能(全能性)が特殊化され、新しい質をもった分化・発達した細胞(同じものが増殖集合して1つのシステムと呼ばれる組織をつくる)が生まれる。前の段階の性質が一見否定されて、その前の段階の性質を保ちながらもそれを否定した形で、さらに高い質をそなえた段階に(それを哲学用語では止揚するaufhebenという)分化した細胞集団を創造していく。

 何千万年、何億年という単位の時間を経過しながら、量から質、正―否―合という現象に現される弁証法的な発展をとげていく。周囲の刺激をより有効にとりいれ、生物体として感覚の刺激の受容、生体内の興奮の伝達、運動系要素・器官への活性化ないし反応性の向上などが長い進化の過程の中に発展してくる。哲学者ヘーゲルが精神の運動の性質と考えてあげた弁証法の3つの法則(①量から質への転化の法則、②対立物の相互浸透の法則、③否定の否定の法則)が自然弁証法として、脳の科学においても基盤となる性質であることが理解できる(以下も参照されたし)。
 動物種にあらわれた神経系の発達をみると、ヒドラにみられる散在性神経系から、クラゲの興奮の伝達方式のように多少とも方向性と集中性をもつようになる。このように神経細胞の増加にともなって刺激伝達様式にも発展がみられる。少し飛躍するがプラナリアやミミズのような扁形動物や環形動物のレベルになると、神経細胞は集団を作って数珠状または梯子状につらなり(身体は分節状に発達する)より集中した神経系をもつようになる。神経細胞の集団は神経節とよばれ、頭部にある神経節はとくに量的にも大きな、かつ、質的にも多様な刺激をうけて、他の神経節と区別される程によく発達したものになる。これが脳と脊髄すなわち中枢神経系とこれに付属する末梢神経系を系統発生学的、生物学的にとらえた実の像である。

 一足跳びに昆虫、脊索動物をこえて、脊椎動物の円口類、魚類、爬虫類、鳥類をもこえて、私の用いてきた実験動物である哺乳類、それもネズミ類に話を移すことにする。この段階を進化論的立場から形態の変化と遺伝子の発現とを関連づけて弁証法的に考察をくわえながら研究していくことが、次の時代のテーマとなるのではなかろうか。というのは、現在この種の研究ができる条件がととのいつつあるからである。シニアーの科学者は次世代の正しい学問の発展のためにその準備をしておく義務がある。

 発生の初期に、脳室の壁をおおっている脳室層がある。ここには神経幹細胞といわれる未分化な(マトリックス細胞ともいわれる)細胞があり、増殖して量的にある段階に達すると(脳の部位で異なるが前脳でマウスでは胎生11日以降)、非対称性の分裂をするようになる。つまり、1つの細胞が形態的にも化学的にも(分子のレベルで)均一に分裂する状態から脱却(否定)して、それらが対立し、相互に影響(干渉、抑制)するようになる。以前の性質を残しながらもその状態を否定し新しい質を作り出すという量から質への転換、止揚の法則(あるいは否定の否定の法則)がみられる。そして、次に起こる各細胞の行動も異なり、一方は脳室層に神経上皮細胞として残り、他方はニューロンに分化し、移動して脳の構成要素である神経細胞体の集団である神経核や皮質を作る場所に到達し、最終的にそこに定着する。数日後のマウス胎生16-17日以降となるとニューロンの産生から徐々に、グリアの産生にきりかわってくる。非対称性分裂の様式は変わらないが現在進んでいる遺伝子レベルの解析結果から、ニューロンに分化するかグリアに分化するかを説明することは分子生物学的に可能である。この事象は、未分化神経細胞(神経幹細胞)とニューロンとグリアという時期に依存した異なる性質をもった細胞という生きた生命単位要素の対立的共存ないし相互浸透としてとらえうる。これらは、脳のあらゆる発生段階に起こる物質の運動変化として観察される。ここが心/精神という高次神経活動の産物を生む脳の発生のスタートポイントである。

