シャルコー Jean Martin Charcot 1825〜93 川村光毅のホームページへ
“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より(その後1993に新版)引用
フランスの神経病学者。1825年11月29日パリの車大工の子として生まれる。小さい頃から画才があり、一時は父のすすめで画家を志したこともあったが、この才能は後に医師となってからも彼の残した多くのデッサンに現れている。医師の道を進んだシャルコーは、1848年(23歳)interne des hopitauxとなり内科および病理学を学び、パリ大学を卒業してからは1862年(37歳)にパリのサルペトリエール病院医長の地位につき、慢性疾患、老人病、神経疾患などの診療と研究に従事し、神経病に関する数多くの業績を発表した。1872年パリ大学病理解剖学の教授となり、約10年間その職にあったが、1882年(57歳)には新たに神経学の講座の設けられたサルペトリエール病院神経病学教室の教授として診療および講義に活躍した。臨床精神医学の領域で知られているシャルコーのヒステリーに関する研究は主としてこの時期のものであり、1887年頃から催眠術に注目しこれを症状学的見地から観察することでヒステリーの症状学に大きな足跡を残した。当時メスメリズムはリエボー A.A. Liebault (1823〜1904)によって研究されており、その後ベルネーム H.M. Bernheim (1873〜1919)とともにナンシー学派とよばれ、主として催眠による治療に関心をもっていたが、これに対してシャルコーは神経学者の眼から見たヒステリーの種々の神経学的状態を明らかにし、大きな反響を与えた。このことは単にヒステリーの領域の問題にとどまらず、当時心理学不在であった精神医学を心理現象の研究に向けるのにも寄与した。シャルコーの研究が端緒となって、サルペトリエールには国の内外から多くの神経学者が訪れたが、その後シャルコーの教えを受けた弟子達、とりわけフロイトS. Freud, ジャネP. Janetらは精神医学に重要な業績を残すことになる。以上のようにシャルコーは精神医学にもその足跡を残したが、彼の発表した多くの業績で最も重要なのは本来の神経病学の領域においてである。その中でも、多発性硬化症についての正確な症状学的記述(1863)、筋萎縮性側索硬化症の記述や脊髄癆の際の関節症の記述(1869)は有名であり、筋萎縮性側索硬化症は現在でもフランスではシャルコー病(maladie de Charcot)の名で知られている。また1886年にはピエール・マリー P. Marieとともにシャルコー・マリー筋萎縮症を発表し、1880年には脳と脊髄の局在について本を著わしている。優れた師でもあったシャルコーのもとからは、神経病学の分野でも多くの弟子達(バンビンスキー Babinski, ピエール・マリー P. Marie, ブリッソー Brissaud, スーク Souques, マリネスコ Marinescoら)が輩出している。わが国でも三浦謹之助が1890年代の始めにシャルコーのもとで神経学を学んだ。1893年8月16日(68歳)シャルコーは肺浮腫でなくなった。
(武正健一)