ヤスパース Karl Jaspers 1883〜1969  川村光毅のホームページへ

“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より(その後1993に新版)引用

 ドイツの精神医学者および実存哲学者。ハイデルベルク大学のニッスルF.Nisslのもとで、精神医学を学び、精神病理学に関する一連の論文を発表したが、1913年の「精神病理学総論」Allgemeine Psyschopathologieでそれらが集大成されている。それは方法論的に絶対化を排除し、現象学・了解心理学を用いて理想型的構成を行なおうと試みたものである。現象学の課題は、精神現象をありありと心に描き出して区別し、術語で厳密に規定する点にあるが、フッサール E. Husserlの現象学とは必ずしも同一のものではない。精神現象の横断面が静的了解により、縦断面が発生的了解によってわかるが、妄想においては発生的了解が不可能となり、精神分裂病の精神生活では直ちに了解できない限界に衝突するという。了解は説明とも対比され、説明が心の外部から自然科学的な因果関連を求めて無限に進行するものに対して、了解は心の内部の精神的なものを精神的なものから求めて了解関連にいたるものであり、ディルタイ W. Diltheyの了解と説明の区別に基づいているようである。この了解関連の全体から人格が構成され、同じように病像の要素から包括的な疾患単位が理想型的に構成される(ヴェーバー M. Weberの影響が大きい)。
もともとヤスパースには方法論的懐疑主義と診断的虚無主義ともいえる傾向が強く、実存的背景が強力であったが、とくに1946年の精神病理学の第4版では、了解心理学の対象としての人間の心は対象化できぬ包括者であり、了解は弁証法的なもので解釈学的循環をなしておこなわれ、了解が拠り所とする現象には無際限の解釈可能性があるため、心そのものは了解できないとする。このようなカントI. Kantの現象と物自体の区別にも似た不可知論は、彼が精神医学より実存哲学へ移った動機結果であるが、逆にいうと精神病者における精神療法の存在する余地を残すことにもなる。従来のグリージンガー W. Griesingerやウェルニッケ C. Wernickeの脳神話と、フロイトS. Freudの合理主義的・心理学的神話とを批判しつつ、意識的な精神現象という領域を了解という方法によって新たな精神病理学を樹立しようとした構想は、今日でも生きている点も多く、歴史的にも画期的業績であるが、実存哲学に陥る結果となった。その後圧倒的に哲学的著作の多いヤスパースの作品の中で、精神医学的貢献として病跡学的な「ストリンドベルクとヴォン・ゴッホ」Strindberg und Van Goch (1922)や「預言者エゼキエル」(1947)などがある。精神分裂病と芸術・宗教の関係を病跡学で考究しながら、精神病理学的研究と精神の世界とが別の世界に属することを述べている。ともかく彼の了解心理学は、シュナイダー K. SchneiderやグルーレH. Gruhleにも影響を与えたが、了解の限界、了解と説明などに関する批判も多い。

(前田利男)