 分化したばかりの未熟なニューロンやグリアが移動すると上に述べたが、特定の時期に、特定の場所に誕生したニューロンは将来自分がどの場所に行き、どういう種類の神経細胞集団を形成するのかを知っているのであろうか?それは何に據ってか?むずかしい問題である。数年前までは、分子生物学畑の人達は「すべてDNAによって決定されている」と言って他から反論もされなかった。しかし、今や、少し事情が違っている。すべて、DNAによってプログラミングされていると言い切れるだろうか? あまりにもお粗末な頭脳からでた結論であると笑われはしないか? 最近われわれは以下の神経発生学的事実を明らかにした。2例挙げる。先ず、チロシン水酸化酵素を発現する中脳ドーパミン産生ニューロンは、初め第3脳室の基板にある神経上皮細胞で誕生し、表面に細胞外基質の一つであるテネイシンを発現している放射状グリアと相互作用(接触と脱接触)しながら放射状方向に移動し、ついで、免疫グロブリンファミリに属するL1を発現する軸索線維にのりかえて、接線方向に移動し、L1と作用するプロテオグリカンの一種(フォスフォカン)を発現し、ニューロンとして成熟しつつ、黒質の本来の位置に到着する。また次の例として、脊髄後角に細胞体がある脊髄視床投射ニューロンも、初めその伸展軸索上に免疫グロブリンファミリに属するTAG-1が発現しそれが脊髄底板にある細胞外基質を含む種々の分子(sonic hedgehog, TGFβ, ラミニン、コラーゲン など)と相互作用したのち、表現型の転換が起こってL1を発現するようになり、方向を変えて対側を視床に向かって上行する。これらの蛋白のあるもの(L1, TAG-1)は細胞接着因子とよばれ、細胞の移動や軸索の伸長方向の異常、すなわち、神経回路形成の異常はこれらの接着因子や転写調節因子の欠損でしばしばみられる。

 以上、伸展する軸索上に発現する種々の接着因子やインテグリンやDCC (deleted in colorectal carcinoma 、癌抑制因子として知られている)などの受容体(receptor)および細胞外基質分子との相互作用が脳の発達条件の基礎にあることを教えている。そればかりか、カエルを用いた最近の報告によれば脊髄神経軸索伸長に対するガイド因子(誘引因子netrinあるいは反発因子semaphorin)の活性が細胞外の因子(protein kinase AやcGMP)や細胞内のサイクリックヌクレオチドの濃度により変化・調節されるという。この実験事実が教えるところは、遺伝子によるプログラミングと生体の内外の環境における発達期の神経細胞要素の相互作用による動的な関連のなかで脳の構造(その過程としてニューロンの誕生・移動・定着・回路形成がある)が決定されていくということである。ところで、最終地点に定着した後、ニューロンは突起をのばして特定のニューロン群から興奮をうけとり、他のニューロン群に興奮を伝える。この脳の回路網が形成される発達段階で生まれた細胞の一部は死ぬ(アポトーシス)。たとえば、大脳皮質形成の初期に現れるサブプレート・ニューロンは、求心線維の一時的シナプス形成や皮質板の層形成などに役割を果たした後、細胞死を起こす。また、脳内神経回路の枠組みを作る段階で重要な先導的役割を果たしたニューロンおよびその軸索はその役割を終えた後に細胞死により除去される。ここにも、対立した概念である細胞の生産(生)と消滅(死)とが同時に進行し、相互に作用・浸透して、全体として統一した事象がみられるのである。この移動や回路形成のプロセスの内には、DNAプログラミングによる決定論的側面と脳組織内の要素の相互間にみられる分子間の誘導や反発など、一見相反した作用をもって働くという弁証法的側面がある。このような例は脳の発生を研究していると、随所に認められる動的な現象である。現在、蛋白、核酸(遺伝子制御)のレベルでかなりの部分が解明されつつある。

