呉 秀三 くれしゅうぞう 1866〜1932(慶応元〜昭和7) 川村光毅のホームページへ
“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より(その後1993に新版)引用
わが国における精神医学と精神医療の建設者ともいうべき精神医学者。父は、呉黄石(浅野藩医)、母せき(洋学者、箕作阮甫長女)。江戸に生まれる。1890年東京大学医科大学卒業後、榊淑教授のもとで精神病学を学び、1897年より4年間、ウィーン、ハイデンベルク、パリに留学、当時体系化されたばかりであったクレペリン
E. Krapelinの臨床精神病学の価値を認めてわが国に導入し、長く支配的影響を与えた。またニッスルF.
Nisslの染色法を紹介して、神経組織学的研究を推進する機運をつくった。1901〜1925年まで東京帝国大学医科大学教授として神経病学講座を担任。その門下生は全国各地の大学、病院における建設者となった。1903年三浦謹之助とともに「日本神経学会」を創立、「神経学雑誌」を発刊、これは今日の「日本精神神経学会」と「精神神経学雑誌」の前身である。現在用いられている精神医学関係の術語は呉によるところが多い。
呉は東大教授であるとともに東京府立巣鴨病院、のちの府立松沢病院院長を兼任し、わが国の精神病院医療の確立のために基礎的な貢献をした人でもある。早くから患者の人道的待遇を主張し、無拘束看護、作業療法、教育治療、看護者の養成教育、精神病院の構造の改善など、その努力の及ぶところは広く深い。1902年には精神病者救治会を創立し、精神障害者に対する奉仕活動や社会の偏見に対する啓蒙に努めた。救治会はその後変遷をへて日本精神衛生会に連なっている。呉の精神医療面の努力は当時の歴史的社会的情勢のもとで多くの困難に直面した。大正の初期、患者の私宅監置の実情を明らかにして、精神病者監護法を批判し、立法、医療行政の改善を主張したが、これは精神病院法制定のきっかけとなった。呉が立案し建設した松沢病院は、その理念の一端を実現したものである。呉の晩年は医学史の調査研究に傾注された。シーボルト研究は最も有名であり、江戸時代の精神医学関係の文献を集めた医聖堂叢書も貴重なものである。
(臺 弘)