パブロフIvan Petrovich Pavlov 1849〜1936  川村光毅のホームページへ

“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より(その後1993に新版)引用

 ソ連邦の生理学者。牧師の子としてリャザンで生まれ、神学校に進んだが自然科学、医学を志向し、ペテルブルグ大学物理数学部へ入学(1870)、学生時代ツィオン E. F. Cyonのもとで外科的手法を体得し、外科医学校(後の軍医学校)に編入学(1874)、同校卒業後ドイツのハイデンハイン R. P. Heidenhainのもとで血管の神経支配を研究、翌年には軍医学校に帰りボトキン S. P. Botkin(内科医)の臨床研究室で神経調節の基礎的研究に没頭した。1883年「心臓の遠心性神経」の研究で学位を得た。この初期の段階で早くも生涯を貫く研究に対する視軸を確立している。その第一は、目的の機能が観察しやすいように手術をしておいて、実験の時には自然のままの動物を用いることであり、第二は、個々の器官に固有な機能の神経調節についても、これを"全体としての生体の利益"という面からも考えようとする姿勢である。再度ドイツへ留学(1884〜85)、循環系の神経調節を研究して帰国、それより消化生理学に専念、以前から行っていた瘻孔法に加えて、偽飼養法(1890)、小胃法(1894)などを案出、たんに無拘束での観察というに止まらず、純粋な消化液の採取に成功した。これによって分泌の諸相が明らかになり、さらに消化管粘膜に触れる物質の特質に応じて目的にかなった組成の消化液が分泌されるという適応分泌の機構と概念が確立された。観察を重ねているうちに、音とか形とか匂いのように遠くから作用する動因でも、"動物の注意をひく"ものは、消化液の分泌をもたらすという"思いもかけぬ"事実に逢着したのが、条件反射学を樹立する契機となった。この間、1891年には、ペテルブルグ実験医学研究所が設立されその生理学部長となり、1895年には、軍医学校の生理学教授に迎えられた。1897年ボトキンを追憶して行なった講演をもとにして、第一の主著が出版され、世界的に名声を馳せ、1904年のノーベル賞受賞となった。この中期の研究では初期の特徴に加えて青年時代に大きな影響を受けたセテェノフ I. M. Siechenoffの思想である "個体と環境との一体的統一"という命題に対し、、精神的分泌という新事実を提挙して第三の視軸を確立した。今世紀に入ってからの研究は、その名を不朽にした高次神経活動の客観的研究である。その根幹は1924年に軍医学校で行なった大脳両半球の働きに関する体系的な連続講義に詳述されている(第二の主著)。
 パブロフのいう客観的研究とは、行動心理学などで、刺激と応答の対応関係を研究課題とするのとは異なり、その状況下で起こっている大脳皮質過程を法則的に把えようとするものである。したがって試行錯誤を混乱反応とよぶほどに対象の主観に立ちいった表現は排するが、複雑な精神現象を上記の生理学的法則で統一しようとする努力には終始積極的であった。1907年には科学学士院会員となり、革命にもその研究室を守りぬいた。1921年から死の前年まで続く「水曜日の集談会」の記録はその批判精神と創造の過程がうかがえる貴重な文献である。1924年に出版された第三の主著「客観的研究20年」は、初版当時は39篇の講演集であったものが、改版のたびに増補され、1951年版では65篇の講演が収められている。追加分は、心理学、実験病理学、精神医学、言語などの研究に関する晩年の思索の果実である。パブロフの信条は"徹底、謙遜そして情熱"であった。

(須田 勇)