 この脳形成シンホニーも終楽章に入るが、時間が制限されているので未完成でアレグレットで行かざるをえない。ヒトにおける認識機構(ロゴス)と情動機構(パトス)が主題となる。実は、この問題こそ最も真剣に弁証法的に考察しなくてはならない高次神経活動の問題である。「動物にも心はある」とか「それは本質的にヒトと同じでないか」とか「人間(ヒトではない)の精神(こころではない)は神聖なものである」とか語り尽くせない程の難問が含まれている。筆が進まない。その理由ははっきりしている。すなわち、この問題を実験データを示して、現代の神経科学の業績に基づいて論じるには、
 1)言語野(パブロフの条件反射の第二信号系の複現域)の構成と言語による認知/認識の機構について、
 2)扁桃体/海馬/視床下部/前頭前野皮質を含む広範囲にわたる脳の構成と機能と機構について、調べ直して考察しなければならない。
 くだけた一般啓蒙書風の書き方をして、まじめに準備をしないで公にしてしまうと、場合によっては有害な影響を善良な人達に与えてしまうので、良心的な研究者たらんとする者は十分に慎重であるべきである。傲慢の誹りを免れないが、最近書いた拙論(勿論完成したものではないが、参考論文として)を参照して頂きたいということでお許し願いたい。本論をまともに書けないくせに、お題目を唱えるなという叱声が聞こえてくるが、どうかしばらく待っていただきたい。
 最後に、精神医学に関心を持ちつづけているものとして、人のロゴスとパトスの問題について輪郭だけでも示しておきたい。日頃考えていることだが、心/精神の異常の問題は重要で、動物脳の研究の知見を基にして、ヒトの脳、とくに前脳(大脳皮質や扁桃体、海馬を含む大脳辺縁系や大脳基底核が含まれる)の形態、機能の異常を、分子生物学的な知見をもとりいれた神経科学の成果の上に立って、研究を推進していくことが必要である。

 今まで実験動物を用いて私どもが明らかにしてきたことをこの関連でいえば、まず、「パトス」をキーワードとする扁桃体についてである。ここには内臓感覚、味覚、平衡覚など原始的なものを含むあらゆる種類の感覚が脳幹および視床から直接入力する。また、扁桃体は大脳辺縁系に属する古い皮質や視床下部と密接に結合し、情動神経回路の中心的な位置にあり、情動に関わる価値判断システムの中核をなしている。魚類、爬虫類の段階では、ここに脳の主座が置かれていると思われる。さらに前脳、とくに、その新皮質が発達した動物(哺乳類)では、感覚情報の処理が一層高度化している。質的に最も高い段階に達したものが言語機能(パブロフの条件反射第二次信号系)活動を可能にしているヒトの脳である。脳の質的発達を反映して、その働きも感覚的認識から発展して抽象的認識を可能とするようになる。ここでのキーワードとしての「ロゴス」は言語野である。このように、情動(喜怒哀楽、快・不快)に関わる神経機構が海馬・脳弓・乳頭体および扁桃体を含む辺縁系を中心とした1930年代の理解から、認知機能の座である皮質連合野と結びついて、現在では、高等動物の脳における感覚情報処理が認知システムと情動システムという相互に密接に関連した二重の構造として神経回路の制御機構を弁証法的に考察することができるようになった。パトスとロゴスが主演の舞踏会である。機械論的、形式論理的解釈だけでこのレベルの生物学的事象を説明できないことは、研究者の間では半ば常識である。わたくしは、ヒトでのみ発達している言語条件反射系の問題と関連づけて、認識や情動の問題を、物質(分子、遺伝子、脳内関連要素の相互作用)に基盤を置いて、その時間的、空間的変化を考えて脳の発生の研究をしていきたいと考えている。その際、われわれは、感覚・表象・意識と物質的世界・自然・存在との間のかかわりの問題を考える(哲学する)ことに必然的に直面する。これはディレッタントでないかぎり逃れられない。上に述べてきた動物実験の研究成果の蓄積の上に立って、脳の科学はわれわれに次のことを教えてくれる。「物質は意識のそとに、意識とはかかわりなく存在する客観的実在性である。物質は感覚・表象・意識の源であるから、物質が第一次的であり、これに対して、意識は物質の映像、存在の映像であるから第二次的である。思考(思惟)は最高度に発展した物質、すなわち脳、の所産であり、脳は思考の器官である。この物質の活動の上に"精神現象"の粋である文化、芸術、学問が開花する」。最も疑い深い研究者でも、ヒトの前脳における言語(ロゴス)中枢や情動(パトス)中枢を規定する関連物質(遺伝子や蛋白分子)とそれら相互の関わり合いを追求することによって学問の正道を歩むことができるのではないだろうか?

