ノイローゼ(神経症)

1970年前後に医学生を前にした「わたくしのナルシスト時代の」お話しの原稿メモを発見したのでここに掲載します。

川村光毅

我々が物事を知るプロセスはどの様な発展過程をたどるのであろうか?

 子供に道徳とは何かを尋ねると「おじぎをすること」と答える。小学上級生に同じ質問をしてみると「目上の人を敬うこと、人に親切にすること」などと云う。高校生・大学生あたりに聞いてみると「人のなすべき道のことで、その規準は時代により、民族により、階級により異なる」などと答えるであろう。文学部の教授あたりになるともっと総括的で抽象的な普遍的解答を出してくれるだろう。

 また水とは何ですか?と聞いてみると、「のむもの」としか幼児は答えられないが、次ぎに「水は水蒸気にもなり冷たい氷にもなる」と答えるようになる。更に生活や授業で得た体験や知識をもとにして、水という物質は酸素と水素が結合した化合物であることを認識できるようになる。さらに物理化学を学んだものは酸素原子と水素原子との結びつきをもった物質で、電子、陽子、中性子、中間子など互いに引力、斥力およびそのほかの自己の固有の運動エネルギーなどの諸関係の上に刻々と形態を変じつつ、運動している物質として科学的に弁証法的に水をとらえることが出来るであろう。一方、相当な教育を受けた人でも物事を正しくみることが出来ずに観念的に神秘的に、文学的にしか認識しようとしない多くの人達、いわゆるエリート教養人がいる。

 このように自然科学の対象となるものであれ、社会科学の対象であれ、物の見方というのは、その人の立場、教養、環境によって異なる。同一個人についてみれば、事象をただ単に現れた断面(現象面)だけでなく、動的に変化するものとして、それを科学的に考えようとするならば、その実体は何だろう、その本質は一体なんなんだろうと考えるようになり、認識も深まり、物事の真の姿をとらえられるようになる。こういう態度をとらない人は、若いうちに学ぼうとしないでいいかげんにしておくと、年をとってひげをはやすようになっても、子供を産むようになっても、自分で考えるという習慣がないままに成長してしまうから、内股膏薬のぶらぶら型で思想的に自分の見解を持たないお化けのような人間になってしまう。

 さて話をもとにもどして、このような物の考え方、認識を系統的に道筋を立てて発展させていく事を世界観を持つようになるという。私たちは不完全ながら、未熟で幼稚であっても、その人その人の世界観を持っているのである。

 われわれ精神医学を学ぶものも、読んだり、聞いたり、体験したりしたことを基礎にして、この学問に対する見方がだんだんと固まって来る。すなわち、各々の立場がきまって来るのである。その決まり方は、大げさに聞こえるかもしれないが、その人の世界観によって規定されているのである。

 精神科医としてこの見方の相違が最も顕著にあらわれるのは、神経症つまりノイローゼに対する見方、考え方ではないだろうか。E .Kretschmerはノイローゼを知る人は人間を知る人である (Neurosenkenner ist Menschenkenner) という有名な言葉を残したが、これは神経症を理解するためには人間を理解すること、すなわち、様々の人生観、世界観を持った人々を共感的に理解することが前提であると教えているように思われる。ところで、人生(間)観は個人によって異なるものであるから、神経症学説は学者の数だけあるとよく云われる。たしかにそうかもしれない。しかしいつまで評論家然としてこのようにウツツを抜かしていては何ら物事は発展しないし、いつまでたっても核心に到ることは出来ない。

 神経症に関する学説(Neurosentheorie)は大別して2つの陣営に分かれると思う。一方はLibidoの発達過程における出来事(Komplex)により因果的に決定されるとして、心因性を強調したフロイトの立場で、他方は神経系にたいして機能的な働きかけがあった場合に発生する、病理的症状の多様な組合せとしてあらわれる、として神経症を高次神経活動の正常からの慢性的(週、月さらに年にわたってつづく)な偏りとして理解したパブロフの立場である。

 今日この二人の偉人のノイローゼに関する考え方、研究のすすめ方すなわち方法論を学び検討してみるとことは、精神医学の根本に触れることでもあるので、十分になされねばならないと考えている。

[付]
 一部の人は心因というとき、人間関係からくる葛藤だけをとりあげている。だが戦場でのシェル・ショック(弾丸の爆発によるショック反応)などでは、非常に大きな音、爆風などによる強力な神経衝撃が問題であって、心理的意味はかならずしも問題ではない。騒音のはげしい職場、夜勤の職場、特殊な部分的緊張をながく要求される職場(電話交換手、キイパンチャーなど)でみられる神経症のばあいも、原因には心理的なものではなく過度の神経緊張や生理的神経リズムの人工的乱れが原因であることが多い。単に、人間関係から生じるストレスの面だけに注目することは問題を見誤ることになろう。それは人間関係調整を名目とする"精神衛生的"人事管理を強化させることになり、労働条件を改善させて治療するという方向性を見失わせることになる。心因とは、他の身体的因子を経ずに直接に高次神経活動にはたらきかける原因のことであって、この意味では"心因"というよりは"神経因"というほうが正確であろう。

 実験神経症とは、一般的にいって、困難な実験課題により起こされた高次神経活動の障害(およびそれに伴う身体機能の偏り)である。

 原因の作用をたすけ発病を促進的に働く個体内の条件を総称して素因とよぶ。現在、ドイツなどにはいわゆる神経症についての素因面をとくに重視して、神経症はない、あるのは先天的な精神病質の人がしめす反応だけだ、との考えもある。これは、原因と素因との区別を忘れた考え方である。