行く春や鳥啼き魚の目は泪

川村光毅

-定年にあたって、植村教授と共に-

 植村先生と私は確かに気心が合うところが多い。何故なのか考えたこともなかったが、ある小生意気なヒトから整理・整頓が不得意であるが、そのわりには頭の内はさほど混乱していない点と指摘された。intelligent messという言葉もあるので楽天家の私は褒められたと思っているが、植村さんが気にするといけないので告げ口をすることは差し控えて居った。 私に欠けている彼の美点は沢山あるが、物事を億劫がらずに調べ、企画し、ヒトを説得して、いつの間にか立派なものに仕上げてしまう能力を先生は持っている。記憶力もいい。時にはこんなことまでよくも覚えているなと感心させられる。山下清ではないが(この表現が判る年代のヒトだけに通じる皮肉であるが)、大佐位の階級かと思う。中将あたりになろうとしないところが、彼の善人たる所以である。私にはこのような持続性のある能力がないので、逆らわずに彼が企画することを援けてきた。従僕ではないが、同等の家来である位に見ているヒトがいる様で、これほど愉快なことはない。 この十数年間に一緒にやらせて貰って、いい記念になったなと感謝することが3つある。一つは、三田の会場で慶應神経科学の国際会議 "Neural Development" (1998) を植村会長の下で有意義に、実にたのしく開催したこと。二つ目は、「脳と神経-分子神経生物学入門」(1999、共立出版)という大学院学生から研究者レベルのテキストブックを編集したこと。最後に三つ目は、今年 (2000 年)3月末に、植村会長企画の生理学会サテライトとして、「退職(植村と川村)記念シンポジウム」を共同研究者に参加して頂いて、信濃町で一騒ぎやらかしたという話しである。心にもないお世辞はたくさんだから、眠っていても判るようによく話をまとめて、楽しませて貰おうというのが、参加者への植村さんと私の願いであった。成功した前の2つと同じように、これも彼が何から何まで企画して、それに相談された私は何一つ反対しなかったから、夜の懇親会も含めて実に楽しく和やかで植村名誉教授の人柄がにじみ出ていた。 植村先生は名誉ある慶應義塾賞の受賞者で、かつ、国際級の偉い研究者だとは思ってはいたが、とくに尊敬の気持ちを表明するというチャンスもなかった。この度、改めて業績をみせて貰い、最終講義を聴いて感心した。「能ある鷹は爪を隠す」と言うが、一角の人物なのだなと思った。30代、40代の頃にすでにPO, PAS-II, NCAM, L1などミエリン蛋白や細胞接着因子の性質を解明して来られた先生は、悠々として仕事の上で些事に拘泥して他人を不愉快にすることはない。この点は、小生も密かに持っている自信で、言うのもチョット恥ずかしいが、相似ている唯一の隠し味であると思っている。 最後にもう一つ、植村さんは慶應を相当に愛しておられる教育者で、俗物とはひと味違うなと思ったことをここに記しておく。それは最後の教授会での彼の挨拶である。学部長から紹介されて「訓辞を述べます」と言って話された。私も一緒に退職するが、気が引き締まり、もっと前に聴いておきたかったと心に留めた。教育者として、研究者として、学問に身を捧げる者として、慶應に恩をうけた者として、私はこれから時々思い出すことであろう。 先生の許しを得て、というよりやはり、原稿を頂いて以下に文章化して残しておきたいと思う。

教授会訓示(定年にあたって) 生理学教室 植村慶一

医学部はこの数年の間に重要な時期(大きな曲がり角、危機)を迎えます。しかし、教授会をはじめ、多くの方には危機感が全くない(極めて弱い)ように思われます。この機会に、是非、いくつかの点を真剣に考えて頂きたいと思います。 はじめに、近く完成する新総合医科学研究センター棟の運営の問題です。これは、従来の基礎教室のコア部門とパーク部門より構成されます。特にパーク部門については、単なるスペースの獲得競走におわることなく、若手の育成を考慮した弾力的な運営が行われることを期待します。 第二に、現在、いくつかの教授選考が進行しておりますが、教授選考は、フェアーに、慎重に、迅速に、行って頂きたい。選考委員、委員長は、与えられた重い責任を自覚して、将来の発展性を考慮して、優れた人材の発掘に努力して頂きたい。人事によって、医学部の将来が決定されるといっても過言ではありません。 第三に、医学教育に関して、昨年の学生の事件には大変なショックでした。医学以前の、社会常識をわきまえた倫理性、社会性、人間性の教育の必要性を痛感します。カリキュラム改革は今後の大きな課題ですが、日吉の課程は思いきって、1年に短縮する案を検討する必要があります。 最後に、慶應の中と外の問題ですが、現在、医学部も病院も外の機関で活躍する方々のご支援によって、成り立っていることを強く自覚する必要があると思います。進取の精神をもって、若い方々は積極的に外にでて、活躍して頂き、是非、内と外の交流を活性化することを、各教室で、医学部で考えていく必要があると考えます。今後の医学部の益々のご発展を祈ります。 以上。

植村慶一教授記念誌(2000年5月)より