参考文献:
1. 新生理学体系(監修:勝木ら)第12巻:高次脳機能の生理学(鈴木、酒田 編). (1988): 医学書院.
2. 生物学的精神医学(小島、大熊 編)第4巻: 認知機能からみた精神分裂病. (1993) : 学会出版センター.
3. 脳の科学―特集:情動・意欲の神経機構とその病態―、20/7 (1998) : 星和書店
4. 脳と神経―分子生物神経科学入門― (金子、川村、植村 編)(1999) : 共立出版株式会社



追記:
ファウストが新約聖書のギリシャ語原文を好きなドイツ語に翻訳する場面であるが、ここに、認知、思考、情動、行動の概念が含まれている。

Geschrieben steht : "Im Anfang war das Wort !"
Hier stock' ich schon ! Wer hilft mir weiter fort ?
Ich kann das Wort so hoch unmoglich schatzen,
Ich mus es anders ubersetzen,
Wenn ich vom Geiste recht erleuchtet bin.
Geschrieben steht : Im Anfang war der Sinn.
Bedenke wohl die erste Zeile,
Das deine Feder sich nicht ubereile !
Ist es der Sinn, der alles wirkt und schafft ?
Es sollte stehen : Im Anfang war die Kraft !
Doch, auch indem ich dieses niederschreibe,
Schon warnt mich was, das ich dabei nicht bleibe,
Mir hilft der Geist ! auf einmal seh' ich Rat
Und schreibe getrost : Im Anfang war die Tat !
   (J. W. Goethe 原文)

かう書いてある。「初めにロゴスありき。語(ことば)ありき。」
もう此処で己はつかへる。誰の助を借りて先へ進まう。
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。
なんとか別に譯せんではなるまい。
靈の正しい示しを受けてゐるなら、それが出来よう。
かう書いてある。「初めに意(こころ)ありき。」
輕率に筆を下さぬやうに、
初句に心を用ゐんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが意であらうか。
一體かう書いてある筈ではないか。「初めに力(ちから)ありき。」
併しかう紙に書いてゐるうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
はあ。靈の助だ。不意に思い附いて、
安んじてかう書く。「初めに業(わざ)ありき。」
   (森林太郎 訳)

"In the beginning was the Word" ― thus runs the text.
Who helps me on ? Already I'm perplexed !
I cannot grant the word such sovereign merit,
I must translate it in a different way
If I'm indeed illumined by the Spirit.
"In the beginning was the Sense." But stay !
Reflect on this first sentence well and truly
Lest the light pen be hurrying unduly !
Is sense in fact all action's spur and source ?
It should read: "In the beginning was the Force !"
Yet as I write it down, some warning sense
Alerts me that it, too, will give offense.
The spirit speaks ! And lo, the way is freed,
I calmly write : "In the beginning was the Deed !"
 (Walter Arndt 訳)

Il est ecrit: Au commencement etait le verbe !
Ici je m'arrete deja ! Qui me soutiendra plus loin ?
Il m'est impossible d'estimer assez ce mot, le verbe !
Il faut que je le traduise autrement,
Si l'esprit daigne m'eclairer.
Il est ecrit : Au commencement etait l'esprit !
Reflechissons bien sur cette premiere ligne,
Et que la plume ne se hate pas trop !
Est-ce bien l'esprit qui cree et conserve tout ?
Il devrait y avoir: Au commencement etait la force !
Cependant tout en ecrivant ceci,
Quelque chose me dit que je ne dois pas m'arreter a ce sens.
L'esprit m'eclaire enfin ! L'inspiration descend sur moi,
Et j'ecris console: Au commencement etait l'action !
 (Gerard de Nerval 訳)

川村先生への手紙  -パトス・パトス- 鬼頭純三(名古屋大学名誉教授)

 先生の原稿拝読しました。日頃眠らせてあっていささかさび付き気味の思索の回路がギシギシとゆり動かされた感じです。先生は精神科医として人の(と言うことは動物としては最高の)高次神経活動を対象に研究を進められ、進化の筋道をたどりつつよりプロトタイプへと研究対象を拡げてこられました。私は逆に人への進化の筋道からは横へそれた、鳥類の脳の研究から一方は両生類・魚類へと、一方はほ乳類から人の方向を目指して勉強してきました。ヒトとクジラの赤核の比較解剖をされた小川鼎三先生はその経験を「ヒト山から見た景色とクジラ山から見た景色」と表現されましたが、それを借りれば私は連綿と連なる魚類からほ乳類への進化の連峰を、やや離れたトリ山から俯瞰していたように思います。トリ山は俯瞰するには良い位置にありますが、いざヒト山やサカナ山へ登ろうとするといちいち分かれ道まで戻らなければなりません。分かれ道はは虫類です。は虫類が地球上のほとんどあらゆるニッチェに適応放散し、あるものは巨大化していわゆる恐竜の時代として繁栄したときにはすでに、ほ乳類はほ乳類型は虫類から決別しほ乳類への進化の道を小さな目立たない存在としてひっそりと歩み続けていました。一方鳥類は、少なくとも現在化石資料として知られる限り、ほ乳類より後で二本足で活発に行動していた小型は虫類から分かれたもののようです。

