クレペリン Emil Kraepelin 1856〜1926 川村光毅のホームページへ
“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より(その後1993に新版)引用
フロイト S. Freudとならんで現代精神医学の基礎を築いた人。医学修了後、神経生理学・神経病理学に興味をもち、脳病理学の権威グッデン B.A. von Guddenに学び、実験心理学の創始者ヴント W. Wundtの研究室ではたらいたこともあり、基本的には身体主義者であった。30歳の時に精神医学の教授となり、ドルパ、ハイデルベルク、ミュンヘン大学に歴任。27歳の時(1883)に「精神医学教科書」Compendium der Psychiatrieを出し、死後約1年にして第9版に達したが、版を重ねるごとに疾患単位の確立とそれにもとづく精神病分類という大目標にむかって非常な努力が重ねられている跡がみとめられる。カールバウム K. L. Kalhlbaum, グリージンガー W. Griesinger, ウェルニッケ C. Wernickeらの影響に加え、ニッスルF. Nisslの脳病理組織学的研究、野口英世による進行麻痺の原因解明など次々と現れた時代であったから、クレペリンは精神病についても他の身体疾患と同様に、原因、症候、経過、転帰、病理解剖の同一性を想定したのであった。モレルB.A. Morelが1860年に初めて用いた仏語の早発痴呆ということばのラテン語訳Dementia praecoxに疾患単位としての概念規定を行なったのはクレペリンの教科書第5版(1896)である。されに第6版(1899)では先人たちの考えや自己の観察を総合して躁うつ病(manisch-depressives lrresein)という単位が確立されている。クレペリンの分類体系ははじめのうち強く批判されたが、1900年以来、しだいに世界的に認められるようになった。呉秀三も留学(1897〜1901)の後半をクレペリンのもとで過ごしたので、彼の最新学説をわが国に導入した。クレペリンの教科書ではヒステリーを除いては神経症についての記述が少ない。この点フロイトが主として神経症を探究したのと対照的である。身体主義的傾向の強かったクレペリンは精神分析に対して終始拒否的であった。彼の疾患単位説に対してホッヘ A. Hocheらが烈しい批判を加えたが、これに対してクレペリンは1920年の論文で答えている。これは彼が最終的に到達した見解であると考えられるが、ここでは、疾患単位ないし病型と対立する概念として現象形態ないし表現形態というものを認めている。病の表現形態は「種族発生的」なものや種々な「既成装置」によって10種類に分けられ、病因がちがっても現れる症状形態はまったく同一でありうる、という。これは彼の初めの考えからみれば大きな譲歩であるが、疾患単位確立への素志は捨てておらず、人格の機構、病的過程のひろがり、遺伝素質の追求などによってさらに進歩が期待されるとした。その後クレペリン説に対して多くの修正が行なわれてきたが、今なお、世界の精神医学界に大きな影響を与え、フランスやアメリカなど、長い間これを受けつけなかった国ぐにでも見直されている。クレペリンを乗り越えるか否かは今後の精神医学の発達にかかっている。
(神谷美恵子)