 先生をヒト山から進化の尾根伝いに下方へ向かわせたパトスは何だったのでしょう。

他に書かれた先生のかなり膨大な著作を拝見する限り、山を下りつつその眼は常に躁欝病や分裂病と言った最高次神経機能の破綻の解明に向けられているように思われます。然し一方自分の理性を頼りに自然の真理に迫りたいというパトスが感じられてなりません。私自身がそうであるためにそう感じるのでしょうか。研究者が好奇心のために動物の命をうばうのは罪悪だと批判する人が居ます。しかし、人類固有の文明社会を発展させてきたのは、最高次中枢である大脳皮質の産物である知的好奇心であって、これを否定したときそれは同時にヒトの特性を否定する反文明論、反科学論におちいららざるを得ないように思います。とは言うものの、今世紀後半の自然科学の爆発的発達は、大量殺戮兵器の開発、あしき商業主義による自然環境の破壊、生命体の根元であるDNAの人為的操作を可能にするなど、人類の大脳皮質の産物である科学が人類存続の根幹である自然環境の保全や他種生物との共存を危うくするところにまでばく進し、文明社会を構成する人々に不安感をいだかせ、マスメディアがあおる「世紀末」的気分をうけいれやすい状況になっているのもまた確かです。「特別な物質」である脳が調和のとれた自然哲学をうみだし、それを導きとした文明を発展させることに期待する、などというと無責任で、私たち科学者自身が苦悩すべき課題ではないかと思います。この苦悩は人類社会と自然との相互作用のあたらしい局面を模索する苦悩であって、安直に反科学論にはしるのは観念的に人と自然との弁証法的関係を否定するものであり、この否定には「否定の否定」からうまれる止揚の法則はあてはまらず破滅あるのみと感じます。

 先生は詳しくは触れておられませんが、ヤスパースの精神病理学の輪講などをへて実存哲学を克服され、弁証法的存在である自然をあるがままにとらえるという自然哲学を身につけられたと拝察いたします。私もヤスパースは読みましたが専門外のことが多く理解できない難解なものでした。むしろ、サルトルに強くひかれしばしば友人と激論をたたかわせたのを思い出します。先生が展開しておられる量から質への転換とそのさいの止揚の法則の思索は、私たちがとくに動物の発生過程を観察しているとき研究対象そのものから教わる自然現象の法則としてそのとおりだと思いますが、もし機械的、観念的にそれにとらわれると出口のないラビリンスへ迷いこむことにならないでしょうか。脳における量から質への転換はニューロンの数の増加によって自動的にもたらされたものではなく、ニューロン相互の関係、回路網形成が生じる生体内環境との相互関係、外部からもたらされる情報(感覚)の受容とそれに対する反応などのなかで止揚されてゆくもので、まさに先生がいわれるように「相互関係の中で全体として統一されてゆく事象」なのだと思われます。

 私は小学生のころお寺へ疎開し、ほかに読む物とてなく解らないままに仏教の本ばかり読み、戦後中学生の時には、その反動でかキリスト教会へゆき洗礼をうけ、高校から大学にかけてはニーチェをはじめキルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトルなどを読み狂うという、いささかねじれた精神遍歴をしたためでしょうか、「脳は自分自身を解明できるのか?」などとつぶやいたときもありました。しかし、動物の脳組織の観察やその発生過程をあるがままに観察したり、精神科をはじめ医学部のおおくの先生たちと一緒に仕事をさせていただくなかで、生命体のダイナミックな存在から多くのことを学びました。物質世界の存在とその動態を神のご意志として不可知的なものとし、心や精神は神の領域に属するものと考えるのは、最初から高次神経機能を科学的研究対象とはしないと宣言するようなものと思います。いっぽう、物質世界の存在は自分の意識が規定するものであって客観的実在としての存在かどうかは解らないなどと屁理屈をこねるのは、その意識なるものが脳という動的に活動する物質の所産であることから眼をそらし、独善的主観的観念のなかへ閉じこもり、反科学・反文明の酒をあおるか、ニヒリズムの虚空へ身投げするしかなくなることに気づきました。私たちは研究対象とするものを実在する存在として感覚によって認識しますが、物理学者マッハのようにそこから思考をいっさい排除し、純粋に感覚されたものだけを基本と考えるとすると、結果として観念的な不可知論におちいってしまいます(マッハの経験批判論)。これらの思想は自然の真理にせまろうという科学研究の本道からはずれるものであり、高次神経活動の破綻として発症する疾患へのアプローチを阻害するものでもあります。川村先生流にいえば「トラヴィアータを科学の世界で美化してはなりませんぞ」といったところでしょうか。科学者には研究対象を認識するにあたり、透徹した思索によってそれを洞察することが求められるようです。

 生物体はDNA-分子-細胞小器官-細胞-組織-器官-個体という階層からなるといういわゆる階層論が生物学教科書などにみられますが、量的変化を順番に整理しただけでは階層論を構築することはできず、質的に異なる法則性に支配される存在になったときはじめてちがった階層の存在に転化したというべきなのでしょう。DNAはたぶんに決定論的側面をもっていますからデテルミニズムという甘い蜜に誘われてついついラビリンスに引き込まれがちであります。DNAの暗号をもとに作り出された分子がその相互作用のなかで、ホメオスタティックな存在としての生命体(細胞)となったとき細胞はたしかにより弁証法的な存在となります。個体、社会といった階層ではさらにいっそう先生のことばをかりれば「対象はたえず変化しており、けっしてひとつところにとどまってはいない存在」であります。エルキュール ポアロにいわせれば「変化はかならず生じるものです、それが自然の法則なんです」といったところでしょう。

 動物の最高次中枢の細胞生産、分化、基本的回路網形成はおおきくDNAのプログラミングに依拠しますが、それはさらなる中枢の発達過程や、(老化によって細胞数が減少したとしても)樹状突起の増加・伸張とそれへのシナプスの増加という中枢の成熟過程が質的転化をおこす可能性を準備する過程なのであって、感覚された事象の言語信号系による抽象化や記憶(知識)としての蓄積、抽象概念(言語)による他者やつぎの世代への伝達という高次神経機能は、DNAによって準備された可能性が、社会生活というヒトに独特な群生活のなかで花開いたものだと考えます。先生が指摘されるように現在はまだ何処までがDNAのプログラムで何処からが可能性の開花かを論じる段階には達していませんが、アヴェロンの野生児を引き合いに出すまでもなく、かりに私のクローンが出来たとしても私と同じ知識、思考回路、人格を持ったもう一人の私が出来上がらないのは明らかであります。そこでは個体のレベルでの弁証法的法則が社会という群生活のなかでの相互作用と、相互浸透が個人の高次神経機能を規定するからだと思います。

 おなじようなことは大脳皮質を発達させた哺乳動物には多かれ少なかれ適用されることです。イヌを例にとれば、イヌのDNAが準備した可能性はイヌだけの間の相互関係で成長したイヌと、ヒトの訓練によってヒトとの相互関係のなかで可能性を開花させたイヌとではおおきく異なるものです。盲導犬や警察犬や介護犬などはそのようにして訓練し人の利用に役立てている例だと考えます。よく発達した大脳新皮質を持っている動物ほど萌芽的ながら多様な可能性をDNAによって準備されており、それがヒトとの相互関係のなかでどのように花開くか、またその回路の構造と機能はどのようになっているのかはこれからの神経科学のおおきな課題になると思います。実験に用いる動物の入手が様々な要因によって困難となり、せっかくここまでつめてこられた研究を引き継ぐ次の世代の研究者の活動を阻害しはしないかとひそかに心を痛めています。

 私が研究対象にしてきた鳥類や魚類の高次神経中枢は、哺乳動物のような層状構造をもった大脳皮質を痕跡的にしかもっていません。しかし、ボリュームからみればかなり大きな大脳を有しています。鳥類の大きな大脳は哺乳動物の大脳基底核を構成する線条体が巨大化したものであります。ほ乳類の線条体は新線条体(neostriatum)と呼ばれる尾状核を最高次の部位としますが、鳥類は更にその上に、三階建ての上位線条体(hyperstriatum ventrale, hyperstr.dorsale, hyperstr.accessorium)を発達させました。共通のご先祖であるは虫類からわかれるにあたり、ほ乳類は地表といういわば2次元平面にニッチェを拡げ、生存に重要な感覚は嗅覚、聴覚、皮膚感覚などでとりわけ嗅覚が重要な意味をもったと思われます。したがって嗅覚の投射中枢である前脳(大脳)を発達させました。先生がのべておられる「情動の回路(Papez)」を構成する主要部分は本来嗅覚中枢であった部分です。いっぽう、空中という三次元空間へニッチェをひろげた鳥類にとっては視覚が重要な情報源となりました。視覚情報はほ乳類では視床の外側膝状体から大脳新皮質の視覚領へ投射されますが、哺乳類以外の動物では視覚の中枢は中脳視蓋(上丘)であります。鳥類では中脳視蓋へ入った視覚情報は nucleus rotundus という大きな核で中継されて上位線条体へ投射されます。上位線条体へは聴覚や皮膚感覚(羽毛への風圧感覚もふくむと思いますが)も投射します。ちょっと脱線しますが、魚類は水中の化学物質を味蕾で感知し顔面神経の孤束核へ入力しますが、同じ化学感覚は嗅上皮でも感知され、これは前脳の嗅覚中枢へ入力されます。両者はほとんど同じ物質に対して同じ様な感度で感覚されるのですが、出力への回路がことなり、生存上の意味は違っているようにおもわれます。鳥類では嗅覚は例外的な種をのぞいて発達していません。寺田寅彦先生の随筆に、トンビが地上のネズミなどを獲るのは上昇気流にのった匂いを感知して獲物を見つけるのだと言うようなことが書かれていましたが、私は東大脳研でトンビの脳の連続切片をスケッチして勉強していたとき、トンビでは嗅球はきわめて小さく、一方視交叉と中脳視蓋(上丘)の巨大さは、それまで見慣れていたニワトリのそれをはるかに凌駕するものでした。私はトンビは視覚で油揚げを見つけていると確信しています。

 さて、鳥類はこのようにほ乳類とはことなった大脳の発達を遂げた動物です。情動の回路を構成する諸構造も痕跡的であったり、線維連絡がことなっていたりして、ほ乳類のような「回路」を形成しているわけではありません。しかし、その神経活動は必ずしもステレオタイプとばかりはいえないような気がします。鳥類ではパターン認識という擬似抽象化による情報伝達や、獲得された条件反射が群のなかで次世代へと継承が行われているのではないかと私は思っています。勿論言語信号系はありませんが、かわりにさえずり中枢が上位線条体の中に発達しています。先日、新入生対象のゼミで川村先生の「情動の機構と歴史的考察:脳の科学、20;709-」を読んで議論しました。学生諸君は動物の音声による情報伝達と言語信号系による人の高次神経活動とはどう違うのかを議論しはじめました。この議論がどう展開するかがこのゼミの中心課題になりそうで楽しみです。

 線条体から派生した鳥類の最高次中枢が、どのような仕組みで機能しているかはほ乳類での研究成果からは敷衍できないのではないかと感じています。やはりもう一度トリ山登山をしなければならないのかもしれませんが、残念ながら私には体力と時間(余命)が無さそうですし、トリ山に興味をもつ人は少なく切歯扼腕しているところです。

 ロゴスとパトスという先生の副題の意味からみると、私が対象としてきた動物はひたすらパトスに頼って生きていますし、私自身があまりロジカルではなくパトス人間だということから副題を「パトス・パトス」とさせていただきました。川村先生の研究実践に基づいた自然哲学の構築をワクワクしながら期待しています。

 *川村先生の素稿を拝見し、私との間でメールの往復書簡の形で議論しながら考え方を吟味してきました。その為、編集部に無理をお願いしてこの「川村先生への手紙」をセットで掲載していただくことになりました。無理をお聞き入れくださった編集部にお礼申しあげます。

アニテックス 11/3(1999)149-156(研成社発行)より許可を得て転載